まで、掻き擾《みだ》さうとしてゐる。静かな慎しい家庭と、温和な妻の心をまでも掻き擾さうとしてゐる。
信一郎は、当惑と恐怖とのために、暫くは、道の真中に立ち竦んだまゝ、何うしてよいか分らなかつた。その裡に、信一郎の絶望と、恐怖とは、夫人に対する激しい反抗に、変つて行つた。
温和《おとな》しい妻が、美しい、溌剌たる夫人の突然な訪問を受けて狼狽してゐる有様が、あり/\と浮んで来た。自分が、妻に内密で、ああした美しい夫人と、交りを結んでゐたと云ふことが、どんなに彼女を痛ましめたであらうかと思ふと、信一郎は一刻も、ぢつとしてはゐられなかつた。温和しい妻が夫人のために、どんなに云ひくるめられ、どんなに飜弄されてゐるかも知れぬと思ふと、一刻も逡巡してゐるときではないと思つた。自分の彼女に対する不信は、後でどんなにでも、許しを乞へばいゝ。今は妻を、美しい夫人の圧迫から救つてやるのが第一の急務だと思つた。
それにしても、夫人は何の恨みがあつて、これほどまで、執拗に自分を悩ますのであらう。自分を欺いて、客間へ招んで恥を掻かせた上に、自分の家庭をまで、掻き擾さうとするのであらうか。今は夫人の美しさに、怖れてゐるときではない。戦へ! 戦つて、彼女の僅に残つてゐるかも知れぬ良心を恥しめてやる時だ! さうだ! 死んだ青木淳のためにも、弔合戦を戦つてやる時だ! さう思ひながら、信一郎は必死の勇を振つて、敵の城の中へでも飛び込むやうな勢で、自分の家へ飛び込んだのである。
七
玄関先に立つてゐる、もしくは客間に上り込んでゐる妖艶な夫人の姿を、想像しながら、それに必死に突つかゝつて行く覚悟の臍《ほぞ》を固めながら、信一郎は自分の家の門を、潜つた。
見覚えのある運転手と助手とが、玄関に腰を下してゐるのが先づ眼に入つた。信一郎は、彼等を悪魔の手先か何かを見るやうに、憎悪と反感とで睨み付けた。が、夫人の姿は見えなかつた。手早く眼をやつた玄関の敷石の上にも、夫人の履物らしい履物は脱ぎ捨てゝはなかつた。信一郎は、少しは救はれたやうに、ホツとしながら、玄関へ入らうとした。
運転手は素早く彼の姿を見付けた。
「いやあ。お帰りなさいまし。先刻《さつき》からお待ちしてゐたのです。」
彼は、馴れ/\しげに、話しかけた。信一郎はそれが、可なり不愉快だつた。が、運転手は信一郎を、もつと不愉快にした。彼は、無遠慮に大きい声で、奥の方へ呼びかけた。
「奥さん! やつぱり、お帰りになりましたよ。何処へもお廻りにならないで、直ぐお帰りになるだらうと思つてゐたのです。」
運転手は、いかにも自分の予想が当つたやうに、得意らしく云つた。運転手が、さう云ふのを聴いて、信一郎は冷汗を流した。運転手と妻とが、どんな会話をしたかが、彼には明かに判つた。
「御主人はお帰りになりましたか。」
運転手は、最初さう訊ねたに違ひない。
「いゝえ、まだ帰りません。」
妻は、自身|若《も》しくは女中をしてさう答へさせたに違ひない。
「それぢや、お帰りになるのをお待ちしてゐませう。」
運転手は、さう云つたに違ひない。
「あの、会社の人達と一緒に、多摩川へ行きましたのですから、帰りは夕方になるだらうと思ひます。」
何も知らない、信一郎を信じ切つてゐる妻は、さう答へたに違ひない。それに対して、この無遠慮な運転手はかう言ひ切つたに違ひない。
「いゝえ、直ぐお帰りになります。只今私の宅からお帰りになつたのですから、外《よそ》へお廻りにならなければ三十分もしない裡に、お帰りになります。」
初めて会つた他人から、夫の背信を教へられて、妻は可なり心を傷けられながら赤面して黙つたに違ひない。さう思ふと、突然運転手などを寄越す瑠璃子夫人に、彼は心からなる憤怒を感ぜずにはゐられなかつた。
信一郎は、可なり激しい、叱責するやうな調子で運転手に云つた。
「一体何の用事があるのです?」
運転手は、ニヤ/\気味悪く笑ひながら、
