の静子に依つて充されなかつた欲求が、わづか三四分の同乗に依つて、十分に充たされたやうに思つた。
 さう思つたとき、その貴い三四分間は、過ぎてゐた。自動車は、万世橋の橋上を、やゝ速力を緩めながら、走つてゐた。
「いやどうも、大変有難うございました。」
 信一郎は、さう挨拶しながら、降りるために、腰を浮かし始めた。
 その時に、瑠璃子夫人は、突然何かを思ひ出したやうに云つた。
「貴君《あなた》! 今晩お暇ぢやなくつて?」

        八

「貴君! 今晩お閑暇《ひま》ぢやなくつて。」
 と、云ふ思ひがけない問に、信一郎は立ち上らうとした腰を、つい降してしまつた。
「閑暇《ひま》と云ひますと。」
 信一郎は、夫人の問の真意を解しかねて、ついさう訊き返さずにはゐられなかつた。
「何かお宅に御用事があるかどうか、お伺ひいたしましたのよ。」
「いゝえ! 別に。」
 信一郎は夫人が、何を云ひ出すだらうかと云ふ、軽い好奇心に胸を動かしながら、さう答へた。
「実は……」夫人は、微笑を含みながら、一寸云ひ澱んだが、「今晩、演奏が済みますと、あの兄妹の露西亜《ロシア》人を、晩餐|旁《かた/″\》帝劇へ案内してやらうと思つてゐましたの。それでボックスを買つて置きましたところ、向うが止むを得ない差支があると云つて、辞退しましたから妾《わたくし》一人でこれから参らうかと思つてゐるのでございますが、一人ボンヤリ見てゐるのも、何だか変でございませう。如何でございます、もし、およろしかつたら、付き合つて下さいませんか。どんなに有難いか分りませんわ。」
 夫人は、心から信一郎の同行を望んでゐるやうに、余儀ないやうに誘つた。
 信一郎の心は、さうした突然の申出を聴いた時、可なり動揺せずにはゐなかつた。今までの三四分間でさへ彼に取つてどれほど貴重な三四分間であるか分らなかつた。夫人の美しい声を聞き、その華やかな表情に接し、女性として驚くべきほど、進んだ思想や趣味を味はつてゐると、彼には今まで、閉されてゐた楽しい世界が、夫人との接触に依つて、洋々と開かれて行くやうにさへ思はれた。
 さうした夫人と、今宵一夜を十分に、語ることが出来ると云ふことは、彼にとつてどれほどな、幸福と欣びを意味してゐるか分らなかつた。
 彼は、直ぐ同行を承諾しようと思つた。が、その時に妻の静子の面影が、チラツと頭を掠め去つた。新橋へ、人を見送りに行つたと云ふ以上、二時間もすれば帰つて来るべき筈の夫を、夕餉の支度を了へて、ボンヤリと待ちあぐんでゐる妻の邪気《あどけ》ない面影が、暫らく彼の頭を支配した。その妻を、十時過ぎ、恐らく十一時過ぎ迄も待ちあぐませることが、どんなに妻の心を傷ませることであるかは、彼にもハツキリと分つてゐた。
「如何でございます。そんなにお考へなくつても、手軽に定《き》めて下さつても、およろしいぢやありませんか。」
 夫人は躊躇してゐる信一郎の心に、拍車を加へるやうに、やゝ高飛車にさう云つた。信一郎の顔をぢつと見詰めてゐる夫人の高貴《ノーブル》な厳かに美しい面《おもて》が、信一郎の心の内の静子の慎しい可愛い面影を打ち消した。
「さうだ! 静子と過すべき晩は、これからの長い結婚生活に、幾夜だつてある。飽き/\するほど幾夜だつてある。が、こんな美しい夫人と、一緒に過すべき機会がさう幾度もあるだらうか。こんな浪漫的《ロマンチック》な美しい機会が、さう幾度だつてあるだらうか。生涯に再びとは得がたいたゞ一度の機会であるかも知れない。かうした機会を逸しては……」
 さう心の中で思ふと、信一郎の心は、籠を放れた鳩か何かのやうに、フハ/\となつてしまつた。彼は思ひ切つて云つた。
「もし貴女さへ、御迷惑でなければお伴いたしてもいゝと思ひます。」
「あらさう。付き合つて下さいますの。それぢや、直ぐ、丸の内へ。」
 夫人は、後の言葉を、運転手へ通ずるやうに声高く云つた。
 自動車は、緩みかけた爆音を、再び高く上げながら、車首を転じて、夜の須田町の混雑の中を泳ぐやうに、馳けり始めた。
 電車道の、鋪石《ペーヴメント》が悪くなつてゐる故《せゐ》か、車台は頻りに動揺した。信一郎の心も、それに連れて、軽い動揺を続けてゐる。
 車が、小川町の角を、急に曲つたとき、夫人は思ひ出したやうに、とぼけたやうに訊いた。
「失礼ですが、奥様おありになつて?」
「はい。」
「御心配なさらない! 黙つて行《い》らしつては?」
「いゝえ。決して。」
 信一郎は、言葉|丈《だけ》は強く云つた。が、その声には一種の不安が響いた。

