、三宅君と期せずして意見を同じくしたのは、光栄ですね。」
一座は、秋山氏の皮肉を、又ドツと笑つた。その笑が静まるのを待ち兼ねて、三宅が云つた。
「今僕が、その『金色夜叉』通俗小説論を持ち出したのです。すると、渥美さんが云はれるのです。現在の我々の標準で律すれば、『金色夜叉』は通俗小説かも知れない。が、作品を論ずるには、その時代を考へなければならない。文学史的に見なけばならない。かう仰しやるのです。」
「文学史的に見る。それは卓見だ。」秋山氏は、ニヤ/\と冷笑とも微笑とも付かぬ笑ひを浮べながら云つた。
「だが、紅葉山人と同時代の人間が、みんな我々の眼から見て、通俗小説を書いてゐるのなら、『金色夜叉』が通俗小説であつても、一向差支ないが、紅葉山人と同時代に生きてゐて、我々の眼から見ても、立派な芸術小説をかいてゐる人が外にあるのですからね。幾何《いくら》文学史的に見ても、紅葉を第一の小説家として、許すことは僕には出来ませんね。文学史的に見れば、紅葉山人などは、明治文学の代表者と云ふよりも、徳川時代文学の殿将ですね。あの人の考へ方にも、観方にも描き方にも、徳川時代文学の殼が、こびりついてゐるぢやありませんか。」
遉《さすが》の信一郎も、黙つてゐることは出来なかつた。
「さう云ふ観方をすれば、明治時代の文学は、全体として徳川時代の文学の伝統を引いてゐるぢやありませんか。何も、紅葉一人|丈《だけ》ぢやないと思ひますね。」
「いや、徳川時代文学の糟粕などを、少しも嘗めないで、明治時代独特の小説をかいてゐる作家がありますよ。」
「そんな作家が、本当にありますか。」
信一郎も可なり激した。
「ありますとも。」
秋山氏は、水の如く冷たく云ひ放つた。
汝妖婦よ
一
「誰です。一体その人は。」
信一郎は、可なり急き込んで訊いた。
が、秋山氏は落着いたまゝ、冷然として云つた。
「然し、かう云ふ問題は、銘々の主観の問題です。僕が、此の人がかうだと云つても、貴君《あなた》にそれが分らなければ、それまでの話ですが、兎に角云つて見ませう。それは、誰でもありません。あの樋口一葉です。」
秋山氏は、それに少しの疑問もないやうに、ハツキリと云ひ切つた。
瑠璃子夫人は、それを聴くと、躍り上るやうにして欣んだ。
「一葉! 妾《わたくし》スツカリ忘れてゐましたわ。さう/\一葉がゐますね。妾《わたくし》が、今まで読んだ小説の女主人公の中で、あの『たけくらべ』の中の美登利ほど好きな女性はないのですもの。」
「御尤もです。勝気で意地つ張なところが貴女《あなた》に似てゐるぢやありませんか。」
秋山氏は、夫人を揶揄するやうに云つた。
「まさか。」
と、夫人は打ち消したが、其の比較が、彼女の心持に媚び得たことは明かだつた。
「一葉! さう/\あれは天才だ、夭折した天才だ! 一葉に比べると、紅葉なんか才気のある凡人に過ぎませんよ。」
小山男爵は、信一郎に云ひ伏せられた腹癒《はらいせ》がやつと出来たやうに、得々として口を挟んだ。
「さうだ! 『たけくらべ』と『金色夜叉』とを比べて見ると、どちらが通俗小説で、どちらが芸術小説だか、ハツキリと分りますね。渥美さんの御意見ぢや、『金色夜叉』よりも六七年も早く書かれた『たけくらべ』の方が、もつと早く通俗小説になつて居る筈だが、我々が今読んでも『たけくらべ』は通俗小説ぢやありませんね。決してありませんね。」
三宅も、信一郎の方を意地悪く見ながら、さう云つた。
其処にゐた多くの人々も、銘々に口を出した。
「『たけくらべ』! ありや明治文学第一の傑作ですね。」
「ありや、僕も昔読んだことがある。ありや確《たしか》にいゝ。」
「あゝさう/\、吉原の附近が、光景になつてゐる小説ですか、それなら私も読んだことがある。坊さんの息子か何かがゐたぢやありませんか。」
「女主人公が、それを潜《ひそか》に恋してゐる。が、勝気なので、口には云ひ出せない。その中に、一寸した意地から不和になつてしまふ。」
