よく分らないのですね。ぢや、左様なら。」
 夫人は、淡々として、さう云ひ切ると、グルリと身体を廻らして、客間の方へ歩き出した。
 夫人から引き止められてゐる内は、それを振切つて行く勇気があつた。が、かうあつさり[#「あつさり」に傍点]と軽く突き放されると、信一郎は何だか、拍子抜けがして淋しかつた。
 夫人と別れてしまふことに依つて、異常な絢爛な人生の悦楽を、味ふ機会が、永久に失はれてしまふやうにも思はれた。自分の人生に、明けかゝつた冒険《ロマンス》の曙が、またそのまゝ夜の方へ、逆戻りしたやうにも思はれた。
 が、危険な華やかな毒草の美しさよりも、慎しい、しをらしい花の美しさが、今彼の心の裡によみがへつた。
 淋しいしかし安心な、暗いしかし質素な心持で、彼は大理石の丸柱の立つた車寄を静《しづか》に下つた。もう此の家を二度と訪ふことはあるまい。あの美しい夫人の面影に、再び咫尺《しせき》することもあるまい。彼がそんなことを考へながら、トボ/\と門の方へ歩みかけた時だつた。彼はふと、門への道に添ふ植込みの間から、左に透けて見える庭園に、語り合つてゐる二人の男性を見たのである。彼は、その人影を見たときに、ゾツとして其処に立ち止まらずにはゐられなかつた。

        四

 信一郎が、駭いて立ち竦んだのも、無理ではなかつた。玄関から門への道に添ふ植込の間から、透けて見える、キチンと整つた庭園の丁度真中に、庭石に腰かけながら、語り合つてゐる二人の男を見たのである。
 二人の男を見たことに、不思議はなかつた。が、その二人の男が、両方とも、彼の心に恐ろしい激動を与へた。
 彼の方へ面を向けて、腰を下してゐる学生姿の男を見た時に、彼は思はず『アツ!』と、声を立てようとした。品のよい鼻、白皙の面《おもて》、それは自分の介抱を受けながら、横死した青木淳と瓜二つの顔だつた。それが、白昼の、かほど、けざやかな太陽の下の遭遇でなかつたならば、彼はそれを不慮の死を遂げた青年の亡霊と思ひ過つたかも知れなかつた。
 が、彼の理性が働いた。彼は一時は、駭いたものの直ぐその青年が、いつかの葬場で見たことのある青木淳の弟であることに、気が付いた。
 然し、彼が最初の駭きから、やつと恢復した時、今度は第二の駭きが彼を待つてゐた。青年と相対して語つてゐる男は、紛れもなく海軍士官の軍服を着けてゐる。海軍士官の軍服に気が付いたとき、信一郎の頭に、電光のやうに閃いたものは、村上海軍大尉といふ名前であつた。青年が、遺して行つた手記の中に出て来る村上海軍大尉と云ふ名前だつた。
 青木淳が、烈しい忿恨を以て、ノートに書き付けた文句が、信一郎の心に、アリ/\と甦つて来た。

[#ここから1字下げ]
『昨日自分は、村上海軍大尉と共に、彼女の家の庭園で、彼女の帰宅するのを待つてゐた。その時に、自分はふと、大尉がその軍服の腕を捲り上げて、腕時計を出して見てゐるのに気が付いた。よく見ると、その時計は、自分の時計に酷似してゐるのである。自分はそれとなく、一見を願つた。自分が、その時計を、大尉の頑丈な手首から、取り外したときの駭きは、何《ど》んなであつたらう。若《も》し、大尉が其処に居合せなかつたら、自分は思はず叫声を挙げたに違《ちがひ》ない。』
[#ここで字下げ終わり]

