かたき》の勝平からさうした恩恵を受けたことを、死ぬほど恥しがつて、学業を捨ててしまつて、遠縁の親戚が経営してゐるボルネオの護謨《ゴム》園に走らうとしてゐる。瑠璃子は、そんな噂を、耳にはさんでゐる。が、あの多血性な恋人は、さうした逃避的な態度を、捨てゝ、その恋の敵《かたき》を倒すために、再び風雨の夜に乗じて迫つたのであらうか。否、自分に訣別するため、外《よそ》ながら自分を見ようとした時、偶然自分が危難に遭遇したため、前後の思慮もなく飛び込んだのではないだらうか。
強盗! 泥棒! 強盗や泥棒が、あゝした襲撃を為すだらうか。もし、あれが直也だつたら、縦令《たとひ》、勝平を倒したにしろ、彼の一生はムザ/\と埋れてしまふのだ。尤も、今でも自分のために、半分埋れかけてゐるのだが。
さう思ふと、瑠璃子は老爺《ぢいや》を呼ぶ声も出なくなつてしまつて、再び其処へ立ち竦《すく》んだ。
が、瑠璃子の声に騒ぎ立つた女中は、声を振り搾つて老爺《ぢいや》を呼んだ。
四
叫び立てる女中達の声に、別荘番の老爺《ぢいや》は驚いて馳け付けて来た。強盗だと聴くと、いきなり取つて返して、古い猟銃用の村田銃を持つて来た。彼は手早く台所の棚から、カンテラを取り出すと、取り乱す容子もなく、灯を点じて、戸外同様に風雨の暴《あ》れ狂ふ広間の方へと、勇ましく立ち向つた。もう六十を越した老人ではあつたが、根が漁師育ちである丈《だ》けに、胆力はガツシリと据つてゐた。
瑠璃子は、勝平と相搏つてゐる相手が、もしや恋人の直也でありはしないかと思ふと、此の一徹の老人が、一気に銃口を向けやしないかと思ふ心配で、心が怪しく擾れた。それかと云つて、強盗であるかも知れぬ闖入者を、庇ふやうな口は利けなかつた。台所に顫へてゐる女中を後に残しながら、固唾《かたづ》を飲みながら、老人の後から、随《つ》いて行つた。
座敷は、風雨で滅茶苦茶になつてゐた。室の中に渦巻く風のために、硝子《ガラス》戸が三枚も外れてゐた。其処から吹き入る雨のために、水を流したやうに、濡れた畳が、カンテラの光に物凄く映つてゐた。今にも、天井が吹き抜かれるやうに、バリ/\と恐ろしい音を立てゝ、鳴り続けた。
老人は、カンテラの光を翳しながら、
「旦那! 旦那! 喜太郎が参りましたぞ!」と次ぎの間から、先づ大声で怒鳴つた。
が、勝平はそれに対して、何とも答へなかつた。たゞ勝平が発してゐるらしい低いうめき声が聞える丈《だけ》だつた。
「旦那! 旦那! しつかりなさい!」
さう云ひながら、喜太郎は暗い座敷の中を、カンテラで照しながら、駈け込んだ。その光で、ほの暗く照し出された大広間の中央に、勝平は仰向に打ち倒れながら、苦しさうにうめいてゐるのだつた。
「旦那! 旦那! しつかりなさい! 喜太郎が参りましたぞ! 泥棒は何うしただ!」
喜太郎は、勝平の耳許で勢よく叫んだ。が、勝平はたゞ低く、喘息病みか何かのやうに咽喉のところで、低くうめく丈《だけ》だつた。
「旦那! 怪我をしたか。何処だ! 何処だ!」
老人は、狼狽しながら、その太い堅い手で、勝平の身体を撫で廻した。が、何処にも傷らしい傷はなかつた。が、それにも拘はらず、半眼に開かれてゐる勝平の眼は、白く釣り上がつてゐる。
「あゝ! こりやいけねえ。奥様、こりやいけねえぞ。」
さう云ひながら、老人は勝平の身体《からだ》を半《なかば》抱き起すやうにした。が、巨きい身体は少しの弾力もなく石の塊か何かのやうに重かつた。
瑠璃子は、遉《さすが》に驚いた。
「もし、貴君! もし貴君! 貴君!」
彼女は、名ばかりの夫の胸に、縋り付くやうにして叫んだ。が、勝平の身体に残つてゐる生気は、かうしてゐる間にも、だん/\消えて行くやうに思はれた。
おづ/\顫へながら、座敷へ近づいて来た女中を顧みながら、瑠璃子はハツキリと少しも取り擾《みだ》さない口調で云つた。
「ブランデーの壜を大急ぎで持つておいで。それから、吉川様へ直ぐお出下さるやうに電話をおかけなさい! 直ぐ! 主人が危篤でございますからと。」
