さうだ! 自分が小娘として、つまらない油断や、約束をしたのが悪かつたのだ。云はゞ降伏した敵将の娘を、妻にしてゐるやうなものである。美しい顔の下に、どんな害心を蔵してゐるかも知れない。
が、さう警戒はしながら、瑠璃子を愛する心は、少しも減じなかつた。それと同時に、眼前の情景《シーン》に対する嫉妬の心は少しも減じなかつた。
六
勝平が、縁側《ヴェランダ》の欄干に、釘付けにされながら、二人の後姿が全く見えなくなつた若い楓の林を、ぢつと見詰めてゐる時に、その林の向うにある泉水の畔から、瑠璃子の華やかな笑ひが手に取るやうに聞えて来た。
それは、雲雀《ひばり》の歌ふやうに、自由な快活な笑ひだつた。結婚して以来、もう一月以上の日が経つ内、勝平に対しては決して笑つたことのないやうな自由な快活な笑ひ声であつた。茲《こゝ》からは見えない泉水のほとりで、縦令《たとへ》馬鹿ではあるにしろ年齢《とし》だけは若い、身体|丈《だけ》は堂々と立派な勝彦が、瑠璃子と相並んで、打ち興じてゐる有様が、勝平の眼に、マザ/\と映つて来るのであつた。
彼は苦々しげに、二人に向つてでも吐くやうに、唾を遥かな地上へ吐いてから、その太い眉に、深い決心の色を凝《こ》めながら、階下へ降りて行つた。
勝平は、抑へ切れない不快な心持に、悩まされつゝ、罪のない召使を、叱り飛ばしながら、漸く顔を洗つてしまふと、苦り切つた顔をして、朝の食卓に就いた。いつも朝食を一緒にする筈の瑠璃子はまだ庭園から、帰つて来なかつた。
「奥さんは何うしたのだ。奥さんは!」勝平は、オド/\してゐる十五六の小間使を、噛み付けるやうに叱り飛した。
「お庭でございます。」
「庭から、早く帰つて来るやうに云つて来るのだ。俺が起きてゐるぢやないか。」
「ハイ。」小さい小間使は、勝平の凄じい様子に、縮み上りながら、瑠璃子を呼びに出て行つた。
瑠璃子が、入つて来れば、此の押へ切れない憤《いきどほり》を、彼女に対しても、洩さう。白痴の子を弄んでゐるやうな、彼女の不謹慎を思ひ切り責めてやらう。勝平はさう決心しながら、瑠璃子が入つて来るのを待つてゐた。
二三分も経たない裡に、衣ずれの音が、廊下にしたかと思ふと、瑠璃子は少女のやうにいそいそと快活に、馳け込んで来た。
「まあ! お早う! もう起きていらしつたの。妾《わたくし》ちつとも、知らなかつたのよ。お寝坊の貴方《あなた》の事だから、どうせ十一時近くまでは大丈夫だと思つてゐたのよ。昨夜あんなに遅く帰つて来たのに、よくまあ早くお目覚になつたこと。この花美しいでせう。一番大きくて、一番色の烈しい花なのよ。妾《わたくし》これが大好き。」
さう云ひながら、瑠璃子は右の手に折り持つてゐた、真紅の大輪のダリヤを、食卓《テーブル》の上の一輪挿に投げ入れた。
勝平は、何うかして瑠璃子をたしなめようと思ひながらも、彼女の快活な言葉と、矢継早の微笑に、面と向ふと、彼は我にもあらず、凡ての言葉が咽喉のところに、からんでしまふやうに思つた。
「昨夜《ゆうべ》、よくお眠りになつて? 妾《わたくし》芝居で疲れましたでせう、今朝まで、グツスリと寝入つてしまひましたのよ。こんなに、よく眠られたことはありませんわ、近頃。」
昨夜の騒ぎを、親子三人のあさましい騒ぎを、知つてゐるのか知らないのか、瑠璃子はその美しい顔の筋肉を、一筋も動かさずに、華奢な指先で、軽く箸を動かしながら、勝平に話しかけた。
勝平は、心の裡に、わだかまつてゐる気持を、瑠璃子に向つて、洩すべき緒《いとぐち》を見出すのに苦しんだ。相手が、昨夜の騒ぎを、少しも知らないと云ふのに、それを材料として、話を進めることも出来なかつた。
彼は、瑠璃子には、一言も答へないで、そのいら/\しい気持を示すやうに、自棄《やけ》に忙しく箸を動かしてゐた。
勝平の不機嫌を、瑠璃子は少しも気に止めてゐないやうに、平然と、その美しい微笑を続けながら、
「妾《わたくし》、今日三越へ行きたいと思ひますの。連れて行つて下さらない?」
