んか飲んでゐますと、遅くなつてしまひますわ。如何でございます。あのお約束は、またのことにして下さいませんか。ねえ! それでいゝでございませう。」
「はあ! それで結構です。」
 信一郎は、従順な僕《しもべ》のやうに答へた。
「貴君《あなた》! お宅は何方《どちら》!」
「信濃町です。」
「それぢや、院線で御帰りになるのですか。」
「市電でも、院線でも孰《どち》らでゞも帰れるのです。」
「それぢや、院線で御帰りなさいませ。万世橋でお乗りになるのでせう。妾《わたくし》の自動車で万世橋までお送りいたしますわ。」
 彼女は、それが何でもないことのやうに、微笑しながら云つた。

        五

 わづか二度しか逢つてゐない、而も確かな紹介もなく妙な事情から、知己《しりあひ》になつてゐる男性に――その職業も位置も身分も十分分つてゐない男性に、突然自動車の同乗を勧める瑠璃子夫人の大胆さに、勧められる信一郎の方が、却つてタヂタヂとなつてしまつた。信一郎は、一寸狼狽しながら、急いでそれを断らうとした。
「いゝえ恐れ入ります。電車で帰つた方が勝手ですから。」
「あら、そんなに改まつて遠慮して下さると困りますわ。妾《わたくし》本当は、お茶でもいたゞきながら、ゆつくりお話がしたかつたのでございますよ。それだのに、ついこんなに遅くなつてしまつたのですもの。せめて、一緒に乗つていたゞいて、お話したいと思ひますの。死んだ青木さんのことなども、お話したいことがございますのよ。」
「でも御迷惑ぢやございませんか。」
 信一郎は、もう可なり、同乗する興味に、動かされながら、それでも口先ではかう云つて見た。
「あら、御冗談でございませう。御迷惑なのは、貴君《あなた》ではございませんか。」
 夫人の言葉は、銘刀のやうに鮮かな冴を持つてゐた。信一郎が、夫人の奔放な言葉に圧せられたやうに、モヂ/\してゐる間に、夫人はボーイに合図した。ボーイは、玄関に立つて、声高く自動車を呼んだ。
 暮れなやむ初夏の宵の夕暗《ゆふやみ》に、今点火したばかりの、眩しいやうな頭光《ヘッドライト》を輝かしながら、青山の葬場で一度見たことのある青色大型の自動車は、軽い爆音を立てながら、玄関へ横付になつた。会衆は悉く散じ去つて、供待《ともまち》する俥も自動車一台も残つてゐなかつた。
「さあ! 貴君《あなた》から。」
 信一郎の確な承諾をも聴かないのにも拘はらず、夫人はそれに定《きま》つた事のやうに、信一郎を促した。
 さう勧められると、信一郎は不安と幸福とが、半分宛交つたやうな心持で、胸が掻き乱された。彼は、心から同乗することを欲してゐたのにも拘はらず、乗ることが何となく不安だつた。その踏み段に足をかけることが、何だか行方知らぬ運命の岐路へ、一歩を踏み出すやうに不安だつた。
「あら、何をそんなに遠慮していらつしやるの。ぢや、妾《わたくし》が御先に失礼しますわ。」
 さう云ふと、夫人は軽やかに、紫のフェルトの草履で、踏台《ステップ》を軽く踏んで、ヒラリと車中の人になつてしまつた。
「さあ! 早くお乗りなさいませ。」
 彼女は振り顧つて、微笑と共に信一郎を麾《さしま》ねいた。
 相手が、さうまで何物にも囚はれないやうに、奔放に振舞つてゐるのに、男でありながら、こだはり通しにこだはつてゐることが、信一郎自身にも、厭になつた。彼は、思ひ切つて、踏台《ステップ》に足を踏みかけた。
 信一郎は、車中に入ると、夫人と対角線的に、前方の腰かけを、引き出しながら、腰を掛けようとした。
 夫人は駭いたやうに、それを制した。
「あら、そんなことをなさつちや、困りますわ。まあ、殿方にも似合はない、何と云ふ遠慮深い方でせう。さあ此方《こちら》へおかけなさい! 妾《わたくし》と並んで。そんなに遠慮なさるものぢやありませんよ。」
 信一郎を、窘《たしな》めるやうに、叱るやうに、夫人の言葉は力を持つてゐた。信一郎は、今は止むを得ないと云つたやうに、夫人と擦れ/\に腰を降した。夫人の身体を掩うてゐる金紗縮緬のいぢり[#「いぢり」に傍点]痒《かゆ》いやうな触感が、衣服《きもの》越しに、彼の身体に浸みるやうに感ぜられた。
 給仕やボーイなどの挨拶に送られて、自動車は滑るやうに、玄関前の緩い勾配を、公園の青葉の闇へと、進み始めた。
 給仕人達の挨拶が、耳に入らないほど、信一郎は、烈しい興奮の裡に、夢みる人のやうに、恍惚としてゐた。