女中の一人は、直ぐブランデーの壜を持つて来た。瑠璃子は、それをコップに酌ぐと、甲斐甲斐しく勝平の口を割つて、口中へ注ぎ入れた。
勝平の蒼ざめてゐた顔が、心持赤く興奮するやうに見えた。彼の釣り上つた眼が、ほんの僅かばかり、人間の眼らしい光を恢復したやうに見えた。
「旦那! 旦那! 相手は何《ど》うしただ。強盗ですか。何方《どちら》へ逃げました。」
老人の別荘番は、主人の敵《かたき》を取りたいやうな意気込で訊いた。
勝平はその大きい声が、消えかゝる聴覚に聞えたのだらう、口をモグ/\させ初めた。
「何でございますか。何でございますか。」
瑠璃子も、勝平を励ますために、さう叫ばずにはゐられなかつた。
その時に、室の薄暗い一隅で、何者とも知れずカラ/\と悪魔の嗤ふやうに声高く笑つた。
五
カンテラの光の届かない部屋の一隅から、急にカラ/\と頓狂に笑ひ出す声を聴くと、元気のある度胸の据つた喜太郎迄が、ハツと色を変へた。村田銃の方へ差し延した左の手が、二三度銃身を掴み損つてゐた。勝気な瑠璃子の襟元をも、気味の悪い冷たさが、ぞつと襲つて来た。
「誰だ! 誰だ!」
喜太郎は狼狽《うろた》へながら、しはがれた声で闇の中の見知らぬ人間を誰何《すゐか》した。が、相手はまだ笑ひ声を収めたまゝ、ぢつとしてゐる。
「誰だ! 誰だ! 黙つてゐると、射ち殺すぞ!」
相手が黙つてゐるので、勢ひを得た喜太郎は、村田銃を取り上げながら、その方へ差し向けた。
暗い片隅に蹲まつてゐる人間の姿が、差し向けられたカンテラの灯で、朧ろげながら判つて来た。
「誰だ! 誰だ! 出て来い! 出て来い! 出て来ないと射つぞ!」
喜太郎は、益々勢を得ながらそれでも飛び込んで行くほどの勇気もないと見えて、間を隔てながら、叫んでゐた。
相手が、割に落着いてゐるところを見ると、それが強盗でないことは、判つてゐた。が、不意に耳を襲つた頓狂な笑ひ声に依つては、それが何人《なんぴと》であるかは、瑠璃子にも判らなかつた。彼女は、ぢつと眸を凝して、それが自分の怖れてゐる如く、恋人の直也ではありはしないかと、闇の中を見詰めて居た。
丁度その時に、喜太郎の大きい怒声に依つて、朧気な意識を恢復したらしい勝平は、低くうめくやうに云つた。
「射つな、射つたらいけないぞ!」
それは、一生懸命な必死な言葉だつた。さう云つてしまふと、勝平はまたグタリと死んだやうになつてしまつた。
主人の言葉を聴くと、喜太郎は何かを悟つたやうに鉄砲を、投げ出すと、ぢり/\と見知らぬ男の方に近づいた。男は、喜太郎が近づくと、だん/\蹲まつたまゝで、身を退《ひ》かしてゐたが、壁の所まで、追ひ詰められると、矢庭に、スツクと立ち上つた。瑠璃子は、また恐ろしい格闘の光景《シーン》を想像した。が、瑠璃子の想像は忽ち裏切られた。
「やあ! 若旦那ぢやねえか!」
喜太郎は、驚駭とも何とも付かない、調子外れの声を出した。
瑠璃子も、その刹那弾かれたやうに立ち上つた。
「奥様! 若旦那だ! 若旦那だ。」
喜太郎は、意外なる発見に、狂つたやうに叫び続けた。瑠璃子も思はず、瀕死の勝平の傍を離れると、二人が突つ立ちながら、相対してゐる方へ近づいた。
いかにも、その男は勝彦だつた。何時も見馴れてゐる大島の不断着が、雨でヅブ濡れに濡れてゐる。髪の毛も、雨を浴びて黒く凄く光つてゐる。日頃は、無気味《グロテスク》な顔ではあるが、何となく温和であるのが、今宵は殺気を帯びてゐる。それでも、瑠璃子の顔を見ると、少し顔を赤めながら、ニタリと笑つた。
暫らくの間は、瑠璃子も言葉が出なかつた。が、凡ては明かだつた。東京の家に監禁せられてゐた彼は、瑠璃子を慕ふの余り、監禁を破つて、東京から葉山まで、風雨を衝いて、やつて来たのに違ひなかつた。
「お父様をあんなにしたのは、貴君《あなた》でしたか。」
瑠璃子は、可なり厳粛な態度でさう訊いた。
勝彦は、黙つて肯いた。