彼女は、プリ/\してゐる勝平に、尚小娘か何かのやうに、甘えかゝつた。
「駄目です。今日は東洋造船の臨時総会だから。」
勝平は、瑠璃子に対して、初めて荒々しい言葉を使つた。彼女はその荒々しい語気を跳ね返すやうに云つた。
「あら、さう。それでは、勝彦さんに一緒に行つていたゞくわ。……いゝでせう。」
七
勝彦の名が瑠璃子の唇を洩れると、勝平の巨きい顔は、益《ます/\》苦り切つてしまつた。
相手のさうした表情を少しも眼中に置かないやうに、瑠璃子は無邪気にしつこく云つた。
「勝彦さんに、連れて行つていたゞいたらいけませんの。一人だと何だか心細いのですもの。妾《わたくし》一人だと買物をするのに何だか定《きま》りが付かなくつて困りますのよ。表面《うはべ》丈《だけ》でもいゝからいゝとか何とか合槌を打つて下さる方が欲しいのよ。」
「それなら、美奈子と一緒に行らつしやい。」
勝平は、怒つた牡牛のやうにプリ/\しながら、それでも正面から瑠璃子をたしなめ[#「たしなめ」に傍点]ることが出来なかつた。
「美奈子さん。だつて、美奈子さんは、三時過ぎでなければ学校から、帰つて来ないのですもの。それから支度をしてゐては、遅くなつてしまひますわ。」
瑠璃子は、大きい駄々つ子のやうな表情を見せながら、その癖顔|丈《だけ》は、微笑を絶たなかつた。勝平は又黙つてしまつた。瑠璃子は追撃するやうに云つた。
「何うして勝彦さんに一緒に行つていたゞいては、いけませんの。」
勝平の顔色は、咄嗟に変つた。その顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》の筋肉が、ピク/\動いたかと思ふと、彼は顫へる手で箸を降しながら、それでも声|丈《だ》けは、平静な声を出さうと努めたらしかつたが、変に上ずツてしまつてゐた。
「勝彦! 勝彦勝彦と、貴女《あなた》はよく口にするが、貴女は勝彦を一体何だと思つてゐるのです。もう、一月以上此家にゐるのだから、気が付いたでせう。親の身として、口にするさへ恥かしいが、あれは白痴ですよ。白痴も白痴も、御覧の通《とほり》東西も弁じない白痴ですよ。あゝ云ふ者を三越に連れて行く。それは此の荘田の恥、荘田一家の恥を、世間へ広告して歩くやうなものですよ。貴女も、動機は兎も角、一旦此の家の人となつた以上、かう云ふ馬鹿息子があると云ふことを、広告して下さらなくつてもいゝぢやありませんか。」
勝平は、結婚して以来、初めて荒々しい言葉を、瑠璃子に対して吐いた。が、象牙の箸を飯椀の中に止めたまゝ、ぢつと聴いてゐた瑠璃子は、眉一つさへ動かさなかつた。勝平の言葉が終ると、彼女は駭いたやうに、眼を丸くしながら、
「まあ! あんなことを。そんな邪推してゐらつしやるの。妾《わたくし》勝彦さんを馬鹿だとか白痴だとか賤しめたことは、一度もありませんわ。あんな無邪気な純な方はありませんわ。それは、少し足りないことは足りないわ。それは、お父様の前でも申し上げねばなりません。でも、あんなに正直な方に、妾《わたくし》初めてお目にかゝりましたのよ。それに妾《わたくし》の云つたことなら、何でもして下さるのですもの。此間、お家が広いので、夜寝室の中に、一人ゐると何だか寂しく心細くなると、申しますと、勝彦さんは、それなら毎晩部屋の外で番をしてやらうと仰《おつ》しやるのですよ。妾《わたくし》冗談だとばかり、思つてゐますと、一昨夜二時過ぎに、廊下に人の気勢《けはひ》がするので、扉《ドア》を開けて見ますと、勝彦さんが立つていらつしやるぢやありませんか。それが、丁度中世紀の騎士《ナイト》が、貴婦人を護る時のやうに、儼然として立つていらつしやるのですもの。妾《わたくし》可笑しくもあれば、有難くも思つたわ。妾《わたくし》此の頃、智恵のある怜悧な方には、飽き/\してゐますの、また、その智恵を、人を苦しめたり陥れたりする事に使ふ人達に、飽き/\してゐますのよ。また、人が傷け合つたり陥れ合つたりする世間その物にも、愛想が尽きてゐますのよ。妾《わたくし》、勝彦さんのやうな、のんびりとした太古の心で、生きてゐる方が、大好きになりましたのよ。貴方の前でございますが、何うして勝彦さんを捨てゝ、貴方を選んだかと思ふと、後悔してゐますのよ。おほゝゝゝゝゝ。」