「信如とか何とか云ふ坊さんの子が、下駄の緒を切らして困つてゐると、美登利が、紅入友禅か何かの布片《きれ》を出してやるのを、信如が妙な意地と遠慮とで使はない。あの光景なんか今でもハツキリと思ひ出せる。」
代議士の富田氏までが、そんなことを云ひ出した。かうした一座の迎合を、秋山氏は冷然と、聴き流しながら、最後の断案を下すやうに云つた。
「兎に角、明治の作家の中《うち》で、本当に人間の心を描いた作家は、一葉の外にはありませんからね。硯友社の作家が、文章などに浮身を窶して、本当に人間が描けなかつた中で、一葉丈は嶄然として独自の位置を占めてゐますからね。一代の驕児高山樗牛が、一葉|丈《だけ》には頭を下げたのも無理はありませんよ。僕は明治時代第一の文豪として一葉を推しますね。」
秋山氏は、如何にも芸術家らしい冷静と力とを以て、昂然とさう云ひ放つた。
信一郎は、もう先刻からぢり/\と湧いて来る不愉快さのために、一刻もぢつとしてはゐられないやうな心持だつた。凡てが不愉快だつた。凡てが、癪に触つた。樫の棒をでも持つて、一座の人間を片ツ端から、殴り付けてやりたいやうにいら/\してゐた。
さうした信一郎の心持を、知つてか知らずにか、夫人は何気ないやうに微笑しながら、
「渥美さん! しつかり遊ばしませ。大変お旗色が悪いやうでございますね。」
二
信一郎が、フラ/\と立ち上るのを見ると、皆は彼が大に論じ始めるのかと思つてゐた。が、今彼の心には、樋口一葉も尾崎紅葉もなかつた。たゞ、瑠璃子夫人に対する――夫人の移り易きこと浮草の如き不信に対する憎みと、恨みとで胸の中が燃え狂つてゐたのだつた。
彼は一刻も早く此席を脱したかつた。彼は其処に蒐まつてゐる男性に対しても、激しい憎悪と反感とを感ぜずにはゐられなかつた。
「奥さん! 僕は失礼します。僕は。」
彼は、感情の激しい渦巻のために、何と挨拶してよいのか分らなかつた。
彼は、吃りながら、さう云つてしまふと、泳ぐやうな手付で、並んだ椅子の間を分けながら扉《ドア》の方へ急いだ。
遉《さすが》に一座の者は固唾を飲んだ。今まで瑠璃子夫人を挟《さしは》さんで、鞘当的な論戦の花が咲いたことは幾度となくあつたが、そんな時に、形もなく打ち負された方でも、こんなにまで取り擾したものは一人もなかつた。
真蒼な顔をして、憤然として、立ち出でて行く信一郎を、皆は呆気に取られて見送つた。
信一郎は、もう美しい瑠璃子夫人にも何の未練もなかつた。後に残した華やかな客間を、心の中で唾棄した。夫人の艶美な微笑も蜜のやうな言葉も、今は空の空なることを知つた。否、空の空なるか、ではなくして、その中に恐ろしい毒を持つてゐることを知つた。それは、目的のための毒ではなくして、毒のための毒であることを知つた。彼女は、目的があつて、男性を翻弄してゐるのではなく、たゞ翻弄することの面白さに、翻弄してゐることを知つた。自分の男性に対する魅力を、楽しむために、無用に男性を魅してゐることを知つた。丁度、激しい毒薬の所有者が、その毒の効果を自慢して妄《みだり》に人を毒殺するやうに。
『汝妖婦よ!』
信一郎は、心の中で、さう叫び続けた。彼は、客間から玄関までの十間に近い廊下を、電光の如くに歩んだ。
周章《あわ》てゝ見送らうとする玄関番の少年にも、彼は一瞥をも与へなかつた。
彼は突き破るやうな勢ひで、玄関の扉に手をかけた。
が、その刹那であつた。
信一郎の興奮した耳に、冷水を注ぐやうに、
「渥美さん! 渥美さん! 一寸お待ち下さい。」と、云ふ夫人の美しい言葉が聞えて来た。信一郎はそれを船人の命を奪ふ妖魚《サイレン》の声として、そのまゝ聞き流して、戸外へ飛び出さうと思つた。が、彼のさうした決心にも拘はらず、彼の右の手は、しびれたやうに、扉《ドア》の把手《ハンドル》にかゝつたまゝ動かなかつた。
「何うなすつたのです。本当にびつくりいたしましたわ。何をそんなにお腹立ち遊ばしたの。」夫人は小走りに信一郎に近づきながら、可愛い小さい息をはずませながら云つた。
