ある。殊に、鍵のかかり得るやうな西洋室はない。瑠璃子を肉体的に支配してしまへば、高が一個の少女である。普通の処女がどんなに嫌ひ抜いてゐても、結婚してしまへば、男の腕に縋り付くやうに、彼女も一旦その肉体を征服してしまへば、余りに脆き一個の女性であるかも知れない。勝平はさう思つた。
「それなら丁度ようございますわ。三越へ行つて、彼方《あちら》で入用な品物を揃へて参りますわ。」
 彼女は、身に迫る危険な場合を、少しも意に介しないやうに、寧《むし》ろいそ/\としながら云つた。

        二

 愛し合つた夫であるならば、それは楽しい新婚旅行である筈だけれども、瑠璃子の場合は、さうではなかつた。勝平と二人|限《きり》で、東京を離れることは、彼女に取つては死地に入ることであつた。東京の邸では、人目が多い丈《だけ》に、勝平も一旦与へた約束の手前、理不尽な振舞に出ることは出来なかつたが、葉山では事情が違つてゐた。今迄は敵と戦ふのに、地の利を得てゐた。小さいながらも、彼女の城廓があつた。殊に盲目的に、彼女を護つてゐる勝彦と云ふ番兵もあつた。が、葉山には、何もなかつた。彼女は赤手にして、敵と渡り合はねばならなかつた。勝敗は、天に委せて、兎に角に、最後の必死的な戦ひを、戦はねばならなかつた。
 さうした不安な期待に、心を擾されながらも、彼女はいろ/\と、別荘生活に必要な準備を整へた。彼女は、当座の着替や化粧道具などを、一杯に詰め込んだ大きなトランクの底深く、一口の短剣を入れることを忘れなかつた。それが、夫と二人|限《き》りの別荘生活に対する第一の準備だつた。
 父の男爵が、瑠璃子の烈しい執拗な希望に、到頭動かされて、不承々々に結婚の承諾を与へて、最愛の娘を、憎み賤しんでゐた男に渡すとき、男爵は娘に最後の贈り物として、一口の短劒を手渡した。
「これは、お前のお母様が家へ来るときに持つて来た守り刀なのだ。昔の女は、常に懐刀《ふところがたな》を離さずに、それで自分の操を守つたものだ。貴女も普通の結婚をするのなら、こんなものは不用だが、今度のやうな結婚には、是非必要かも知れない。これで、貴女の現在の決心を、しつかりと守るやうになさい。」
 父の言葉は簡単だつた。が、意味は深かつた。彼女はその匕首《あひくち》を身辺から離さないで、最後の最後の用意としてゐた。さうした最後の用意が、如何なる場合にも、彼女を勇気付けた。牡牛のやうに巨きい勝平と相対してゐながら、彼女は一度だつて、怯れたことはなかつた。
 瑠璃子が暫らく東京を離れると云ふことが分ると、一番に驚いたのは勝彦だつた。彼は瑠璃子が準備をし始めると、自分も一緒に行くのだと云つて、父の大きいトランクを引つ張《ぱり》出して来て、自分の着物や持物を目茶苦茶に詰め込んだ。おしまひには、自分の使つてゐる洗面器までも、詰め込んで召使達を笑はせた。彼は、瑠璃子に捨てゝ置かれないやうにと、一瞬の間も瑠璃子を見失はないやうに後《あと》へ/\と付き纏つた。
 それを見ると、勝平は眉を顰めずにはゐられなかつた。
 出立の朝だつた。自分が捨てゝ置かれると云ふことが分ると、勝彦は狂人のやうに暴れ出した。毎年一度か二度は、発作的に狂人のやうになつてしまふ彼だつた。彼は瑠璃子と父とが自動車に乗るのを見ると、自分も跣足《はだし》で馳け降りて来ながら、扉《ドア》を無理矢理に開けようとした。執事や書生が三四人で抱き止めようとしたが、馬鹿力の強い彼は、後から抱き付かうとする男を、二三人も其処へ振り飛ばしながら、自動車に縋り付いて離れなかつた。
 白痴でありながらも、必死になつてゐる顔色を見ると、瑠璃子は可なり心を動かされた。主人に慕ひ纏はつて来る動物に対するやうないぢらしさを、此の無智な勝彦に対して、懐かずにはゐられなかつた。
「あんなに行きたがつていらつしやるのですもの。連れて行つて上げてはいけないのですか。」
 瑠璃子は夫を振返りながら云つた。その微笑が、一寸皮肉な色を帯びるのを、彼女自身制することが出来なかつた。
「馬鹿な!」
 勝平は、苦り切つて、一言に斥けると、自動車の窓から顔を出しながら云つた。
「遠慮をすることはない。グン/\引き離して彼方《あつち》へ連れて行け。暴れるやうだつたら、何時かの部屋へ監禁してしまへ。当分の間、監視人を付けて置くのだぞ、いゝか。」
 勝平は、叱り付けるやうに怒鳴ると、丁度勝彦の身体が、多勢の力で車体から引き離されたのを幸《さひはひ》に、運転手に発車の合図を与へた。
 動き出した車の中で瑠璃子は一寸居ずまひを正しながら、背後に続いてゐる勝彦のあさましい怒号に耳を掩はずにはゐられなかつた。

