、敵の甘言とも戦はなければならぬ。敵は、お前の誇《プライド》に媚びながら、逆にお前を征服しようとしてゐるのだ。余りに脆いのは敵でなくしてお前だ。』
瑠璃子の冷たい理性は、覚めながらさう叫んだ。彼女は、ハツと眼が覚めたやうに、居ずまひを正しながら云つた。
「あら、あんな事を仰しやつて? 最初から、本当の妻ですわ。心からの妻ですわ。」
さう云ひながら、彼女は冷たい、然しながら、美しい笑顔を見せた。
嵐を衝いて
一
勝平は、瑠璃子の言葉だけは、打ち解けてゐても、笑顔は氷のやうに冷たいのを見ると、絶望したやうに云つた。
「あゝ貴女《あなた》は、何うしても俺《わし》を理解して下さらぬのぢや。俺《わし》の最初の罪を何うしても許して下さらぬのぢや。貴女は、俺《わし》と勝彦とを、操つて俺《わし》に、畜生道の苦しみを見せようとしてゐるのぢや。よい、それならよい! それならそれでよい! 貴女が、何時までも俺《わし》を敵《かたき》と見るのなら、俺《わし》も、俺《わし》も敵《かたき》になつてゐてもいゝ。俺《わし》が貴女の前に、跪いてこれほどお願《ねがひ》してゐるのに、貴女は俺《わし》の真心を受け容れて下さらんのぢやから。」
もう先刻から、一升以上も飲み乾してゐる勝平は、濁つた眸を見据ゑながら、威丈高に瑠璃子にのしかゝるやうな態度を見せた。相手が下手《したで》から出ると、ついホロリとしてしまふ瑠璃子であつたが相手が正面からかゝつて呉れゝば、一足だつて踏み退く彼女ではなかつた。
相手の態度が急変すると、瑠璃子は先刻《さつき》の勝平の神妙な態度は、たゞ自分を説き落すための、偽りの手段であつたことが、ハツキリしたやうに思つた。
「あら、あんな事を仰《おつ》しやつて、貴君の真心は、初から分つてゐるぢやありませんか。」
瑠璃子は、相手の脅《おどし》を軽く受け流すやうに、嫣然と笑つた。
「あゝ、貴女のその笑顔ぢや。それは俺を悩ますと同時に、嘲けり恥《はづか》しめ罵しつてゐるのぢや。あゝ俺は貴女のその笑顔に堪へない。俺は貴女のその笑顔を、初《はじめ》はどんなに楽しんでゐたか分らないが、だん/\見てゐると、貴女のその美しい笑顔の皮一つ下には、俺《わし》に対する憎悪と嘲笑とが、一杯に充ちてゐるのだ。貴女の笑顔ほど皮肉なものはない。貴女の笑顔ほど、俺《わし》の心を突き刺すものはない。貴女は、その笑顔で俺《わし》を悩まし殺さうとしてゐるのだ。いや、俺《わし》ばかりぢやない! あの馬鹿の勝彦をまで悩ましてをるのぢや。」
勝平の態度には、愈々《いよ/\》乱酔の萌《きざし》が見えてゐた。彼の眸は、怪しい輝きを帯び、狂人か何かのやうに瑠璃子をジロ/\と見詰めてゐた。
風も雨も、海岸の此一角に、その全力を蒐めたかのやうに、益々《ます/\》吹き荒び降り増つた。が瑠璃子は人と人との必死の戦ひのために、さうした暴風雨の音をも、聞き流すことが出来た。
「疑心暗鬼と云ふことがございますね。貴君のは、それですよ。妾《わたし》を疑つてかかるから、妾《わたし》の笑顔迄が、夜叉の面《おもて》か何かのやうに見えるのでございますよ。」
さう云ひながらも、瑠璃子はその美しい冷たい笑ひを絶たなかつた。勝平は、その巨きい身体をのたうつやうにして云つた。
「貴女は、俺《わし》を飽くまでも、馬鹿にしてをられるのぢや。貴女は人間としての俺《わし》を信用してをられんのぢや。貴女は、俺《わし》の人格を信じてをられないのぢや。俺《わし》に人間らしい心のあることを信じてをられないのぢや。よし、貴女が俺《わし》を人間として扱つて下さらないなら、俺《わし》は獣として、貴女に向つて行くのぢや。俺《わし》は獣のやうに、貴女に迫つて行くのぢや。」
勝平の眸は燃ゆるやうに輝やいた。
「さうだ! 俺《わし》は獣として貴女に迫つて行く外はない!」
さう云つたかと思ふと、勝平は羆《ひぐま》が人間を襲ふ時のやうに、のツと立ち上つた。
瑠璃子も弾かれたやうに、立ち上つた。