        六

 つい知り合つたばかりの女性、しかも美しく高貴な女性と、たつた二度目に会つたときに、もう既に自動車に、同乗すると云ふことが、信一郎には、宛ら美しい夢のやうな、二十世紀の伝奇譚《ロマンス》の主人公になつたやうな、不思議な歓びを与へて呉れた。万世橋駅迄の二三分[#「二三分」はママ]が、彼の生涯に再び得がたい貴重な三四分のやうに思はれた。彼の生涯を通じて、宝石のやうに輝く、尊い瞬間のやうに思はれた。彼は、その時間を心の底から、享け入れようと思つてゐた。が、さう決心した刹那に、もう自動車は、公園の蒼い樹下闇《このしたやみ》を、後に残して、上野山下に拡がる初夏の夜、さうだ、豊《ゆたか》に輝ける夏の夜の描けるが如き、光と色との中に、馳け入つてゐるのだつた。時は速い翼を持つてゐる。が、此の三四分の時間は、電光その物のやうに、アツと云ふ間もなく過ぎ去らうとしてゐる。
 試験の答案を書く時などに、時間が短ければ短いほど、冷静に筆を運ばなければならないのに、時間があまりに短いと、却《かへつ》てわく/\して、少しも手が付かないやうに、信一郎も飛ぶが如くに、過ぎ去らうとする時間を前にして、たゞ茫然と手を拱いてゐる丈《だけ》だつた。
 然るに、瑠璃子夫人は悠然と、落着いてゐた。親しい友達か、でなければ自分の夫とでも、一緒に乗つてゐるやうに、微笑を車内の薄暗《うすやみ》に、漂はせながら、急に話しかけようともしなかつた。
 丁度、自動車が松坂屋の前にさしかゝつた時、信一郎は、やつと――と言つても、たゞ一分間ばかり黙つてゐたのに過ぎないが――会話の緒《いとぐち》を見付けた。
「先刻、一寸立ち聴きした訳ですが、大変|仏蘭西《フランス》語が、お上手でいらつしやいますね。」
「まあ! お恥かしい。聴いていらしつたの。動詞なんか滅茶苦茶なのですよ。単語を並べる丈。でもあのアンナと云ふ方、大変感じのいゝ方よ。大抵お話が通ずるのですよ。」
「何うして滅茶苦茶なものですか。大変感心しました。」
 信一郎は心でもさう思つた。
「まあ! お賞めに与つて有難いわ。でも、本当にお恥かしいのですよ。ほんの二年ばかり、お稽古した丈《だけ》なのですよ。貴君は仏法の出身でいらつしやいますか。」
「さうです。高等学校時代から、六七年もやつてゐるのですが、それで会話と来たら、丸切り駄目なのです。よく、会社へ仏蘭西《フランス》人が来ると、私|丈《だけ》が仏蘭西《フランス》語が出来ると云ふので、応接を命ぜられるのですが、その度毎に、閉口するのです。奥さんなんか、このまゝ直ぐ外交官夫人として、巴里《パリー》辺の社交界へ送り出しても、立派なものだと思ひます。」
 信一郎は、つい心からさうした讃辞を呈してしまつた。
「外交官の夫人! ほゝゝ、妾《わたくし》などに。」
 さう云つたまゝ、夫人の顔は急に曇つてしまつた。外交官の夫人。彼女の若き日の憧れは、未来の外交官たる直也の妻として、遠く海外の社交界に、日本婦人の華として、咲き出《いづ》ることではなかつたか。彼女が、仏蘭西《フランス》語の稽古をしたことも、みんなさうした日のための、準備ではなかつたか。それもこれも、今では煙の如く空しい過去の思出となつて了つてゐる。外交官の夫人と云はれて、彼女の華やかな表情が、急に光を失つたのも無理はなかつた。
 瞬間的な沈黙が、二人を支配した。自動車は御成街道の電車の右側の坦々たる道を、速力を加へて疾駆してゐた。万世橋迄は、もう三町もなかつた。
 信一郎は、もつとピツタリするやうな話がしたかつた。
「仏蘭西《フランス》文学は、お好きぢやございませんか。」
 信一郎は、夫人の顔を窺ふやうに訊いた。
「あのう――好きでございますの。」
 さう云つたとき、夫人の曇つてゐた表情が、華やかな微笑で、拭ひ取られてゐた。
「大好きでございますの。」
 夫人は、再び強く肯定した。

