静子は一寸心配さうに云つた。
「間に合ふかも知れない。確か二時に新橋を立つ筈だから。」
さう云ひながら、信一郎は柱時計を見上げた。それは、一時を廻つたばかりだつた。
「ぢや、早くお支度なさいまし。」解《ほど》き物を、掻きやつて、妻は、甲斐々々しく立ち上つた。
信一郎は、最初の冷たい言葉を云ふ代りに、最初の嘘を云つてしまつた。その方が、ズツと悪いことだが。
二
その日の音楽会は、露西亜のピアニスト若きセザレウ※[#小書き片仮名ヰ、161−上−6]ッチ兄妹の独奏会だつた。
去年から今年にかけて、故国の動乱を避けて、漂泊《さすらひ》の旅に出た露西亜《ロシア》の音楽家達が、幾人も幾人も東京の楽壇を賑はした。其中には、ピヤノやセロやヴァイオリンの世界的名手さへ交つてゐた。セザレウ※[#小書き片仮名ヰ、161−上−11]ッチ兄妹もやつぱり、漂泊《さすらひ》の旅の寂しさを、背負つてゐる人だつた。殊に、妹のアンナ・セザレウ※[#小書き片仮名ヰ、161−上−13]ッチの何処か東洋的な、日本人向きの美貌が、兄妹の天才的な演奏と共に、楽壇の人気を浚つて[#「浚つて」は底本では「唆つて」]ゐた。その日の演奏は、確か三四回目の演奏会だつた。上流社会の貴夫人達の主催にかゝる、その日の演奏会の純益は、東京にゐる亡命の露人達の窮状を救ふために、投ぜられる筈だつた。
信一郎が、その日の会場たる上野の精養軒の階上の大広間の入口に立つた時、会場はザツと一杯だつた。が、人数は三百人にも足らなかつただらう。七円と云ふ高い会費が、今日の聴衆を、可なり貴族的に制限してゐた。極楽鳥のやうに着飾つた夫人や令嬢が、ズラリと静粛に並んでゐた。その中に諸所瀟洒なモオニングを着て、楽譜を手に持つてゐる、音楽研究の若殿様と云つたやうな紳士が、二三人宛交じつてゐた。信一郎は聴衆を一瞥した刹那に、直ぐ油に交じつた水のやうな寂しさを感じた。かうした華やかな群《グループ》の中に、女王《クイン》のやうに立ち働いてゐる荘田夫人が、自分に――片隅に小さく控へてゐる自分に、少しでも注意を向けて呉れるかと思ふと、妻の手前を繕ろつてまで、出席した自分が、何だか心細く馬鹿々々しくなつて来た。
信一郎が、席に着くと間もなく、妹の方のアンナが、華やかな拍手に迎へられて壇上に現はれた、スラヴ美人の典型と云つてもいゝやうな、碧い眸と、白い雪のやうな頬とを持つた美しい娘だつた。彼女は微笑を含んだ会釈で喝采に応へると、水色のスカートを飜しながら、快活にピアノに向つて腰を降した。と、思ふと、その白い蝋のやうな繊手は、直ぐ霊活な蜘蛛か何かのやうに、鍵盤の上を、駈け廻り始めた。曲は、露西亜《ロシア》の国民音楽家の一人として名高いボロディンの譚歌《バラッド》だつた。
その素朴な、軽快な旋律に、耳を傾けながら、信一郎の注意は、半ば聴衆席の前半の方に走つてゐた。彼は、若い婦人の後姿を、それからそれと一人々々|検《あらた》めた。が、たつた一度、相見た丈《だけ》の女は、後姿に依つては、直ぐそれと分りかねた。
妹の演奏が終ると、美しい花環が、幾つも幾つも、壇上へ運ばれた。露西亜《ロシア》の少女は、それを一々溢れるやうな感謝で受取ると、子供のやうに欣びながら、ピアノの上へ幾つも/\置き並べた。余り沢山置き並べるので、演奏の邪魔になりさうなので、司会者が周章《あわて》て取り降した。聴衆が、此の少女の無邪気さをどつ[#「どつ」に傍点]と笑つた。信一郎も、少女の美しさと無邪気さとに、引きずられて、つい笑つてしまつた。
丁度その途端、信一郎の肩を軽く軟打《パット》するものがあつた。彼は駭《おどろ》いて、振り顧つた。そこに微笑する美しき瑠璃子夫人の顔があつた。
「よくいらつしやいましたのね。先刻からお探ししてゐましたのよ。」
信一郎の言ふべきことを、向うで言ひながら、瑠璃子は、信一郎と並んで其処に空《あ》いてゐた椅子に腰を下した。
「あまりお見えにならないものですから、いらつしやらないのかと思つてゐましたのよ。」