立ち上つた勝平は、フラ/\と蹌《よろ》めいてやつと踏み堪へた。彼はその凄じい眸を、真中に据ゑながら、瑠璃子の方へヂリ/\と迫つて来た。
かよわい瑠璃子の顔は、真蒼だつた。身体《からだ》はかすかに顫へてゐたけれども、怯《わる》びれた所は少しもなかつた。その美しい眉宇は、きつと、緊きしまつて、許すまじき色が、アリ/\と動いた。
丁度、その時だつた。風に煽られた大雨が一頻り沛然として降り注いで来た。
二
荒るゝまゝに、夜は十二時に近かつた。
台所にゐる筈の女中達は、眠りこけてでもゐるのだらう、話声一つ聞えて来なかつた。ただ吹き暴《あ》るゝ大風雨の裡に勝平と瑠璃子と丈《だけ》が、取り残されたやうに、睨みながら、相対してゐた。
空に風と雨とが、戦つてゐるやうに、地に彼等は戦つてゐるのだつた。瑠璃子は戦ふべき力もなかつた。武器も持つてはゐなかつた。たゞ彼女の態度に備る天性の美しい威厳一つが、勝平の獣的な攻撃を躊躇させてゐた。が、その躊躇も、永く続く筈はなかつた。勝平の眼が、段々狂暴な色を帯びると共に、彼は勢《いきほひ》猛《まう》に瑠璃子に迫つて来た。彼女は、相手の激しい勢に圧されるやうにヂリ/\と後退《あとずさ》りをせずにはゐられなかつた。
勝平の今少し前の懺悔や告白が、かうした態度に出るまでの径路であつた――一旦|下手《したて》から説いて見て、それで行かなければ腕力に訴へる――かと思ふと、勝平に対して、懐いてゐた一時の好感は、煙のやうになくなつて、たゞ苦い苦い憎悪の滓|丈《だけ》が、残つてゐた。指一つ触れさせてなるものか、さうした堅い決意が、彼女の繊細な心臓を、鉄のやうに堅くしてゐた。
が、彼女の精神的な強さも、勝平の肉体の上の優越に打ち勝つことが出来なかつた。何時の間にか追ひ詰められたやうに、部屋の一方に、海に面した硝子《ガラス》戸の方へ、逃るゝ道のない硝子《ガラス》戸の方へ、瑠璃子は圧し付けられてゐる自分を見出した。
其処で、追ひ詰られた牝鹿と獅子とのやうに、二人は暫らくは相対してゐた。
暴風雨は、少しも勢ひを減じてゐなかつた。岸を噛んで殺到する波濤の響が、前よりも、もつと恐ろしく聞えて来た。が、相争つてゐる二人の耳には、波の音も風の音も聞こえては来なかつた。
「何をなさるのです。貴君《あなた》は?」
勝平が、その堅肥りの巨い手を差し出さうとした時、瑠璃子は初めて声を出して叱した。
「何をしようと、俺《わし》の勝手だ。夫が妻を、生《いか》さうが殺さうが。」
勝平は、さう云ひながら、再び猿臂《ゑんぴ》を延して、瑠璃子の柔かな、やさ肩を掴まうとしたが、軽捷な彼女に、ひらりと身体を避けられると、酒に酔つた足元は、ふら/\と二三歩|蹌《よろ》めいて、のめりさうになつた。
「恥をお知りなさい! 恥を! 妻ではございましても奴隷ではありませんよ。暴力を振ふうなんて。」
彼女は、汚れた者を叱するやうに、吐き捨てるやうに云つた。彼女の声は、遉《さすが》にわな/\と顫へてゐた。
「なに! 恥を! 恥も何もあるものか、俺《わし》はもう獣になり切つてゐるのぢや。」
勝平は、さう云つたかと思ふと前よりももつと烈しい勢で瑠璃子に迫つた。かうしたあさましい人間の争ひを、讃美するかのやうに、風は空中に凄じい歓声を挙げ続けてゐる。
瑠璃子は、ふとその時|護《まも》り刀のことを思ひ出した。かうした非常な場合には、それを抜き放つて自分を護る外はない。が、さう思ひ付いたものの、それはトランクの底深く、蔵つてあるので、急場の今は、何の援けにもならなかつた。
彼女は、最後の手段として、声を振り搾つて女中を呼んだ。が、彼女の呼び声は、風雨の音に消されてしまつて、台所の方からは、物音も聞えて来なかつた。
瑠璃子が、愈《いよ/\》窮したのを見ると、勝平は愈《いよ/\》威丈高になつた。彼は、獣そのまゝの形相を現して居た。ほの暗い洋燈《ランプ》の光で、眼が物凄く光つた。