        三

 葉山へ移つてから、二三日の間は、麗かな秋日和が続いた。東京では、とても見られないやうな薄緑の朗かな空が、山と海とを掩うてゐた。海は毎日のやうに静かで波の立たない海面は、時々緩やかなうねり[#「うねり」に傍点]が滑かに起伏してゐた。海の色も、真夏に見るやうな濃藍の色を失つて、それ丈《だけ》親しみ易い軽い藍色に、はる/″\と続いてゐた。その端《はて》に、伊豆の連山が、淡くほのかに晴れ渡つてゐるのだつた。
 十月も終に近い葉山の町は、洗はれたやうに静かだつた。どの別荘も、どの別荘も堅く閉されて人の気勢《けはひ》がしなかつた。
 御用邸に近い海岸にある荘田別荘は、裏門を出ると、もう其処の白い砂地には、崩れた波の名残りが、白い泡沫を立ててゐるのだつた。
 勝平は、葉山からも毎日のやうに、東京へ通つてゐた。夫の留守の間、瑠璃子は何人《なんぴと》にも煩はされない静寂の裡に、浸つてゐることが出来た。
 瑠璃子はよく、一人海岸を散歩した。人影の稀な海岸には、自分一人の影が、寂しく砂の上に映つてゐた。遥に/\悠々と拡がつてゐる海や、その上を限《かぎり》なく広大に掩うてゐる秋の朗かな大空を見詰めてゐると、人間の世のあさましさが、しみ/″\と感ぜられて来た。自分自身が、復讐に狂奔して、心にもない偽りの結婚をしてゐることが、あさましい罪悪のやうに思はれて、とりとめもなく、心を苦しめることなのであつた。
 葉山へ移つてから、三四日の間、勝平は瑠璃子を安全地帯に移し得たことに満足したのであらう。人のよい好々爺になり切つて、夕方東京から帰つて来る時には、瑠璃子の心を欣《よろこば》すやうな品物や、おいしい食物などをお土産にすることを忘れなかつた。
 葉山へ移つてから、丁度五日目の夕方だつた。其日は、午過ぎから空模様があやしくなつて、海岸へ打ち寄せる波の音が、刻一刻凄じくなつて来るのだつた。
 海に馴れない瑠璃子には、高く海岸に打ち寄せる波の音が、何となく不安だつた。別荘番の老爺は暗く澱んでゐる海の上を、低く飛んで行く雲の脚を見ながら、『今宵は時化《しけ》かも知れないぞ。』と、幾度も/\口ずさんだ。
 夕刻に従つて、風は段々吹き募つて来た。暗く暗く暮れて行く海の面《おもて》に、白い大きい浪がしらが、後から/\走つてゐた。瑠璃子は硝子《ガラス》戸の裡から、不安な眉をひそめながら、海の上を見詰めてゐた。烈しい風が砂を捲いて、パラ/\と硝子《ガラス》戸に打ち突けて来た。
「あゝ早く雨戸を閉めておくれ。」
 瑠璃子は、狼狽して、召使に命じると、ピツタリと閉ざされた部屋の中に、今宵に限つて、妙に薄暗く思はれる電燈の下に、小さく縮かまつてゐた。人間同士の争ひでは、非常に強い瑠璃子も、かうした自然の脅威の前には、普通の女らしく臆病だつた。海岸に立つてゐる、地形の脆弱な家は、時々今にも吹き飛ばされるのではないかと思はれるほど、打ち揺いだ。海岸に砕けてゐる波は、今にも此の家を呑みさうに轟々たる響を立てゝゐる。
 瑠璃子には、結婚して以来、初めて夫の帰るのが待たれた。何時もは、夫の帰るのを考へると、妙に身体が、引き緊つてムラ/\とした悪感が、胸を衝いて起るのであつたが、今宵に限つては、不思議に夫の帰るのが待たれた。勝平の鉄のやうな腕が何となく頼もしいやうに思へた。逗子の停車場から自動車で、危険な海岸伝ひに帰つて来ることが何となく危《あやぶ》まれ出した。
「かう荒れてゐると、鐙摺《あぶずり》のところなんか、危険ぢやないかしら。」と女中に対して瑠璃子は、我にもあらず、さうした心配を口に出してしまつた。
 その途端に、吹き募つた嵐は、可なり宏壮な建物を打ち揺すつた。鎖で地面へ繋がれてゐる廂が、吹きちぎられるやうにメリ/\と音を立てた。