        九

 帝劇の南側の車寄の階段を、夫人と一緒に上るとき、信一郎の心は、再び動揺した。この晴れがましい建物の中に、其処にはどんな人々がゐるかも知れない群衆の中へ、かうした美しい、それ丈《だけ》人目を惹き易い女性と、たつた二人連れ立つて、公然と入つて行くことが、可なり気になつた。
 が、信一郎のさうした心遣ひを、救けるやうに、舞台では今丁度幕が開いたと見え、廊下には、遅れた二三の観客が、急ぎ足に、座席《シート》へ帰つて行くところだつた。
 夫人と並んで、広い空しいボックスの一番前方に、腰を下したとき、信一郎はやつと、自分の心が落着いて来るのを感じた。舞台が、煌々と明るいのに比べて、観客席が、ほの暗いのが嬉しかつた。
 夫人は席へ着いたとき、二三分ばかり舞台を見詰めてゐたが、ふと信一郎の方を振り返ると、
「本当に御迷惑ぢやございませんでしたの。芝居はお嫌ひぢやありませんの。」
「いゝえ! 大好きです。尤も、今の歌舞伎芝居には可なり不満ですがね。」
「妾《わたくし》も、さうですの。外に行く処もありませんからよく参りますが、妾《わたくし》達の実生活と歌舞伎芝居の世界とは、もう丸きり違つてゐるのでございますものね。歌舞伎に出て来る女性と云へば、みんな個性のない自我のない、古い道徳の人形のやうな女ばかりでございますのね。」
「同感です。全く同感です。」
 信一郎は、心から夫人の秀れた見識を讃嘆した。
「親や夫に臣従しないで、もつと自分本位の生活を送つてもいゝと思ひますの。古い感情や道徳に囚はれないで、もつと解放された生活を送つてもいゝと思ひますの。英国のある近代劇の女主人公が、男が雲雀《スカイラーク》のやうに、多くの女と戯れることが出来るのなら、女だつて雲雀《スカイラーク》のやうに、多くの男と戯れる権利があると申してをりますが、さうぢやございませんでせうか。妾《わたくし》もさう思ふことがございますのよ。」
 夫人は、周囲の静けさを擾さないやうに、出来る丈《だけ》信一郎の耳に口を寄せて語りつゞけた。夫人の温い薫るやうな呼吸が、信一郎のほてつた頬を、柔かに撫でるごとに、信一郎は身体中が、溶《とろ》けてしまひさうな魅力を感じた。
「でも、貴君《あなた》なんか、さうした女性は、お好きぢやありませんでせうね。」さう、信一郎の耳に、あたゝかく囁いて置きながら、夫人は顔を少し離して嫣然《につこり》と笑つて見せた。男の心を、掻き擾してしまふやうな媚が、そのスラリとした身体全体に動いた。
 夫人の大胆な告白と、美しい媚のために、信一郎は、目が眩んだやうに、フラ/\としてしまつた。美しい妖精に魅せられた少年のやうに、信一郎は顔を薄赤く、ほてらせながら、たゞ茫然と黙つてゐた。
 夫人は、ひらりと身を躱《かは》すやうに、真面目なしんみりとした態度に帰つてゐた。
「でも、妾《わたくし》、こんな打ち解けたお話をするのは、貴君が初めてなのよ、文学や思想などに、理解のない方に、こんなお話をすると、直ぐ誤解されてしまふのですもの、妾《わたくし》、かねてから、貴君《あなた》のやうなお友達が欲しかつたの、本当に妾《わたくし》の心持を、聴いて下さるやうな男性のお友達が、欲しかつたの、二人の異性の間には、真の友情は成り立たないなどと云ふのは嘘でございますわね、異性の間の友情は、恋愛への階段だなどと云ふのは、嘘でございますわね。本当に自覚してゐる異性の間なら、立派な友情が何時までも続くと思ひますの。貴方《あなた》と妾《わたくし》との間で、先例を開いてもいゝと思ひますわ。ほゝゝゝ。」
 夫人は、真の友情を説きながらも、その美しい唇は、悩ましきまでに、信一郎の右の頬近く寄せられてゐた。信一郎は、うつとりとした心持で、阿片《アヘン》吸入者が、毒と知りながら、その恍惚たる感覚に、身体を委せるやうに、夫人の蜜のやうに[#「蜜のやうに」は底本では「密のやうに」]甘い呼吸と、音楽のやうに美しい言葉とに全身を浸してゐた。