「宅の奥様のお手紙を持つて参つたのです。何の御用事があるか私には分りません。返事を承はつて来い! お帰《かへり》になるまで、お待《まち》して返事を承はつて来い! と、申し付けられましたので。」
運転手は、待つてゐることを、云ひ訳するやうに云つた。
手紙を持つて来たと聴くと、信一郎は可なり狼狽した。妻に、内密《ないしよ》で、ある女性を訪問したことが露顕してゐる上に、その女性から急な手紙を貰つてゐる。さうしたことが、どんなに妻の幼い純な心を傷けるかと思ふと、信一郎は顔の色が蒼くなるまで当惑した。彼は、妻に知られないやうに、手早く手紙を受け取らうと思つた。
「手紙! 手紙なら、早く出したまへ!」
信一郎は、低く可なり狼狽した調子でさう云つた。
運転手が、何か云はうとする時に、夫の帰りを知つた妻が、急いで玄関へ出て来た。彼女は、夫の顔を見ると、ニコニコと嬉しさうに笑ひながら、
「お手紙なら、此方《こちら》にお預りしてありますのよ。」と、云ひながら、薄桃色の瀟洒な封筒の手紙を差し出した。暢達な女文字が、半ば血迷つてゐる信一郎の眼にも美しく映つた。
面罵
一
妻から、荘田夫人の手紙を差し出されて見ると、信一郎は激しい羞恥と当惑とのために、顔がほてるやうに熱くなつた。平素は、何の隔てもない妻の顔が、眩しいもののやうに、真面《まとも》から見ることが出来なかつた。
が、静子の顔は、平素《いつも》と寸分違はぬやうに穏かだつた。春のやうに穏かだつた。夫の不信を咎めてゐるやうな顔色は、少しも浮んでゐなかつた。見知らぬ女性から、夫へ突然舞ひ込んで来た手紙を、疑つてゐるやうな容子は、少しも見えなかつた。夫の帰宅を、いそ/\と出迎へてゐる平素の優しい静子だつた。
信一郎は、妻の神々しい迄に、慎しやかな容子を見ると、却つて心が咎められた。これほどまでに自分を信じ切つてゐる妻を欺いて、他の女性に、好奇心を、懐いたことを、後悔し心の中で懺悔した。
妻が差出した夫人の手紙が、悪魔からの呪符か何かのやうに、厭はしく感ぜられた。もし、人が見てゐなかつたら、それを、封も切らないで、寸断することも出来た。が、妻が見て居る以上、さうすることは却つて彼女に疑惑を起させる所以《ゆゑん》だつた。信一郎は、おづ/\と封を開いた。
手紙と共に封じ込められたらしい、高貴な香水の匂が、信一郎の鼻を魅するやうに襲つた。が、もうそんなことに依つて、魅惑せらるゝ信一郎ではなかつた。
彼は敵からの手紙を見るやうに警戒と憎悪とで、あわたゞしく貪るやうに読んだ。
[#ここから1字下げ]
『先刻《さつき》は貴君《あなた》を試したのよ。妾《わたくし》の客間へ、妾《わたくし》と戯恋《フラート》しに来る多くの男性と貴君が、違つてゐるか何《ど》うかを試したのですわ。妾《わたくし》は戯恋《フラート》することには倦き/\しましたのよ。本当の情熱がなしに、恋をしてゐるやうな真似をする。擬似恋愛《フラーテイション》! 妾《わたくし》は、それに倦き/\しましたのよ。身体や心は、少しも動かさないで、手先|丈《だけ》で、恋をしてゐるやうな真似をする。恋をしてゐるやうな所作|丈《だけ》をする。恋をしてゐるやうな姿勢|丈《だけ》を取る。妾《わたくし》は、妾《わたくし》の周囲に蒐まつてゐる、さうした戯恋者のお相手をすることには、本当に倦き/\しましたのよ。妾《わたくし》は真剣な方が、欲しいのよ。男らしく真剣に振舞ふ方が欲しいのよ。凡ての動作を手先丈でなく心の底から、行ふ方《かた》が欲しいのよ。
貴君《あなた》が忿然として座を立たれたとき、妾《わたくし》が止めるのも、肯かず、憤然として、お帰り遊ばす後姿《うしろすがた》を見たとき、この方《かた》こそ、何事をも真剣になさる方《かた》だと思ひましたの! 何事をなさるにも手先や口先でなく、心をも身をも、打ち込む方だと思ひましたの。妾《わたくし》が長い間、探《たづ》ねあぐんでゐた本当の男性だと思ひましたの。
信一郎様!