「東京から、一人で来たのですか。」
勝彦は黙つて肯いた。
「汽車に乗つたのですか。」
勝彦は、又黙つて肯いた。
「お父様を、何うしてあんなにしたのです。何《ど》うしてあんなにしたのです。」
瑠璃子に、さう問ひ詰められると、勝彦は顔を赤《あから》めながら、モジ/\してゐた。もし勝彦が、聡明な青年であつたならば、簡単に率直に、しかも貴夫人を救つた騎士《ナイト》のやうに勇ましく、
『貴女を救ふために。』と答へ得たのであるが。
六
瑠璃子から、何と訊かれても、勝彦は何とも返事はしないで、たゞニタリ/\と笑ひ続けてゐる丈だつた。
老人の喜太郎は、張り詰めてゐた勇気が、急に抜け出してしまつたやうに云つた。
「仕様のない若旦那だ。こんな晩に東京から、飛び出して来て、旦那をとつちめるなんて、理窟のねえ事をするのだから、始末に了へねえや。奥様! こんな人に介意《かま》つてゐるよりか旦那の容体が大事だ!」
喜太郎は、勝彦を噛んで捨てるやうに非難しながら、座敷の真中に、生死も判らず横はり続けてゐる勝平の方へ行つた。
が、瑠璃子は喜太郎のやうに心から勝彦を、非難する気には、なれなかつた。口では勝彦を咎めるやうなことを云ひながら、心の中では此の勇敢な救ひ主に、一味《いちみ》温かい感謝の心を持たずにはゐられなかつた。
丁度、その時に、勝平のうめき声が、急に高くなつた。瑠璃子は思はず、その方に引き付けられた。
彼の顔面の筋肉が、頻りに痙攣し、太い巨きい四肢は、最後のあり丈《たけ》の力を籠めたやうに、烈しく畳の上にのたうつた。
「水! 水!」
勝平は、苦しさうな呻き声を洩した。
女中が、転がるやうに持つて来た水を、コップのまゝ口へ注がうとしたが、思ひ通《どほり》にはならないらしい口辺の筋肉は、当《あて》がはれたコップの水を、咽喉の辺から胸にかけて滾《こぼ》してしまつた。瑠璃子は、それを見ると、コップの水を一息飲みながら、口移しに勝平の口中へ注いでやつた。名ばかりではあるが、妻としての情であつた。
水に依つて、湿《うるほ》された勝平の咽喉は、初めてハツキリした苦悶の言葉を発した。
「あゝ苦しい。胸が苦しい。切ない。」
彼は、さう叫びながら、心臓の辺《あたり》を幾度も掻きむしつた。
「直ぐ医者が参ります。もう少しの御辛抱です。」
瑠璃子も、オロ/\しながら、さう答へた。瑠璃子の言葉が、耳に通じたのだらう。彼は、空虚《うつろ》な視線を妻の方に差し向けながら、
「瑠璃子さん、俺《わし》が悪かつた。みんな、俺《わし》が悪かつた。許して下さい!」
彼は、身体中に残つた精力を蒐めながら、やつと切々に云つた。つい一時間前の告白を疑つた瑠璃子にも、男子のかうした瀕死の言葉は疑へなかつた。瑠璃子の冷たく閉ぢた心臓にも、それが針のやうに刺し貫いた。
「あゝ苦しい。切ない! 心臓が裂けさうだ!」
勝平は、心臓を両手で抱くやうにしながら、畳の上を、二三回転げ廻つた。
「美奈子! 美奈子はゐないか!」
彼は、突如苦しさうに、半身を起しながら、座敷中を見廻した。併し美奈子が其処にゐる訳はなかつた。二三秒間身体を支へ得た丈で、またどうと後へ倒れた。
「美奈子さんも直ぐ来ます。電話で呼びますから。」
瑠璃子は、耳許に口を寄せながら、さう云つた。
「あゝ苦しい! もういけない! 苦しい! 瑠璃子さん! 頼みます、美奈子と勝彦のこと。貴女は、俺《わし》を憎んでゐても、子供達は憎みはしないでせう。貴女を頼むより外はない! 俺《わし》の罪を許して子供達を見てやつて下さい! 頼みます! 勝彦! 勝彦!」
彼は、さう云ひながら、再び身体を起さうとした。愚かなる子に、最後の言葉をかけようとしたのであらう。が、愚なる子は、父の臨終の苦しみを外《よそ》に、以前のまゝに、ケロリとして立つたまゝ、此場の異常な光景《シーン》
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