直ぐ帰つて来るからね。」
 信一郎は、小声で云ひ訳のやうに云ひながら、妻の顔を、なるべく見ないやうに、車中の人となつた。
 が、ガソリンが爆発を始めて、将に動き出さうとする時だつた。信一郎は、周章《あわて》て窓から、首を出した。
「おい! 静子! おれの本箱の下の引き出しの、確か右だつたと思ふが、ノートが入つてる。それを持つて来ておくれ!」
「はい。」と云つて気軽に、立ち上つた妻は、二階から大急ぎで、そのノートを持つて降りて来た。
『これが、武器だ!』信一郎は、妻の手からそれを受けとりながら、心の中でさう叫んだ。
 爪黒《つまぐろ》の鹿の血と、疑着の相ある女の生血とを塗つた横笛が、入鹿《いるか》を亡ぼす手段の一つであるやうに、瑠璃子夫人の急所を突くものは、青木淳の残した此のノートの外にはないと、信一郎は思つた。

        三

 五番町までは、一瞬の間だつた。
 かうした行動に出たことが、いゝか悪いか迷ふ暇さへなかつた。信一郎の頭の中には、瑠璃子夫人の顔や、妻の静子の顔や、非業に死んだその男の顔や、今日|客間《サロン》で見たいろ/\な人々の顔が、嵐のやうに渦巻いてゐる丈だつた。が、その渦巻の中で彼は自ら強く決心した。『彼女の誘惑を粉砕せよ!』と。
 もう再びは潜るまいと決心した花崗岩の石門に、自動車は速力を僅に緩めながら進み入つた。もう再びは、足を踏むまいと思つた車寄せの石段を、彼は再び昇つた。が、先刻は夫人に対する讃美と憧れの心で、胸を躍らしながら、が、今は夫人に対する反感と憤怒とで、心を狂はせながら。
 取次ぎに出たものは、あの可愛い少年の代りに、十七ばかりの少女だつた。
「奥様がお待ちかねでございます。さあ、どうかお上り下さいませ。」
 信一郎は、それに会釈する丈《だけ》の心の余裕もなかつた。彼は黙々として、少女の後に従つた。
 少女は先刻の客間《サロン》の方へ導かないで、玄関の広間《ホール》から、直ぐ二階へ導く階段を上つて行つた。
「あの、お部屋の方にお通し申すやうに仰しやつてゐましたから。」
 信一郎が一寸躊躇するのを見ると、少女は振り返つてさう言つた。
 階段を昇り切つた取つ付きの部屋が、夫人の居間だつた。少女は軽く叩《ノック》したが、内から応ずる気勢《けはひ》がしなかつた。
「あら! いらつしやらないのかしら。それではどうか、お入りになつて、お待ち下さいませ。屹度《きつと》、お化粧部屋の方にいらつしやるのですから。」
 さう云つて、少女は扉《ドア》を開けた。
 信一郎は、おそる/\その華麗な室内に足を踏み入れた。部屋の中には、夫人の繊細な洗煉された趣味が、隅から隅まで、行き渡つてゐた。敷詰めてある薄桃色の絨毯にも、水色の窓掩ひにも、ピアノの上に載せてある一輪挿の花瓶にも、桃花心木《マホガニイ》の小さい書架に、並べてある美しい装幀の仏蘭西《フランス》の小説にも、雪のやうに白い絹で張りつめられた壁にかゝつてゐるクールベエらしい風景画にも炉棚《マンテルピース》の上の少女の青銅像《ブロンズ》にも、夫人の高雅な趣味が光つてゐた。凡ての装飾が、金で光つてゐる丈ではなく、その洗煉された趣味で光つてゐるのだつた。
 信一郎は、部屋の装飾に、現はれてゐる夫人の教養と趣味とに、接すると、昂めよう/\としてゐる反感が、何時の間にか、その鋭さを減じて行くやうな危険を、感ぜずにはゐられなかつた。
 が、かうした美しい部屋も、彼女の毒の花園なのだ。彼女が、異性を惑はす魅力の一つなのだ。信一郎は、さう云ふ風に考へ直しながら、青色の羽蒲団の敷いてある籐椅子に、腰をおろしてゐた。窓からは、宏大な庭園が、七月の太陽に輝いてゐるのが見えた。
 夫人は、なか/\姿を見せなかつた。小間使が氷の入つた果実汁《シロップ》を持つて来た後も、なかなか姿を見せなかつた。
 彼は、所在なさに、室内の装飾をあれからこれへと、見直してゐた。その裡に、ふと三尺とは離れてゐない卓《デスク》の上に、眼が付いた。其処には、先刻信一郎が受け取つたのと同じ色のレタアペイパアと、金飾の華やかな婦人持の万年筆とが、置かれてゐた。先刻の手紙は、恐らくこの桃花心木《マホガニイ》の小さい卓で書いたのに違ひない。さう思つて見てゐる中に、ふと一枚のレタアペイパアに、英語か仏蘭西語かが書かれてゐるのに気が付いた。彼の好奇心は、動いた。彼は、少し上体を、その方に延ばしながら、それを読んだ。
  (Shinichiro)
 彼は、自分の名前が書かれてゐるのに驚いた。が、その次ぎの二字を見たときに、彼の駭きは十倍した。
  (Shinichiro, my love !)
『信一郎、|わが恋人《マイラヴ》よ!』
 而も、その同じ句がそのレタアペイパアの上に、鮮かな筆触で幾つも/\走り書きされてゐるのだつた。