信一郎の方から、改めて挨拶する機会のないほど、向うは親しく馴々しく、友達か何かのやうに言葉をかけた。
「先日は、何《ど》うも失礼しました。」
信一郎は、遅ればせに、ドギマギしながら、挨拶した。
「いゝえ! 妾《わたくし》こそ。」
彼女は、小波《さゞなみ》一つ立たない池の面《おも》か何かのやうに、落着いてゐた。
丁度、その時に兄のニコライ・セザレウ※[#小書き片仮名ヰ、162−下−3]ッチが壇上に姿を現した。が、瑠璃子夫人は立たうとはしなかつた。
「妾《わたくし》、暫らく茲《こゝ》で聴かせていただきますわ。」
彼女は、信一郎に云ふともなく独語《ひとりごと》のやうに呟いた。
三
丁度その時、兄のセザレウ※[#小書き片仮名ヰ、162−下−8]ッチの奏《ひ》き初めた曲は、ショパンの前奏曲《プレリュウド》だつた。聴衆は、水を打つたやうな静寂《しゞま》の裡に、全身の注意を二つの耳に蒐めてゐた。が、その中で、信一郎の注意|丈《だけ》は、彼の左半身の触覚に、溢れるやうに満ち渡つてゐた。彼の左側には、瑠璃子夫人が、坐つてゐたからである。彼女は、故意にさうしてゐるのかと思はれるほどに、その華奢な身体を、信一郎の方へ寄せかけるやうに、坐つてゐた。
信一郎は、淡彩に夏草を散らした薄葡萄色の、金紗縮緬の着物の下に、軽く波打つてゐる彼女の肉体の暖かみをさへ、感じ得るやうに思つた。
彼女は、演奏が初まると、直ぐ独語のやうに、「雨滴《レインドロップス》のプレリュウドですわね。」と、軽く小声で云つた。それは、いかにもショパンの数多い前奏曲の中、『雨滴の前奏曲』として、知られたる傑作だつた。
彼女は、演奏が進むに連れて、彼女の膝の、夏草模様に、実物剥製の蝶が、群れ飛んでゐる辺《あたり》を、其処に目に見えぬ鍵盤が、あるかのやうに、白い細い指先で、軽くしなやかに、打ち続けてゐるのだつた。而も、それと同時に、彼女の美しい横顔《プロフィイル》は、本当に音楽が解るものゝ感ずる恍惚たる喜悦で輝いてゐるのだつた。其処には日本の普通の女性には見られないやうな、精神的な美しさがあつた。思想的にも、感覚的にも、開発された本当に新しい女性にしか、許されてゐないやうな、神々しい美しさがあつた。
信一郎は、時々彼女の横顔を、そのくつきり[#「くつきり」に傍点]と通つた襟足を、そつと見詰めずにはゐられないほど、彼女独特の美しさに、心を惹かされずにはゐられなかつた。
曲が、終りかけると、彼女は何人《なんぴと》よりも、先に慎しい拍手を送つた。
快い緊張から夢のやうに醒めながら、彼女は信一郎を顧みた。
「妹の方が、技巧は確《たしか》ですけれども、どうも兄の方が、奔放で、自由で、それ丈《だけ》天才的だと思ひますのよ。」
「僕も同感です。」信一郎も、心からさう答へた。
「貴君《あなた》、音楽お好き? ほゝゝゝ、わざ/\来て下さつたのですもの、お好きに定《きま》つてゐますわね。」
彼女は、二度目に会つたばかりの信一郎に、少しの気兼もないやうに、話した。
「好きです。高等学校にゐたときは、音楽会の会員だつたのです。」
「ピアノお奏《ひ》きになつて?」
「簡単なバラッドや、マーチ位は奏《ひ》けます。はゝゝゝゝ。」
「ピアノお持ちですか。」
「いゝえ。」
「ぢや、妾《わたくし》の宅へ時々、奏《ひ》きにいらつしやいませ。誰も気の置ける人はゐませんから。」
彼女は、薄気味の悪いほど、馴々しかつた。その時に、壇上には、妹のアンナが立つてゐた。
「バラキレフの『イスラメイ』を演《や》るのですね。随分難しいものを。」
さう云ひながら、彼女は立ち上つた。
「みんなが、妾《わたくし》を探してゐるやうですから、失礼いたしますわ。会が終りましたら、階下《した》の食堂でお茶を一緒に召上りませんか。約束して下さいますでせうね。」
「はあ! 結構です。」
信一郎は、何かの命令をでも、受けたやうに答へた。
「それでは後ほど。」