        四

「こんなに荒れると、本当に自動車はお危なうございますわ。一層こんな晩は、彼方《あちら》でお宿りになるとおよろしいのでございますが。」
 女中も主人の身を案ずるやうにさう云つた。が、瑠璃子は是非にも帰つて貰ひたいと思つた。何時もは、顔を見てゐる丈でも、ともすればムカ/\として来る勝平が、何となく頼もしく力強いやうに感ぜられるのであつた。
 日が、トツプリ暮れてしまつた頃から、嵐は益《ます/\》吹き募つた。海は頻りに轟々と吼え狂つた。波は岸を超え、常には干乾びた砂地を走つて、別荘の土堤《どて》の根元まで押し寄せた。
「潮が満ちて来ると、もつと波がひどく[#「ひどく」に傍点]なるかも知れねえぞ!」
 海の模様を見るために出てゐた、別荘番の老爺《おやぢ》は、漆のやうに暗い戸外から帰つて来ると、不安らしく呟いた。
「まさか、此間のやうな大|暴風雨《あらし》にはなりますまいね。」
 女中も、それに釣り込まれたやうに、オド/\しながら訊いた。皆の頭に、まだ一月にもならない十月一日の暴風雨の記憶がマザ/\と残つてゐた。それは、東京の深川本所に大|海嘯《つなみ》を起して、多くの人命を奪つたばかりでなく、湘南各地の別荘にも、可なりヒドイ惨害を蒙らせたのであつた。
「まさか先度のやうな大暴風雨にはなるまいかと思ふが、時刻も風の方向《むき》もよく似てゐるでなあ!」
 老爺は、心なしか瑠璃子達を脅すやうに、首を傾げた。
 夜に入つてから、間もなく雨戸を打つ雨の音が、ボツリ/\と聞え出したかと思ふと、それが忽ち盆を覆すやうな大雨となつてしまつた、天地を洗ひ流すやうな雨の音が、瑠璃子達の心を一層不安に充たしめた。
 恐ろしい風が、グラ/\と家を吹き揺すつたかと思ふ途端に、電燈がふつと消えてしまつた。かうした場合に、燈火の消えるほど、心細いものはない。女中は闇の中から手探りにやつと、洋燈《ランプ》を探し当てゝ火を点じたが、ほの暗い光は、一層瑠璃子の心を滅入らしてしまつた。
 暗い燈火の下に蒐つてゐる瑠璃子と女中達を、もつと脅かすやうに、風は空を狂ひ廻り、波は断《しきり》なしに岸を噛んで殺到した。
 風は少しも緩みを見せなかつた。雨を交へてからは、有力な味方でもが加はつたやうに、益々《ます/\》暴威を加へてゐた。風と雨と波とが、三方から人間の作つた自然の邪魔物を打ち砕かうとでもするやうに力を協《あは》せて、此建物を強襲した。
 グワラ/\と、何処かで物の砕け落ちる音がしたかと思ふと、それに続いて海に面してゐる廂が吹き飛ばされたと見え、ベリ/\と云ふ凄じい音が、家全体を震動した。今迄は、それでも、慎しく態度の落着を失つてゐなかつた瑠璃子もつい度を失つたやうに立ち上つた。
「何うしようかしら、今の裡に避難しなくてもいゝのかしら。」
 さう云ふ彼女の顔には、恐怖の影がアリ/\と動いてゐた。人間同士の交渉では、烈女のやうに、強い彼女も、自然の恐ろしい現象に対しては、女らしく弱かつた。
 女中達も、色を失つてゐた。女中は声を挙げて別荘番の老爺を呼んだけれども、風雨の音に遮られて、別荘番の家までは、届かないらしかつた。
 ベリ/\と云ふ廂の飛ぶ音は、尚続いた。その度に、家がグラ/\と今にも吹き飛ばされさうに揺いだ。
 丁度、此の時であつた。瑠璃子の心が、不安と恐怖のどん底に陥つて、藁にでも縋り付きたいやうに思つてゐる時だつた。悽じい風雨の音にも紛れない、勇ましい自動車の警笛《サイレン》が、暗い闇を衝いてかすかに/\聞えて
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