        四

『信一郎、|わが恋人《マイラヴ》よ!』
 信一郎の頭は、この短い文句でスツカリ掻き擾《みだ》されてしまつた。彼は十七八の少年か何かのやうに、我にも非ず、頬が熱くほてるのを感じた。夫人に対して、張り詰めてゐた心持が、ともすれば揺ぎ始めようとする。
 彼は、心の中で幾度も叫んだ。夫人の技巧の一つだ。誘惑の技巧の一つだ。自分の眼に入るやうに、わざとこんな文句を、書き散して置いたのだ。見え透いた技巧なのだ! が、さう云ふ考への後から、又別な考へが浮んで来た。あの悧口な聡明な夫人が、こんな露骨な趣味の悪い技巧を弄する訳はない! やつぱり、夫人の本心から出た自然の書き散しに違ひない。信一郎の心の中の男性に共通な自惚《うぬぼれ》が、ムク/\と頭を擡げようとする。あの先刻受け取つた手紙も、かうして見ると、夫人の本心を語つてゐるのかも知れない。夫人を妖婦のやうに思ふのも、みんな自分の邪推かも知れない。彼女は、男性との恋愛ごつこ[#「ごつこ」に傍点]に飽き/\してゐるのだ。彼女の周囲に、蒐まる胡蝶のやうな戯恋者に、飽き/\してゐるのだ。本当に、心をも身をも捨てゝかゝる、真剣な異性の愛に飢ゑてゐるのかも知れない。世馴れた色男《ダンディ》風の男性に、慊《あき》たらない彼女は、自分のやうな初心《うぶ》な生真面目な男性を求めてゐたのかも知れない。
 夫人に対する信一郎の敵意がもう半《なかば》崩れかけてゐる時だつた。
「御免下さいまし。」
 銀鈴に触れるやうな爽かな声と共に、夫人は静かに扉《ドア》をあけて入つて来た。
 湯上りらしく、その顔は、白絹か何かのやうに艶々しく輝いてゐた。縮緬の桔梗の模様の浴衣が、そのスツキリとした身体の輪廓を、艶美に描き出してゐた。
 わづか四五尺の間隔で、ぢつとその美しい眸を投げられると、信一郎の心は、催眠術にでもかゝつたやうな、陶酔を感ずるのを、何《ど》うともすることが出来なかつた。
「まあ! 本当によくいらつしやいましたこと。妾《わたくし》、もうあれ切りかと思ひましたの。もう、あれ切り来て下さらないのかと思つてゐましたよ。」
 信一郎が、彼女の入つて来たのを見て、立ち上らうとするのを、制しながら、信一郎と向きあつて小さい卓を隔てながら、腰を下した。
 信一郎は、ともすれば後退《あとじさ》りしさうな自分の決心に、頻りに拍車を与へながら、それでも最初の目的|通《どほり》、夫人と戦つて見ようと決心した。
「先刻《さつき》は大変失礼しましたこと。あの方達を帰してしまつた後で、ゆつくり貴君《あなた》とお話がしたかつたのよ。差し上げました御手紙御覧下すつて?」
「見ました。」
 信一郎は、自分の決心を、動かすまいと、しつかりと云ひ放つた。
「何うお考へ遊ばして?」
 夫人は、追窮するやうに、美しく笑ひながら訊いた。信一郎は、可なりハツキリした口調で云つた。
「貴女《あなた》の本当のお心持が、分らないものですから、何うお答へしてよいか当惑する丈《だけ》です。」
「あれでお分りにならないの。あれで、十分分つて下すつてもいゝと思ひますの。妾《わたくし》が、貴君のことを何う考へてゐますか。」
 夫人の顔に可なり、真剣な色が動いた。信一郎も、ある丈の力を以て云つた。
「奥さん! 何うか記憶して置いて下さい! 僕には妻がありますから、家庭がありますから、貴女の危険なお戯れのお相手は出来ませんから。」
 信一郎は、妻の静子の面影や、青木淳の死相を心の味方として、この強敵に向つてハツキリと断言した。