爽かな五月の流が、蒼い野を走るやうに、瑠璃子は雄弁だつた。黙つて聴いてゐた勝平の顔は、怒《いかり》と嫉妬のために、黒ずんで見えた。
余りに脆き
一
勝平は、冗談かそれとも真面目かは分らないが、人を馬鹿にしてゐるやうに、からかつてゐるやうに、勝彦を賞める瑠璃子の言葉を聞いてゐると、思はずカツとなつてしまつて、手に持つてゐる茶碗や箸を、彼女に擲《なげ》つけてやりたいやうな烈しい嫉妬と怒とを感じた。が、口先ではそんな厭がらせを云ひながらも、顔|丈《だけ》は此の頃の秋の空のやうに、澄み渡つた麗かな瑠璃子を見てゐると、不思議に手が竦んで、茶碗を投げ付けることは愚か、一指を触るゝことさへも、為し得なかつた。
が、勝平は心の中で思つた。此の儘にして置けば、瑠璃子と勝彦とは、日増に親しくなつて行くに違ひない。そして自分を苦しめるのに違ひない。少くとも、当分の間、自分と瑠璃子とが本当の夫婦となるまで、何うしても二人を引き離して置く必要がある。勝平は、咄嗟にさう考へた。
「あはゝゝゝゝ。」彼は突然取つて付けたやうに笑ひ出した。「まあいゝ! 貴女《あなた》がそんなに馬鹿が好きなら連れて行くもよからう。貴女のやうなのは、天邪鬼と云ふのだ。あはゝゝゝゝ。」
勝平は、嫉妬と憤怒とを心の底へと、押し込みながら、何気ないやうに笑つた。
「何うも、有難う。やつと、お許しが出ましたのね。」瑠璃子も、サラリと何事もなかつたやうに微笑した。
その時に、勝平は急に思ひ付いたやうに云つた。
「さう/\。貴女《あなた》に話すのを忘れてゐた。此間中頭が重いので、一昨日《をとゝひ》、近藤に診て貰ふと、神経衰弱の気味らしいと云ふのだ。海岸へでも行つて、少し静養したら何うだと云ふのだがね、さう云はれると、俺も此の七月以来会社の創立や何かで、毎日のやうに飛び廻つてゐたものだからね、精力主義の俺《わし》も可なりグダ/\になつてゐるのだ。神経衰弱だなんて、大したこともあるまいと思ふが、まあ暫らく葉山へでも行つて、一月ばかり遊んで来ようかと思ふのだ。尤も、彼処からぢや、毎日東京に通つても訳はないからね。それに就いては、是非貴女に一緒に行つていたゞきたいと思ふのだがね。」勝平は、熱心に、退引ならないやうに瑠璃子に云つた。
「葉山へ!」と云つたまゝ、遉《さすが》に彼女は二の句を云ひ淀んだ。
「さうです! 葉山です。彼処に、林子爵が持つてゐた別荘を、此春譲つて貰つたのだが、此夏美奈子が避暑に行つた丈《だけ》で、俺《わし》はまだ二三度しか宿《とま》つてゐないのだ。秋の方が、静《しづか》でよいさうだから、ゆつくり滞在したいと思ふのだが。」
勝平は、落着いた口調で言つた。葉山へ行くことは、何の意味もないやうに云つた。が、瑠璃子には、その言葉の奥に潜んでゐる勝平のよからぬ意志を、明かに読み取ることが出来た。葉山で二人|丈《だけ》になる。それが何う云ふ結果になるかは瑠璃子には可なりハツキリ分るやうに思つた。が、彼女はさうした危機を、未然に避くることを、潔しとしなかつた。どんな危機に陥つても、自分自身を立派に守つて見せる。彼女には、女ながらさうした烈しい最初の意気が、ピクリとも揺いでゐなかつた。
「結構でございますわ、妾《わたくし》も、そんな所で静かな生活を送るのが大好きでございますのよ。」
彼女は、その清麗な面に、少しの曇も見せないで、爽かに答へた。
「あゝ行つて呉れるのか。それは有難い。」
勝平は、心から嬉しさうにさう云つた。葉山へさへ、伴つて行けば、当分勝彦と引き離すことが出来る上に、其処では召使を除いた外は、瑠璃子と二人切りの生活で
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