ることだが、僕には全然通俗小説だと思はれるのです。」
 若い文科大学生は、何の遠慮もしないで、彼の信念を昂然と語つた。
「それは、貴君《あなた》が作品と時代と云ふことを考へないからです。現在の文壇の標準から云へば、『金色夜叉』の題目《テーマ》なんか、通俗小説に違《ちがひ》ないです。が、然しそれは『金色夜叉』の書かれた明治三十五年から、現在まで二十年も経過してゐることを忘れてゐるからです。現在の文壇で、貴君が芸術的小説だと信じてゐるものでも、二十年も経てば、みんな通俗小説になつてしまふのです。過去の作品を論ずるのには、時代と云ふことを考へなければ駄目です。『金色夜叉』は今読めば通俗小説かも知れませんが、明治時代の文学としては、立派な代表的作品です。」
 信一郎は、思ひの外に、スラ/\と出て来る自分の雄弁に興奮してゐた。
「過去の文学を論ずるには、やはり文学史的に見なければ駄目です。」
 彼は、きつぱりと断定するやうに云つた。
「それもさうですわね。」
 瑠璃子夫人は、信一郎の素人離れした主張を、感心したやうに、しみ/″\さう云つた。信一郎は俄に勇敢になつて来た。

        五

 瑠璃子夫人が、新来の信一郎、殊に文学などの分りさうもない会社員の信一郎の言葉に、賛成したのを見ると、今度は三宅と小山男爵との二人が、躍気になつた。
 殊に青年の三宅は、その若々しい浅黒い顔を、心持薄赤くしながら可なり興奮した調子で云つた。
「時代が経てば、どんな芸術的小説でも、通俗小説になる。そんな馬鹿な話があるものですか。芸術的小説は何時が来たつて、芸術的小説ですよ。日本の作家でも、西鶴などの小説には、何時が来ても亡びない芸術的分子がありますよ。天才的な閃《ひらめき》がありますよ。それに比べると、尾崎紅葉なんか、徹頭徹尾通俗小説ですよ。紅葉の考へ方とか物の観方と云ふものは、常識の範囲を、一歩も出てゐないのですからね。たゞ、洗練された常識に過ぎないのですよ。例へば『三人妻』など云ふ作品だつて如何にも三人の妻の性格を描き分けてあるけれども、それが世間に有り触れた常識的|型《タイプ》に過ぎないのですからね。紅葉を以て、明治時代の文学的常識を、代表させるのなら差支へないが、第一の文豪として、紅葉を推す位なら、むしろ露伴柳浪美妙、そんな人の方を僕は推したいね。」
 三宅の語り終るのを待ち兼ねたやうに、小山男爵は、横から口を入れた。
「第一『金色夜叉』なんか、あんなに世間で読まれてゐると云ふことが、通俗小説である第一の証拠だよ。万人向きの小説なんかに、碌なものがある訳はないからね。」
 二人の、攻撃的な挑戦的な口調を聴いてゐると、信一郎もつい、ムカ/\となつてしまつた。瑠璃子夫人はと見ると、その平静な顔に、嗾《けし》かけるやうな微笑を湛へて、『貴君《あなた》も負けないで、しつかりおやりなさい。』と、云ふやうに信一郎の顔を見てゐた。
「それは可笑《をか》しいですな。」
 さう云ひながら、信一郎は何処か貴族的な傲慢さが、漂《たゞよ》うてゐる小山男爵の顔をぢつと見た。
「そんな暴論はありませんよ。広く読まれてゐるのが、通俗小説の証拠ですつて、そんな暴論はないと思ひますね。さう云ふ議論をすれば、沙翁《シエクスピア》の戯曲だつて、通俗戯曲だと云ふことになるぢやありませんか。ホーマアの詩だつて、ダンテの神曲だつて、みんな広く読まれてゐると云ふ点で、通俗的作品と云ふことになりさうですね。僕は、さうは思ひませんよ。それと反対に、立派な芸術的作品ほど、時代が経てば、だん/\通俗化して行くのだと思ふのですね。トルストイの作品が日本などでも段々通俗化して来たやうに、通俗化して行かない作品こそ、却つて何かの欠陥があると思ふのですね。御覧なさい! 馬琴でも西鶴でも、通俗化して行けばこそ、後代に伝はるのぢやありませんか。『金色夜叉』が通俗化してゐるからと云つて、あの小説の芸術的価値を否定することは出来ませんよ。僕は芸術的に秀《すぐ》れてゐればこそ、民衆の教養が進むに従つて、段々通俗化して行つたのだと思ふのです。紅葉の考へ方や、観方はいかにも常識的かも知れません。が、然し作品全体の味とかその表現などにこそ、却つて芸術的な価値があるのぢやありませんか。あの作品の規模の大きさから云つても、画面的に描き出す手腕から云つても、明治時代無二の作家と云つてもよいと思ふのです。いや、あの鼈甲《べつかふ》牡丹のやうに、絢爛華麗な文章|丈《だけ》を取つても、優に明治文学の代表者として、推す価値が十分だと思ふのです。」
 信一郎は、可なり熱狂して喋つた。法科に籍を置いてゐたが、高等学校に入学の当時には、父の反対さへなければ、欣んで文科をやつた筈の信一郎は、文学に就ては自分自身の見識を持つてゐた。
 信一郎の意外な雄弁に、半可な文学通に過ぎない小山男爵は、もうとつくに圧倒されたと見え、その白い頬を、心持赤くしながら、不快さうに黙つてしまつた。
 三宅は、云ひ込められた口惜しさを、何うかして晴さうと、駁論の筋道を考へてゐるらしく口の辺りをモグ/\させてゐた。
「渥美さんは、本当に立派な文芸批評家でいらつしやる。妾《わたくし》全く感心してしまひましたわ。」
 瑠璃子夫人は、心から感心したやうに、賞讃の微笑を信一郎に注いだ。
 信一郎は、女王の御前仕合で、見事な勝利を獲た騎士のやうに、晴れがましい揚々たる気持になつてゐた。
「然し……」と、三宅と云ふ青年が、必死になつて駁論を初めようとした時だつた。
 廊下に面した扉《ドア》を、外からコツ/\と叩く音がした。

