来た。
「あゝお帰りになつた!」瑠璃子は甦へつたやうに、思はず歓喜に近い声を挙げた。その声には、夫に対する妻としての信頼と愛とが籠つてゐることを否定することが出来なかつた。

        五

 風雨の烈しい音にも消されずに、警笛《サイレン》の響は忽ちに近づいた。門内の闇がパツと明るく照されて、その光の裡に雨が銀糸を列ねたやうに降つてゐた。
 瑠璃子と女中達二人とは、その燦然と輝く自動車の頭光《ヘッドライト》に吸はれたやうに、玄関へ馳け付けた。
 微醺を帯びた勝平は、その赤い巨きい顔に、暴風雨《あらし》などは、少しも心に止めてゐないやうな、悠然たる微笑を湛へながら、のつそり[#「のつそり」に傍点]と車から降りた。
「お帰りなさいまし、まあ大変でございましたでせうね。お道が。」
 瑠璃子のさうした言葉は、平素のやうに形式|丈《だけ》のものではなく、それに相当した感情が、ピツタリと動いてゐた。
「なに、大したことはなかつたよ。それよりもね、貴女《あなた》が蒼くなつてゐるだらうと思つてね。此間の大|暴風雨《あらし》で、みんなビク/\してゐる時だからね。いや、鎌倉まで一緒に乗り合はして来た友人にね、此の暴風雨《あらし》ぢや道が大変だから、鎌倉で宿まつて行かないかと、云はれたけれどもね。やつぱり此方《こつち》が心配でね。是非葉山へ行くと云つたら、冷かされたよ。美しい若い細君を貰ふと、それだから困るのだと、はゝゝゝゝゝ。」
 凄じい風の音、烈しい雨の音を、聞き流しながら、勝平は愉快に哄笑した。自然の脅威を挑ね返してゐるやうな勝平の態度に接すると、瑠璃子は心強く頼もしく思はずにはゐられなかつた。男性の強さが、今始めて感ぜられるやうに思つた。
「妾《わたくし》何《ど》うしようかと思ひましたの。廂がベリベリと吹き飛ばされるのですもの。」
 瑠璃子は、まだ不安さうな眼付をしてゐた。
「なに、心配することはない。十月一日の暴風雨の時だつて、土堤《どて》が少しばかり、崩された丈《だけ》なのだ。あんな大暴風雨が、二度も三度も続けて吹くものぢやない。」
 勝平は、瑠璃子が後から、着せかけた褞袍《どてら》に、くるまりながら、どつかりと腰を降ろした。
 が、勝平のさうした言葉を、裏切るやうに、風は刻々吹き募つて行つた。可なり、ピツタリと閉されてゐる雨戸迄が、今にも吹き外されさうに、バタ/\と鳴り響いた。
「さあ! お酒の用意をして下さらんか。かうした晩は、お酒でも飲んで、大に暴風雨と戦はなければならん、はゝゝゝ。」
 勝平は、暴風雨の音に、怯えたやうに耳を聳てゝゐる瑠璃子にさう云つた。
 酒盃の用意は、整つた。勝平は吹き荒ぶ暴風雨の音に、耳を傾けながら、チビリ/\と盃を重ねてゐた。
「妾《わたくし》、本当に早く帰つて下さればいゝと思つてゐましたのよ。男手がないと何となく心細くつてよ。」
「はゝゝ、瑠璃子さんが、俺《わし》を心から待つたのは今宵が始めてだらうな、はゝゝゝゝ。」
 勝平は機嫌よく哄笑した。
「まあ! あんなことを、毎日心からお待ちしてゐるぢやありませんか。」
 瑠璃子は、ついさうした心易い言葉を出すやうな心持ちになつてゐた。
「何《ど》うだか。分りやしませんよ。老爺《おやぢ》め、なるべく遅く帰つて来ればいゝのに。かう思つてゐるのぢやありませんか。はゝゝゝゝ。」
 瑠璃子の今宵に限つて、温かい態度に、勝平は心から悦に入つてゐるのだつた。
「それも、無理はありません。貴女が内心|俺《わし》を嫌つてゐるのも、全く無理はありません。当然です、当然です。俺も嫌がる貴女《あなた》を、何時までも名ばかりの妻として、束縛してゐたくはないのです。これが、どんな恐ろしい罪かと云ふことが分つてゐるのです。所がですね。初めはホンの意地から、結婚した貴女が、一旦形式|丈《だけ》でも同棲して見ると、……一旦貴女を傍に置いて見ると、死んでも貴女を離したくないのです。いや、死んでも貴女から離れたくないのです。」
 余程酒が進んで来たと見え、勝平は管を捲くやうにさう云つた。