心配さうに見張つた黒い美しい眸、象牙彫のやうに気高い鼻、端正な唇、皎い艶やかな頬、かうした神々しい※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《らふ》たけた夫人の顔を見てゐると、彼女に嘘、偽りが、夢にもあらうとは思はれなかつた。彼女の微笑や言葉の中に、微塵賤しい虚偽が、潜んでゐようとは思はれなかつた。
「何《ど》うして、そんなに早くお帰り遊ばすの。妾《わたくし》、皆さんがお帰りになつた後で、貴君と丈《だけ》で、ゆつくりお話してゐたかつたの。秋山さんと云ふ方は、本当にあまんじやく[#「あまんじやく」に傍点]よ。反対のために反対していらつしやるのですもの。それをまた、みんなが迎合するのだから、厭になつてしまひますわね。客間《サロン》にいらつしやるのがお厭なら、図書室《ライブラリー》の方へ、御案内いたしますわ。あなたのお好きな『紅葉全集』でも、お読みになつて、待つていらつしやいませ。妾《わたくし》、もう三十分もすれば、何とか口実を見付けて、皆さんに帰つていたゞきますわ。ほんの少しの間、待つてゐて下さらない?」
三
『ほんの少し待つてゐて下さらない?』と、云ふ夫人の言葉を聴くと、『汝妖婦よ!』と、心の中で叫んでゐた信一郎の決心も、またグラ/\と揺がうとした。
が、彼は揺がうとする自分の心を、辛うじて、最後の所で、グツと引き止めることが出来た。お前はもう既に、夫人の蜜のやうな言葉に乗ぜられて、散々な目にあつたではないか。再びお前は、夫人から何を求めようとしてゐるのだ。お前が夫人の言葉を信ずれば、信ずるほど、夫人のお前に与ふるものは、幻滅と侮辱との外には、何もないのだ。男性の威厳を思へ! 今日夫人から受けた幻滅と侮辱とは、まだ夫人に対するお前の幻覚を破るのに足りなかつたのか。男性の威厳を思へ! 夫人の言葉をスツパリと突き放してしまへ! 信一郎の心の奥に、弱いながら、さう叫ぶ声があつた。
信一郎は、心の中に夫人の美しさに、抵抗し得る丈《だけ》の勇気を、やつと蒐めながら云つた。
「でも、奥さん! 私、このまゝお暇いたした方がいゝやうに思ふのです。あゝした立派な方が蒐まつてゐる客間には、私のやうな者は全く無用です。どうも、大変お邪魔しました。」
信一郎は、可なりキツパリと断りながら、急いで踵《くびす》を返さうとした。
「まあ! 貴君《あなた》、何をそんなにお怒り遊ばしたの、何か妾《わたくし》が貴君《あなた》のお気に触るやうなことをいたしましたの。折角いらして下すつて、直ぐお帰りになるなんて、余《あんま》りぢやありませんか。客間に蒐まつていらつしやる方なんて、妾《わたくし》仕方なくお相手いたしてをりますのよ。妾《わたくし》が、妾《わたくし》の方から求めてお友達になりたいと思つたのは、本当は貴君《あなた》お一人なのですよ。」
信一郎は、さう云ひながら、何事もないやうに、笑つてゐる夫人の美しさに、ある凄味をさへ感じた。夫人の口吻《くちぶり》から察すれば、夫人は周囲に集まつてゐる男性を、蠅同様に思つてゐるのかも知れない。もし、さうだとすると、信一郎なども、新来の初心な蠅として、たゞ一寸した珍しさに引き止められてゐるのかも知れない。さうした上部《うはべ》丈《だ》けの甘言に乗つて、ウカ/\と夫人の掌上などに、止まつてゐる中には、あの象牙骨の華奢な扇子か何かで、ピシヤリと一打《ひとうち》にされるのが、当然の帰結であるかも知れないと信一郎は思つた。
「でも、今日は帰らせていたゞきたいと思ひます。又改めて伺ひたいと思ひますから。」
信一郎は、可なり強くなつて、キツパリと云つた。
夫人も、遉《さすが》にそれ以上は、勧めなかつた。
「あらさう。何うしてもお帰りになるのぢや仕方がありませんわ。やつぱり、妾《わたくし》の心持が、貴方《あなた》には
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