 信一郎は、青木淳の弟と語つてゐる軍服姿の男を見たときに、それが手記の中の村上大尉であることに、もう何の疑《うたがひ》もなかつた。もし、それが、村上海軍大尉であるとしたならば、青木淳と大尉との双方に、同じ白金《プラチナ》の時計を与へて、『これは、妾《わたくし》の貴君《あなた》に対する愛の印として、貴君に差し上げますのよ。本当は、かけ替のない秘蔵の品物ですけれど。』と、云ひながら二人を翻弄し去つた女性が、果して何人《なんぴと》であるかが、信一郎にはもうハツキリと分つてしまつた。
『汝妖婦よ!』
 彼は心の中《うち》で再びさう声高く、叫ばずにはゐられなかつた。
 が、信一郎の心を、もつと痛めたことは、兄が恐ろしく美しい蜘蛛の糸に操られて、悲惨な横死を――形は奇禍であるが、心は自殺を――遂げたと云ふことを夢にも知らないで、その肉親の弟が、又同じ蜘蛛の網に、ウカ/\とかゝりさうになつてゐることだつた。いや恐らくかゝつてゐるのかも知れない。いや、兄と同じやうに、もう白金《プラチナ》の時計を貰つてゐるのかも知れない。あゝして、話してゐる中《うち》に、相手の海軍大尉の腕時計に、気が付くのかも知れない。兄の血と同じ血を持つてゐる筈の弟は、それを見て兄と同じやうに激昂する。兄と同じやうに自殺を決心する。
 さう考へて来ると、信一郎は、烈々と輝いてゐる七月の太陽の下に、尚|周囲《あたり》が暗くなるやうに思つた。兄が陥つた深淵へ又、弟が陥ちかかつてゐる。それほど、悲惨なことはない。さう思ふと、信一郎は、
『おい! 君!』と、高声に注意してやりたい希望に動かされた。が、それと同時に、血を分けた[#「血を分けた」は底本では「血を分けて」]兄弟を、兄に悲惨な死を遂げしめた上に、更に弟をも近づけて、翻弄しようとする毒婦を憎まずにはゐられなかつた。
『汝妖婦よ!』彼は、心の中《うち》でもう一度さう叫んだ。が、信一郎が、これほど心を痛めてゐるにも拘らず、当の青年は、何が可笑《をか》しいのか、軽く上品に笑つてゐるのが、手に取るやうに聞えて来た。
 信一郎は、見るべからざるものを見たやうに、面《おもて》を背けて足早に門を駈け出《い》でたのである。

        五

 新宿行の電車に乗つてからも、信一郎の心は憤怒や憎悪の烈しい渦巻で一杯だつた。
 瑠璃子夫人こそ、白金《プラチナ》の時計を返すべき当の本人であることが解ると、夫人の美しさや気高さに対する讃嘆の心は、影もなくなつて、憎悪と軽い恐怖とが、信一郎の心に湧いた。
 青木淳の死の原因が、直接ではなくても、間接な原因が、自分であることを知りながら、嫣然として時計を受け取つた夫人の態度が、空恐しいやうに思ひ返された。『妾《わたくし》が預つて本当の持主に返して上げます。』と、事もなげに云ひ放つた夫人の美しい面影が、空恐ろしいやうに想ひ返された。

[#ここから1字下げ]
『が、彼女と面と向つて、不信を詰責しようとしたとき、自分は却つて、彼女から忍びがたい恥かしめを受けた。自分は小児の如く、翻弄され、奴隷の如く卑しめられた。而も美しい彼女の前に出ると、唖のやうにたわいもなく、黙り込む自分だつた。自分は憤《いきどほり》と恨《うらみ》との為にわな/\顫へながら而も指一本彼女に触れることが出来なかつた。自分は力と勇気とが、欲しかつた。彼女の華奢な心臓を、一思ひに突き刺し得る丈《だけ》の力と勇気とを。……彼女を心から憎みながら、しかも片時も忘れることが出来ない。彼女が彼女のサロンで多くの異性に取囲まれながら、あの悩ましき媚態を惜しげもなく、示してゐるかと思ふと、自分の心は、夜の如く暗くなつてしまふ。自分が彼女を忘れるためには、彼女の存在を無くするか、自分の存在を無くするか二つに一つだと思ふ。……さうだ、一層《いつそ》死んでやらうかしら。純真な男性の感情を弄ぶことが、どんなに危険であるかを、彼女に思ひ知らせてやるために。さうだ、自分の真実の血で、彼女の偽《いつはり》の贈物を、真赤に染めてやるのだ。そして、彼女の僅に残つてゐる良心を、恥《はづか》しめてやるのだ。』
[#ここで字下げ終わり]