        六

 風は益々吹き荒れ雨は益々降り募つてゐた。が、勝平は戸外のさうした物音に、少しも気を取られないで、瑠璃子が酌《つ》いでやつた酒を、チビリ/\と嘗《な》めながら、熱心に言葉を継いだ。
「まあ、簡単に云つて見ると、スツカリ心から貴女に惚れてしまつたのです! 俺《わし》は今年四十五ですが、此年まで、本当に女と云ふものに心を動かしたことはなかつたのです。勝彦や美奈子の母などとも、たゞ、在来《ありきたり》の結婚で、給金の入《い》らない高等な女中をでも、傭つたやうに考うて、接してゐたのです。金が出来るのに従つて、金で自由になる女とも沢山接して見ましたが、どの女もどの女も、たゞ玩具か何かのやうに、弄んでゐたのに過ぎないのです。俺《わし》は女などと云ふものは、酒や煙草などと同じに、我々男子の事業の疲れを慰めるために存在して居る者に過ぎないとまで高を括《くゝ》つてゐたのです。所がです、俺《わし》のさうした考へは貴女に会つた瞬間に、見事に打ち破られてゐたのです。男子の為に作られた女でなくして、女自身のために作られた女、俺《わし》は貴女に接してゐると、直ぐさう云ふ感じが頭に浮かんだのです。男の玩具として作られた女ではなくして、男を支配するために作られた女、俺《わし》は貴女を、さう思つてゐるのです。それと一緒に、今まで女に対して懐いてゐた侮蔑や軽視は、貴女に対してはだん/\無くなつて行くのです。その反対に、一種の尊敬、まあさう云つた感じが、だん/\胸の中に萌して来たのです。結婚した当座は、何の此の小娘が、俺を嫌ふなら嫌つて見ろ! 今に、征服してやるから。と、かう思つてゐたのです。所が、今では貴女の前でなら、どんなに頭を下げても、いいと思ひ出したのです。貴女の愛情を、得るためになら、どんなに頭を下げても、いゝと思ひ始めたのです。何うです、瑠璃子さん! 俺《わし》の心が少しはお分りになりますか。」
 勝平は、さう云つて言葉を切つた。酔つてはゐたが、その顔には、一本気な真面目さが、アリ/\と動いてゐた。かうした心の告白をするために、故意《わざ》と酒盃《さかづき》を重ねてゐるやうにさへ、瑠璃子に思はれた。
「俺《わし》は、世の中に金より貴いものはないと思つてゐました。俺《わし》は金さへあれば、どんな事でも出来ると思つてゐました。実際貴女を妻にすることが、出来た時でさへ、金があればこそ、貴女のやうな美しい名門の子女を、自分の思ひ通《どほり》にすることが出来るのだと思つてゐたのです。が、俺《わし》が貴女を、金で買ふことが出来たと想つたのは、俺《わし》の考違《かんがへちがひ》でした。金で俺《わし》の買ひ得たのは、たゞ妻と云ふ名前|丈《だけ》です。貴女の身体をさへ、まだ自分の物に、することが出来ないで苦しんでゐるのです。まして、貴女の愛情の断片でも、俺《わし》の自由にはなつてゐないのです。俺《わし》は貴女の俺《わし》に対する態度を見て、つくづく悟つたのです。俺《わし》の全財産を投げ出しても、貴女の心の断片《きれはし》をも、買ふことが出来ないと云ふことを、つく/″\悟つたのです。が、さう思ひながらも、俺《わし》は貴女を思ひ切ることが出来ないのです。俺《わし》は金で買ひ損つたものを、俺《わし》の真心で、買はうと思ひ立つたのです。いや、買ふのではない、貴女の前に跪《ひざまづ》いて、買ふことの出来なかつたものを哀願しようとさへ思つてゐるのです。また、さうせずにはゐられないのです。先刻《さつき》も申しました通《とほり》、もう一刻も貴女なしには生きられなくなつたのです。」
 変に言葉までが改まつた勝平は、恋人の前に跪いてゐる若い青年か、何かのやうに、激してゐた。彼の巨きい真赤な顔は、何処にも偽りの影がないやうに、真面目に緊張してゐた。彼は大きい眼を刮《む》きながら、瑠璃子の顔を、ぢつと見詰めてゐた。敵意のある凝視なら、睨み返し得る瑠璃子であつたが、さうした火のやうな熱心の凝視には却つて堪へかねたのであらう、彼女は、眩しいものを避けるやうに、ぢつと顔を俯けた。
「何うです! 瑠璃子さん! 俺の心を、少しは了解して下さいますか。」
 勝平の声は、瑠璃子の心臓を衝《つ》くやうな力が籠つてゐた。