「あれ!」と、瑠璃子が身を避けようとした時、勝平の強い腕は、彼女の弱い二の腕を、グツと握り占めてゐた。
「何をするのです。お放しなさい!」
彼女は必死になつて、振りほどかうとした。が、強い把握は、容易に解けさうもなかつた。
「何を! 何をするのです!」
瑠璃子は、死者狂ひになつて突き放した。が、突き放された勝平は、前よりも二倍の狂暴さで、再び瑠璃子に飛びかゝつた。
その時だつた。瑠璃子の背後の雨戸と硝子《ガラス》戸とが、バタ/\と音を立てゝ外れると、恐ろしい一陣の風が、サツと室の中へ吹き込んだ。
洋燈《ランプ》は忽ちに消えてしまつた。が、灯の消える刹那だつた。風と共に飛び込んで来た一個の黒影が今瑠璃子に飛びかゝらうとする勝平に、横合からどうと組み付くのが、灯の消ゆるたゆたひ[#「たゆたひ」に傍点]の瞬間に瞥見された。
三
硝子《ガラス》戸の外れるのと共に、室の中へ吹き入つた風と雨とは、忽ちに、二十畳に近い大広間に渦巻いた。床の間の掛軸が、バラ/\と吹き捲られて、挑《は》ね落ちると、ガタ/\と烈しい音がして、鴨居の額が落ちる、六曲の金屏風が吹き倒される。一旦吹き込んだ風は逃れ口がないために、室内の闇を縦横に馳せ廻つて、何時までも何時までも狂奔した。
而も、此の風雨の暴《あ》れ狂ふ漆黒の闇の中に、勝平は飛び込んだ黒影と、必死の格闘を続けてゐたのだ。
「貴様は誰だ! 誰だ!」
不意の襲撃に驚いたらしく勝平は、狼狽して怒号した。が、相手は黙々として返事をしなかつた。
肉と肉とが、相搏つ音が、風雨の音にも紛れず、凄じい音を立てた。身体と身体とが、打ち合ふ音、筋肉と筋肉とが、軋み合ふ音、それは風雨の争ひにも、負けないほどに恐ろしかつた。
其の中《うち》にどう[#「どう」に傍点]と家中を揺がせる地響を打つて、一方が投げ出される音が聞えた、それに続いて転がり合ひながら、格闘する凄じい音が続いた。
「強盗だ! 強盗だ! 早く老爺《ぢいや》を呼んで来い! 瑠璃子! 瑠璃子!」
戦ひが不利と見えて、勝平の声は悲鳴に近かつた。
瑠璃子は、物事の烈しい変化に、気を奪《と》られたやうに、ボンヤリ闇の中に立つてゐた。身に迫つた危険を、思ひがけなく脱し得た安心と、新しく突発した危険に対する不安とで、心が一種不思議な動乱の中に在つた。
勝平の悲鳴を聴いてゐると、助けてやらねばならぬと思ひながら、一種の小気味よさを感ぜずにはゐられなかつた。自分に獣の如く迫つて来た彼が、突然の侵入者に依つて、脆くも取つて伏せられてゐる。さう思ふと瑠璃子の動乱した胸にも皮肉な快感が、ぞく/\とこみ上げて来る。
格闘は尚《なほ》続いた。組み合ひながら、座敷中をのたくつてゐる恐ろしい物音が絶えなかつた。
「瑠璃子! 瑠璃子! 早く、早く。」
援けを呼ぶ勝平の声は、だん/\苦しさうに喘いで来た。
瑠璃子の心の裡に、もつと勝平を苦しませてやれ、かうした不意の出来事に依つて、もつと彼を懲してやれと云ふ、勝平に対する憎悪の心持と、平生の憎悪は兎に角、不時の災難に苦しんでゐる相手を、援けてやらうと云ふ人間的な心持とが、相争つた。
其裡に、ゼイ[#「ゼイ」に傍点]/\と息も絶えさうに、喘ぎ始めた勝平の声が、聞え出した。
「苦しい! 苦しい! 人殺し! 人殺し!」
勝平は、到頭最後の悲鳴を出してしまつた。さうした声を聞くと、瑠璃子の心にも、勝平に対する憐憫が湧かずには居なかつた。彼女は、始めて我に返つたやうに、台所の方に駆け出しながら、大声を出した。
「老爺《ぢいや》! 老爺! 早く来ておくれ! 泥棒! 泥棒!」
瑠璃子の声も、スツカリ上ずツてしまつてゐた。が、さう叫んだ時、彼女の頭の中に突然恋人の直也の事が閃いた。彼は、勝平を射たうとして誤つて、美奈子を傷つけた為、危く罪人とならうとしたのを、勝平に対する父の子爵の哀訴のために、告訴されることを免れた。が、彼は敵《
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