        五

 その刹那、夫人の顔が、遉《さすが》に鋭く緊張した。
「あら、貴君《あなた》までが、そんなことを考へていらつしやるの。妾《わたくし》が貴君の家庭を擾すやうな女だと思つていらつしやるの。貴君にも、やつぱり妾《わたくし》の真意が分つて下さらないのですわね。妾《わたくし》が、何を求めてゐるかが、やつぱり分つて下さらないのですわね。妾《わたくし》は、妾《わたくし》の周囲の戯恋者には飽き/\したと申してゐるではありませんか。妾《わたくし》は戯恋の相手ではなく、本当のお友達が欲しいのです。本当の男性らしい男性のお友達が欲しいのです。妾《わたくし》が、この方こそと思つてお選みした貴君からそんな誤解を受けるなんて、妾《わたくし》には忍びがたい恥辱ですわ。」
 さう云つてゐる夫人の顔には、もうあの美しい微笑は浮んでゐなかつた。少しく、忿怒を帯びた顔は、振ひ付きたいやうな美しさで、輝いてゐた。
 美しい夫人の顔に、忿怒の色が浮ぶのを見ると、信一郎は心の中で、可なりタヂ/\となつた。が、彼は自分のため、青木淳のため、また夫人その人のためにも、夫人の妖婦的な魂と、戦はねばならぬと決心した。彼は、夫人の美しい顔から、出来るだけ面《おもて》を背けながら云つた。
「いや! 貴女《あなた》のお心が、分らないのではありません。僕を、真のお友達として、多くの男性から選んで下さる。それは僕として、光栄です。が、奥さん! 僕は貴女から選まれると云ふことが可なり危険なことであるやうな気がするのです。僕は、安穏な家庭の幸福で、満足してゐる平凡な人間です。何うか僕を、このままに残して置いて下さい!」
 信一郎の語気は、可なり強かつた。
「まあ! 何と云ふことを仰しやるのです。妾《わたくし》を、爆弾か何かのやうに、触ることさへ、お嫌ひだと云ふのですね。」
 夫人は、半ば冗談のやうに、云はうとしたが、信一郎の心の中の敵意を、アリ/\と感じたと見え、先刻までの夫人とは、丸切《まるきり》違つたやうな鋭さが、その美しさの裏に、潜み初めてゐた。
「いや! 奥さん、こんなことを申し上げては、失礼かも知れませんが、僕は貴女に選まれて飛んだ目にあつたある男性のことを知つてゐるのです。その男も、真面目な初心《うぶ》な男でしたから、僕が貴女に選まれたのと、同じやうな意味で、貴女に選まれたのではないかと思ふのです。若《も》し、同じやうな意味で選まれたとすると、その男が飛んだ目に逢つたやうに、僕も何時かは、飛んだ目に逢ひさうです。はゝゝゝ。」
 信一郎は、懸命な勇気を以て、云ひ終ると調子外れの笑ひ方をした。彼は烈しい興奮のために、妙に上ずツてしまつてゐたのである。
 夫人の顔色が、一寸変つた。が、少しも取り擾す容子はなかつた。彼女は、信一郎の顔を、ぢつと見詰めて居たが、憫笑するやうな笑ひを、頬の辺《あたり》に浮べると、一寸腰を浮かして、傍の卓の上の呼鈴を押しながら云つた。
「貴君《あなた》と妾《わたくし》とは、やつぱり縁なき衆生だつたのですわね。やつぱりあれつ切りにして置けばよかつたのですわね。妾《わたくし》の思ひ違ひよ。貴君《あなた》を、スツカリ見損つてゐたのですわね。貴君《あなた》の躊躇や、臆病を、妾《わたくし》反対に解釈してゐたのですわ。妾《わたくし》男性の中で臆病な方が、一等嫌ひなのですわ。差し出された女の唇に、接吻を与へるほどの勇気さへないやうな男性が、一等嫌ひなのでございますよ。おほゝゝゝゝ。妾《わたくし》自身、御覧の通《とほり》のお転婆でございますから、やつぱり強い男性の方が、一等好きなのでございますよ。」
 信
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