        七

「仏蘭西《フランス》文学が大好きですの。」と、夫人が答へた時、信一郎は其処に夫人に親しみ近づいて行ける会話の範囲が、急に開けたやうに思つた。文学の話、芸術の話ほど、人間を本当に親しませる話はない。同じ文学なり、同じ作家なりを、両方で愛してゐると云ふことは、ある未知の二人を可なり親しみ近づける事だ。
 信一郎は、初めて夫人と交すべき会話の題目が見付かつたやうに欣びながら、勢よく訊き続けた。
「やはり近代のものをお好きですか、モウパッサンとかフローベルなどとか。」
「はい、近代のものとか、古典《クラシックス》とか申し上げるほど、沢山はよんでをりませんの。でも、モウパッサンなんか大嫌ひでございますわ。何うも日本の文壇などで、仏蘭西《フランス》文学とか露西亜《ロシア》文学だとか申しましても、英語の廉価版《チープエヂション》のある作家ばかりが、流行《はや》つてゐるやうでございますわね。」
 信一郎は、瑠璃子夫人の辛辣な皮肉に苦笑しながら訊いた。
「モウパッサンが、お嫌ひなのは僕も同感ですが、ぢや、どんな作家がお好きなのです?」
「一等好きなのは、メリメですわ。それからアナトール・フランス、オクターヴ・ミルボーなども嫌ひではありませんわ。」
「メリメは、どんなものがお好きです。」
「みんないゝぢやありませんか。カルメンなんか、日本では通俗な名前になつてしまひましたが、原作はほんたうにいゝぢやありませんか。」
「あの女主人公《ヒロイン》を何うお考へになります。」
「好きでございますよ。」
 言下にさう答へながら、夫人は嫣然と笑つた。
「妾《わたくし》さう思ひますのよ。女に捨てられて、女を殺すなんて、本当に男性の暴虐だと思ひますの。男性の甚だしい我儘だと思ひますの。大抵の男性は、女性から女性へと心を移してゐながら、平然と済してゐますのに、女性が反対に男性から男性へと、心を移すと、直ぐ何とか非難を受けなければなりませんのですもの。妾《わたくし》、ホセに刺し殺されるカルメンのことを考へる度毎に、男性の我儘と暴虐とを、憤らずにはゐられないのです。」
 夫人の美しい顔が、興奮してゐた。やゝ薄赤くほてつた頬が、悩しいほどに、魅惑的《チャーミング》であつた。
 信一郎は生れて初めて、男性と対等に話し得る、立派な女性に会つたやうに思つた。彼は、はしなくも、自分の愛妻の静子のことを考へずにはゐられなかつた。彼女は、愛らしく慎しく従順貞淑な妻には違ひない。が、趣味や思想の上では、自分の間に手の届かないやうに、広い/\隔《へだゝり》が横はつてゐる。天気の話や、衣類の話や、食物の話をするときには立派な話相手に違ひない。
 が、話が少しでも、高尚になり精神的になると、もう小学生と話してゐるやうな、もどかしさ[#「もどかしさ」に傍点]と頼りなさがあつた。同伴の登山者が、わづか一町か二町か、離れてゐるのなら、麾《さしまね》いてやることも出来れば、声を出して呼んでやることも出来た。が、二十町も三十町も離れてゐれば、何《ど》うすることも出来ない。信一郎は、趣味や思想の生活では、静子に対してそれほどの隔《へだたり》を感ぜずにはゐられなかつた。
 が、彼は今までは、諦めてゐた。日本婦人の教養が現在の程度で止まつてゐる以上、さうしたことを、妻に求めるのは無理である。それは妻一人の責任ではなくして、日本の文化そのものの責任であると。
 が、彼は今瑠璃子夫人と会つて話してゐると、日本にも初めて新しい、趣味の上から云つても、思想の上から云つても優に男性と対抗し得るやうな女性の存在し始めたことを知つたのである。夫人と話してゐると、妻
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