 青木淳の遺して逝つた手記の言葉が、太陽の光に晒されたやうに、何の疑点もなくハツキリと解つて来た。彼女が、瑠璃子夫人であることに、もう何の疑ひもなかつた。純真な青年の感情を弄んで彼を死に導いた彼女が、瑠璃子夫人であることに、もう何の疑ひもなかつた。
『汝妖婦よ!』
 信一郎は、十分な確信を以て、心の中でさう叫んだ。青年は、彼女に対して、綿々の恨《うらみ》を呑んで死んだのである。白金《プラチナ》の時計を『返して呉れ。』と云ふことは、『叩き返して呉れ。』と云ふことだつたのだ。彼女の僅に残つてゐる良心を恥かしめてやるために、叩き返して呉れと云ふことだつた。
 さうだ! それを信一郎は、瑠璃子夫人のために、不得要領に捲き上げられてしまつたのである。
『取り返せ。もう一度取り返せ! 取り返してから、叩き返してやれ!』
 信一郎の心に、さう叫ぶ声が起つた。『それで彼女の僅に残つてゐる良心を恥かしめてやれ。お前は死者の神聖な遺託に背いてはならない。これから取つて返して、お前の義務を尽さねばならない。あれほど青年の恨《うらみ》の籠つた時計を、不得要領に、返すなどと云ふことがあるものか。もう一度やり直せ。そしてお前の当然な義務を尽せ。』
 信一郎の心の中の或る者が、さう叫び続けた。が、心の中《うち》の他の者は、かう呟いた。
『危きに近寄るな。お前は、あの美しい夫人と太刀打が出来ると思ふのか。お前は、今の今迄危く夫人に翻弄されかけてゐたではないか。夫人の張る網から、やつと逃れ得たばかりではないか。お前が血相を変へて駈付けても、また夫人の美しい魅力のために、手もなく丸められてしまふのだ。』
 かうした硬軟二様の心持の争ひの裡に、信一郎は何時の間にか、自分の家近く帰つてゐた。停留場からは、一町とはなかつた。
 電車通を、右に折れたとき、半町ばかり彼方の自分の家の前あたりに、一台の自動車が、止つてゐるのに気が付いた。

        六

 信一郎の興奮してゐた眸には、最初その自動車が、漠然と映つてゐる丈《だけ》だつた。それよりも、彼は自分の家が、近づくに従つて、『社の連中と多摩川へ行く。』などと云ふ口実で、家を飛び出しながら、二時間も経たない裡に、早くも帰つて行くことが、心配になり出した。また早く、帰宅したことに就いて、妻を納得させる丈《だけ》の、口実を考へ出すことが、可なり心苦しかつた。彼は、電車の中でも、何処か外で、ゆつくり時間を潰して、夕方になつてから、帰らうかとさへ思つた。が、彼の本当の心持は、一刻も早く家に帰りたかつた。妻の静子の優しい温順な面影に、一刻も早く接したかつた。危険な冒険を経た者が、平和な休息を、只管《ひたすら》欲するやうに、他人との軋轢や争ひに胸を傷つけられ、瑠璃子夫人に対する幻滅で心を痛めた信一郎は、家庭の持つてゐる平和や、妻の持つてゐる温味の裡に、一刻も早く、浴したかつたのである。縦令《たとひ》、もう一度妻を欺く口実を考へても、一刻も早く家に帰りたかつたのである。
 が、彼が一歩々々、家に近づくに従つて、自分の家の前に停つてゐる自動車が、気になり出した。勿論、此の近所に自動車が、停つてゐることは、珍らしいことではなかつた。彼の家から、つい五六軒向うに、ある実業家の愛妾が、住つてゐるために、三日にあげず、自動車がその家の前に、永く長く停まつてゐた。今日の自動車も、やつぱり何時もの自動車ではないかと、信一郎は最初思つてゐた。が、近づくに従つて、何時もとは、可なり停車の位置が違つてゐるのに気が付いた。何うしても、彼の家を訪ねて来た訪客が、乗り捨てたものとしか見えなかつた。
 が、段々家に近づくに従つて、恐ろしい事実が、漸く分つて来た。何だか見たことのある車台だと云ふ気がしたのも、無理ではなかつた。それは、紛れもなくあの青色大型の、伊太利《イタリー》製の自動車だつた。信一郎も一度乗つたことのある、あの自動車だつた。さうだ、此の前の日曜の夜に、荘田夫人と同乗した自動車に、寸分も違つてゐなかつた。
 夫人が、訪ねて来たのだ! さう思つたときに、信一郎の心は、激しく打ち叩かれた。当惑と、ある恐怖とが、胸一杯に充ち満ちた。
 出先で、妖怪に逢ひ這々《はふ/\》の体で自分の家に逃げ帰ると、その恐ろしい魔物が、先廻りして、自分の家に這入り込んでゐる。昔の怪譚にでもありさうな、絶望的な出来事が、信一郎の心を、底から覆してしまつた。瑠璃子夫人の美しい脅威に戦いて、家庭の平和の裡に隠れようとすると、相手は、先廻りして、その家庭の平和を
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