        六

「誰方《どなた》!」
 夫人は、扉《ドア》を叩く音に応じてさう云つた。
「僕です。」
 外の人は明晰な、美しい声でさう答へた。
「あら、秋山さんなの。丁度よいところへ。」
 夫人は、さう云ひながら、いそ/\と椅子を離れた。信一郎が、入つて来たときは、夫人はたゞ椅子から、腰を浮かした丈《だけ》だつたのに。
 夫人が、手づから扉《ドア》を開けると、『僕です。』と、名乗つた男は、軽く会釈をしながら、入つて来た。信一郎は、一目見たときに、何処かで見覚えのある顔だと思つたが、一寸思ひ出せなかつた。が、一目見た丈《だけ》で、作家か美術家であることは、直ぐ解つた。白い面長な顔に、黒い長髪を獅子の立髪か何かのやうに、振り乱してゐた。が、頭は極端に奔放であるにも拘はらず、薩摩上布の衣物《きもの》に、鉄無地の絽の薄羽織を着た姿は、可なり瀟洒たるものだつた。夫人はその男とは、立ちながら話した。
「暫く御無沙汰致しました。」
「ほんたうに長い間お見えになりませんでしたのね。箱根へお出でになつたつて、新聞に出てゐましたが、行らつしやらなかつたの。」
「いや、何処へも行きやしません。」
「それぢや、やつぱり例の長篇で苦しんでゐらしつたの。本当に、妾《わたくし》の家へいらつしやる道を忘れておしまひになつたのかと思つてゐましたの。ねえ! 三宅さん。」
 夫人は、三宅と云ふ学生を顧みた。
「やあ!」
「やあ!」
 三宅とその男とは顔を見合して挨拶した。
「本当に、暫らくお見えになりませんでしたね。貴君《あなた》が、いらつしやらないと、此処の客間《サロン》も淋しくていけない。」
 三宅は、後輩が先輩に迎合するやうな、口の利き方をした。
「さあ! 秋山さん! 此方《こつち》へお掛けなさいませ。本当によい所へ入《い》らしつたわ。今貴君に断定を下していたゞきたい問題が、起つてゐますのよ。」
 さう云ひながら、今度は夫人自ら、空いた椅子を、自分の傍へ、置き換へた。
「さあ! お掛けなさいませ! 貴君の御意見が、伺ひたいのよ。ねえ! 三宅さん!」
 信一郎に、説き圧《お》されてゐた三宅は、援兵を得たやうに、勇み立つた。
「さあ、是非秋山さんの御意見を伺ひたいものです。ねえ! 秋山さん、今明治時代の第一の小説家は、誰かと云ふ問題が、起つてゐるのですがね、貴君《あなた》のお考へは、何うでせう。かう云ふ問題は、専門家でなければ駄目ですからね。」
 三宅は、最後の言葉を、信一郎に当てこするやうに云つた。瑠璃子夫人までが、その最後の言葉を説明するやうに信一郎に云つた。
「此の方、秋山正雄さん、御存じ! あの赤門派の新進作家の。」
 秋山正雄、さう云はれて見れば、最初見覚えがあると思つたのは、間違つてゐなかつたのだ。信一郎が一高の一年に入つた時、その頃三年であつた秋山氏は文科の秀才として、何時も校友会雑誌に、詩や評論を書いてゐた。それが、大学を出ると、見る間に、メキ/\と売り出して、今では新進作家の第一人者として文壇を圧倒するやうな盛名を馳せてゐる。その上、教養の広く多方面な点では若い小説家としては珍らしいと云はれてゐる人だつた。
 信一郎は、自分が有頂天になつて、喋べつた文学論が、かうした人に依つて、批判される結果になつたかと思ふと、可なりイヤな羞しい気がした。有頂天になつてゐた彼の心持は忽ち奈落の底へまで、引きずり落された。場合に依つては、此の教養の深い文学者――しかも先輩に当つてゐる――と、文学論を戦はせなければならぬかと思ふと、彼は思はず冷汗が背中に湧いて来るのを感じた。
 信一郎の心が、不快な動揺に悩まされてゐるのを外《よそ》に、秋山氏は、今火を点《つ》けた金口の煙草を燻《くゆ》らしながら、落着いた調子で云つた。
「それは、大問題ですな。僕の意見を述べる前に、兎に角皆様の御意見を承はらうぢやありませんか。」
 さう云ひながら、秋山氏は額に掩ひかかる長髪を、二三度続けざまに後へ掻き上げた。