        七

 酒の力を借りながら、その本心を告白してゐるらしい勝平の言葉を、聴いてゐると、今までは獣的《ブルータル》な、俗悪な男、精神的には救はれるところのない男だと思ひ捨てゝゐた勝平にも、人間的な善良さや弱さを、感ぜずにはゐられなかつた。
 あれ丈、傲岸で黄金の万能を、主張してゐた男が、金で買へない物が、世の中に儼として存在してゐることを、潔く認めてゐる。金では、人の心の愛情の断片《かけら》をさへ、買ひ得ないことを告白してゐる。彼は、今自分の非を悟つて、瑠璃子の前に平伏して彼女の愛を哀願してゐる。敵は脆くも、降つたのだ。さうだ! 敵は余りにも、脆くも降つたのだ、瑠璃子は心の裡で思はず、さう叫ばずにはゐられなかつた。
「瑠璃子さん! 俺《わし》はお願ひするのだ。俺《わし》は、俺《わし》の前非を悔いて貴女に、お願ひするのぢや。貴女は、心から俺《わし》の妻になつて下さることは出来んでせうか。これまでの偽りの結婚を、俺《わし》の真心で浄めることは出来んでせうか。俺《わし》は、この結婚を浄めるために、どんなことをしてもいゝ。俺《わし》の財産を、みんな投げ出してもいゝ。いや俺《わし》の身体《からだ》も生命《いのち》もみんな投げ出してもいゝ。俺《わし》は、貴女から、夫として信頼され愛されさへすれば、どんな犠牲を払つてもいゝと思つてゐるのです。俺《わし》は、先刻《さつき》自動車から降りて、貴女と顔を見合せた時、俺《わし》は結婚して以来初めて幸福を感じたのです。今日|丈《だけ》は、貴女が心から俺《わし》を迎へて呉れてゐる。貴女の笑顔が心からの笑顔だと思ふと、俺《わし》は初めて結婚の幸福を感じたのです。が、それも落着いて考へて見ると、貴女が俺《わし》を喜んで迎へて呉れたのも、夫としてではない、たゞこんな恐ろしい晩に必要な男手として喜んでゐるのだと思ふと、又急に情なくなるのです。俺《わし》が貴女を、賤しい手段で、妻にしたと云ふ罪を、俺《わし》の貴女に対する現在の真心で浄めさせて下さい!」
 勝平は、酒のために、気が狂つたのではないかと思はれるほどに激昂してゐた。瑠璃子は相手の激しい情熱に咽せたやうに何時の間にか知らず/\、それに動かされてゐた。
「瑠璃子さん、貴女も今までの事は、心から水に流して、俺《わし》の本当の妻になつて下さい。貴女が心ならずも、俺《わし》の妻になつたことは、不幸には違ひない。が、一旦妻になつた以上、貴女が肉体的には、妻でないにしろ、世間では誰も、さうは思つてゐないのです。社会的に云へば、貴女は飽くまでも、荘田勝平の妻です。貴女も、かうした羽目に陥つたことを、不幸だと諦めて、心から俺《わし》の妻になつて下さらんでせうか。」
 勝平の眼は、熱のあるやうに輝いてゐた。瑠璃子も、相手の熱情に、ついフラ/\と動かされて、思はず感激の言葉を口走らうとした。が、その時に彼女の冷たい理性が、やつとそれを制した。
『相手が余りに脆いのではない! お前の方が余りに脆いのではないか。お前は、最初のあれほど烈しい決心を忘れたのか。正義のために、私憤ではなくして、むしろ公憤のために、相手を倒さうと云ふ強い決心を忘れたのか。勝平の口先|丈《だけ》の懺悔に動かされて、余りに脆くお前の決心を捨てゝしまふのか。お前は勝平の態度を疑はないのか。彼は、お前に降伏したやうな様子を見せながら、お前を肉体的に、征服しようとしてゐるのだ。兜を脱いだやうな風を装ひながら、お前に飛び付かうとしてゐるのだ。お前が、勝平の告白に感激して、お前の手を与へて御覧! 彼は、その手を戴くやうな風をしながら、何時の間にかお前を蹂み躙つてしまふのだ。お前は敵の暴力と戦ふばかりでなく
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