貴方《あなた》は妾《わたくし》の試《テスト》に、立派に及第遊ばしたのよ。
今度は、妾《わたくし》が試される番ですわ、妾《わたくし》は進んで貴方《あなた》に試されたいと思ひますの。妾《わたくし》が、貴方《あなた》のために、どんなことをしたか、どんなことをするか、それをお試しになるために、直ぐ此の自動車でいらしつて下さい!
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]瑠璃子』
手紙の文句を読んでゐる中《うち》に、瑠璃子夫人の怪《あや》しきまでに、美しい記憶が、殺されそこなつた蛇か何かのやうに、また信一郎の頭の中に、ムク/\と動いて来た。
夫人の手紙を、読んで見ると、夫人の心持が、満更虚偽ばかりでもないやうに、思はれた。あの美しい夫人は、彼女を囲む阿諛や追従や甘言や、戯恋に倦き/\してゐるのかも知れない。実際彼女は純真な男性を、心から求めてゐるかも知れない。さう思つてゐると、夫人の真紅の唇や、白き透き通るやうな頬が、信一郎の眼前に髣髴した。
が、次ぎの瞬間には青木淳の紫色の死顔や、今|先刻《さつき》見たばかりの、青木淳の弟の姿などが、アリアリと浮んで来た。
二
手紙を読んだ刹那の陶酔から、醒めるに従つて、夫人に対する憤《いきどほ》ろしい心持が、また信一郎の心に甦つて来た。かうした、人の心に喰ひ込んで行くやうな誘惑で、青木淳を深淵へ誘つたのだ。否青木淳ばかりではない、青木淳の弟も、あの海軍大尉も、否彼女の周囲に蒐まる凡ての男性を、人生の真面目な行路から踏み外させてゐるのだ。彼女を早くも嫌つて恐れて、逃れて来た自分にさへ、尚執念深く、その蜘蛛の糸を投げようとしてゐる。恐ろしい妖婦だ! 男性の血を吸ふ吸血鬼《ヴァンパイア》だ。さう思つて来ると、信一郎の心に、半面血に塗れながら、
『時計を返して呉れ。』
と絶叫した青年の面影が、又|歴々《あり/\》と浮かんで来た。さうだ! あの時計は、不得要領に捲上げらるべき性質の時計ではなかつたのだ! 青年の恨みを、十分に籠めて叩き返さなければならぬ時計だつたのだ! 殊に、青年の手記の中《うち》の彼女が、瑠璃子夫人であることが、ハツキリと分つてしまつた以上、自分にその責任が、儼として存在してゐるのだ。恐ろしいものだからと云つて、面《おもて》を背けて逃げてはならないのだ! 青年に代つて、彼が綿々の恨みを、代言してやる必要があるのだ! 青年に代つて、彼女の僅かしか残つてゐぬかも知れぬ良心を恥かしめてやる必要があるのだ! さうだ! 一身の安全ばかりを計つて逃げてばかりゐる時ではないのだ! さうだ! 彼女がもう一度の面会を望むのこそ、勿怪《もつけ》の幸である。その機会を利用して、青年の魂を慰めるために、青年の弟を、彼女の危険から救ふために、否凡ての男性を彼女の危険から救ふために、彼女の高慢な心を、取りひしいでやる必要があるのだ。
信一郎の心が、かうした義憤的な興奮で、充された時だつた。妻の静子は、――神の如く何事をも疑はない静子は、信一郎を促すやうに云つた。
「急な御用でしたら、直ぐいらしつては、如何でございます。」
妻のさうした純な、少しの疑惑をも、挟《さしはさ》まない言葉に、接するに付けても、信一郎は夫人に叩き返したいものが、もう一つ殖えたことに気が付いた。それは、夫人から受けた此の誘惑の手紙である。妻に対する自分の愛を、陰ながら、妻に誓ふため、夫人の面《おもて》に、この誘惑の手紙を、投げ返してやらねばならない。
信一郎の心は、今最後の決心に到達した。彼は、その白い面《おもて》を、薄赤く興奮させながら、妻に云ふともなく、運転手に命ずるともなく叫んだ。
「ぢや直ぐ引返すことにせう。早くやつてお呉れ!」
彼は、自分自身興奮のために、身体が軽く顫へるのを感じた。
「畏まりました、七分もかゝりません。」
さう云ひながら、運転手と助手とは、軽快に飛び乗つた。
「ぢや、静子、行つて来るからね。ホンの一寸だ!
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