彼女は、軽く会釈すると、静まり返つてゐる聴衆の間の通路を、怯《わるび》れもせず遥か前方の自分の席へ帰つて行つた。信一郎は可なり熱心な眼付で、彼女を見送つた。
彼女が、席に着かうとしたとき彼女の席の周囲にゐた、多くの男性と女性とは、彼女が席に帰つて来たのを、女王でもが、帰還したやうに、銘々に会釈した。彼女が多くの男性に囲まれてゐるのを見ると、信一郎の心は、妙な不安と動揺とを感ぜずにはゐられなかつたのである。
四
それから、演奏が終つてしまふまで、信一郎は、ピアノの快い旋律と、瑠璃子夫人の残して行つた魅惑的な移り香との中に、恍惚として夢のやうな時間を過してしまつた。
最後の演奏が終つて、華やかな拍手と共に、皆が立ち上つたとき、信一郎は夢から、さめたやうに席を立ち上つた。
彼は、自分から先刻《さつき》の約束を守るために、瑠璃子夫人を探し求めるほど大胆ではなかつた。それかと云つて、その儘帰つてしまふには、彼は夫人の美しさに、支配され過ぎてゐた。彼は聴衆に先立つて階段を降りたものゝ、階段の下で誰かを待つてでもゐるやうに、躊躇してゐた。
美しい女性の流れが、暫らくは階段を滑つてゐた。が、待つても、待つても夫人の姿は見えなかつた。
彼が、待ちあぐんでゐる裡に、聴衆は降り切つてしまつたと見え、下足の前に佇んでゐる人の数がだん/\疎《まばら》になつて来た。
彼は『一緒にお茶を飲まう。』と云ふことが、たゞ一寸した、夫人のお世辞であつたのではないかと思つた。それを金科玉条のやうに、一生懸命に守つて、待ちつゞけてゐた自分が、少し馬鹿らしくなつた。夫人は、屹度《きつと》混雑を避けて、別の出口から、もうとつくに帰り去つたに違ひない。さう思つて、彼が軽い失望を感じながら、踵《きびす》を返さうとした時だつた。階段の上から、軽い靴音と、やさしい衣擦《きぬずれ》の音と、流暢な仏蘭西《フランス》語の会話とが聞えて来た。彼が、軽い駭《おどろ》きを感じて、見上げると、階段の中途を静《しづか》に降りかかつてゐるのは、今日の花形《スタア》なるアンナ・セザレウ※[#小書き片仮名ヰ、164−下−11]ッチと瑠璃子夫人とだつた。その二人の洗ひ出したやうな鮮さが、信一郎の心を、深く深く動かした。一種敬虔な心持をさへ懐かせた。白皙な露西亜《ロシア》美人と並んでも、瑠璃子夫人の美しさは、その特色を立派に発揮してゐた。殊に、そのスラリとして高い長身は、凡ての日本婦人が白人の女性と並び立つた時の醜さから、彼女を救つてゐた。
信一郎は、うつとり[#「うつとり」に傍点]として、名画の美人画をでも見るやうに、暫らくは見詰めてゐた。
それと同じやうに、彼を駭かしたものは瑠璃子夫人の暢達な仏蘭西《フランス》語であつた。仏法出の法学士である信一郎は、可なり会話にも自信があつた。が、水の迸しるやうに、自然に豊富に、美しい発音を以て、語られてゐる言葉は、信一郎の心を魅し去らずにはゐなかつた。
瑠璃子は、階段の傍に、ボンヤリ立つてゐる信一郎には、一瞥も与へないで、アンナを玄関まで送つて行つた。
其処で、後から来た兄のセザレウ※[#小書き片仮名ヰ、165−上−4]ッチを待ち合はすと、兄妹が自動車に乗つてしまふ迄、主催者の貴婦人達と一緒に見送つてゐた。彼女一人、兄妹を相手に、始終快活に談笑しながら。
兄妹を乗せた自動車が、去つてしまふと、彼女は、初めて信一郎を見付けたやうに、いそいそと彼の傍へやつて来た。
「まあ! 待つてゐて下さいましたの。随分お待たせしましたわ。でも兄妹を送り出すまで、幹事として責任がございますの。」
彼女は、さう云ひながら、帯の間から、時計を取り出して見た。それはやつぱり白金《プラチナ》の時計だつた。それを見た刹那、不安ないやな連想が、電光《いなづま》のやうに、信一郎の心を走せ過ぎた。
「おやもう、六時でございますわ。お茶な
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