 客間の女王

        一

 帝劇のボックスに、夫人と肩を並べて、過した数時間は、信一郎に取つては、夢とも現《うつゝ》とも分ちがたいやうな恍惚たる時間だつた。
 夫人の身体全体から出る、馥郁たる女性の香が、彼の感覚を爛し、彼の魂を溶かしたと云つてもよかつた。
 彼は、其夜、半蔵門迄、夫人と同乗して、其処で新宿行の電車に乗るべく、彼女と別れたとき、自動車の窓から、夜目にもくつきりと白い顔を、のぞかしながら、
「それでは、此次の日曜に屹度《きつと》お訪ね下さいませ。」と、媚びるやうな美しい声で叫んだ夫人の声が、彼の心の底の底まで徹するやうに思つた。彼は、其処に化石した人間のやうに立ち止まつて、葉桜の樹下闇を、ほの/″\と照し出しながら、遠く去つて行く自動車の車台の後の青色の灯を、何時までも何時までも見送つてゐた。彼の頬には、尚夫人の甘い快い呼吸《いき》の匂が漂うてゐた。彼の耳の底には、夫人の此世ならぬ美しい声の余韻が残つてゐた。彼の感覚も心も、夫人に酔うてゐた。
 彼の耳に囁かれた夫人の言葉が、甘い蜜のやうな言葉が、一つ/\記憶の裡に甦がへつて来た。『自分を理解して呉れる最初の男性』とか、『そんな女性をお好きぢやありませんの』と云つたやうな馴々しい言葉が、それが語られた刹那の夫人の美しい媚のある表情と一緒に、信一郎の頭を悩ました。
 自分が、生れて始めて会つたと思ふほどの美しい女性から、唯一人の理解者として、馴々しい信頼を受けたことが、彼の心を攪乱し、彼の心を有頂天にした。
 彼の頭の裡には、もう半面紫色になつた青木淳の顔もなかつた。謎の白金《プラチナ》の時計もなかつた。愛してゐる妻の静子の顔までが、此の※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]たけた瑠璃子夫人の美しい面影のために、屡々掻き消されさうになつてゐた。
 十二時近く帰つて来た夫を、妻は何時ものやうに無邪気に、何の疑念もないやうに、いそいそと出迎へた。さうした淑《しとや》かな妻の態度に接すると、信一郎は可なり、心の底に良心の苛責を感じながらも、しかも今迄は可なり美しく見えた妻の顔が、平凡に単純に、見えるのを何《ど》うともすることが出来なかつた。
 その次ぎの日曜まで、彼は絶えず、美しい夫人の記憶に悩まされた。食事などをしながらも、彼の想像は美しい夫人を頭の中に描いてゐることが多かつた。
「あら、何をそんなにぼんやりしていらつしやいますの、今度の日曜は何日? と云つてお尋ねしてゐるのに、たゞ『うむ! うむ!』云つていらつしやるのですもの。何をそんなに考へていらつしやるの?」
 静子は、夫がボンヤリしてゐるのが、可笑しいと云ひながら、給仕をする手を止めて、笑ひこけたりした。夫が、他の女性のことを考へて、ボンヤリしてゐるのを、可笑しいと云つて無邪気に笑ひこける妻のいぢらしさが、分らない信一郎ではなかつたが、それでも彼は刻々に頭の中に、浮んで来る美しい面影を拭ひ去ることが出来なかつた。
 到頭夫人と約束した次ぎの日曜日が来た。その間の一週間は、信一郎に取つては、一月も二月もに相当した。彼は、自分がその日曜を待ちあぐんでゐるやうに、夫人がやつぱりその日曜を待ち望んでゐて呉れることを信じて疑はなかつた。
 夫人が、自分を唯一人の真実の友達として、選んで呉れる。夫人と自分との交情が発展して行く有様が、いろ/\に頭の中に描かれた。異性の間の友情は
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