        七

「大分いろ/\な御意見が出たのですがね。茲《ここ》にいらつしやる渥美君、確かさう仰《おつ》しやいましたね。」三宅は、一寸信一郎の方を振り顧つた。「大変紅葉をお説きになるのです。紅葉を措いて明治時代の文豪は、外にないだらうと、かう仰しやるのです。文章|丈《だけ》を取つても、鼈甲《べつかふ》牡丹のやうな絢爛さがあるとか何とか仰《おつ》しやるのです。」
 三宅が、秋山氏に信一郎の持説を伝へてゐる語調の中には、『此の素人が』と云つた語気が、ありありと動いてゐた。秋山氏は、いかにも小説家らしく澄んだ眼で、信一郎の方をジロリと一瞥したが、吸ひさしの金口の火を、鉄の灰皿で、擦り消しながら、「鼈甲牡丹の絢爛さ! なるほど、うまい形容だな。だが、擬《まがひ》の鼈甲牡丹なら三四十銭で、其処らの小間物屋に売つてゐさうですね。」
 瑠璃子夫人を初め、一座の人々が、秋山氏の皮肉を、どつと笑つた。
「紅葉山人の絢爛さも、きイちやん、みイちやん的読者を欣ばせる擬《まがひ》の鼈甲牡丹ぢやありませんかね。一寸見《ちよつとみ》は、光沢《つや》があつても、触つて見ると、牛の骨か何かだと云ふことが、直ぐ分りさうな。」
 秋山氏が、文壇での論戦などでも、自分自身の溢れるやうな才気に乗じて、常に相手を馬鹿にしたやうな、おひやらかしてしまふやうな態度に出ることは、信一郎も予々《かね/″\》知つてゐた。それが、妙な羽目から、自分一人に向けられてゐるのだと思ふと、信一郎は不愉快とも憤怒とも付かぬ気持で、胸が一杯だつた。が、かうした文学者を相手に、議論を戦はす勇気も自信もなかつた。相手の辛辣な皮肉を黙々として、聴いてゐる外はなかつた。たゞ、文壇の花形ともある秋山氏が、自分などの素人を捕へて、真向から皮肉を浴びせてゐるのが、可なり大人気ないやうにも思はれて、それが恨めしくも、憤ろしくもあつた。
「第一『金色夜叉』なんか、今読んで見ると全然通俗小説ですね。」
 秋山氏は、一刀の下に、何かを両断するやうに云つた。
 瑠璃子夫人は、『おや。』と云つたやうな軽い叫びを挙げながら云つた。
「三宅さんも、先刻《さつき》そんなことを云つたのよ。あ、分つた! 三宅さんのは秋山さんの受売だつたのね。」
 三宅は、赤面したやうに、頭を掻いた。一座は、信一郎を除いて、皆ドツと笑つた。
 秋山氏は、皮肉な微笑を浮べながら、
「いや
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