分が、あまりにお人好しのやうに思はれ始めた。
 彼は、フラ/\として、寝台を離れて、夜更けの廊下へ出た。

        三

 廊下へ出て見ると、家人達はみんな寝静まつてゐた。まだ十月の半ではあつたが、広い洋館の内部には、深夜の冷気が、ひや/\と、流れてゐた。が、烈しい情火に狂つてゐる勝平の身体には、夜の冷たさも感じられなかつた。彼は、自分の家の中を、盗人のやうに、忍びやかに、夢遊病者のやうに覚束なく、瑠璃子の部屋の方向へ歩いた。
 彼女の部屋は、階下に在つた。廊下の燈火は、大抵消されてゐたが、階段に取り付けられてゐる電燈が、階上にも階下にも、ほのかな光を送つてゐた。
 勝平は、彼女に与へた約束を男らしくもなく、取り消すことが心苦しかつた。彼女に示すべき自分の美点は、男らしいと云ふ事より、外には何もない。彼女の信頼を得るやうに、男らしく強く堂々と、行動しなければならない。それが、彼女の愛を得る唯一の方法だと勝平は心の中で思つてゐた。それだのに、彼女に一旦与へた約束を、取り消す。男らしくもなく破約する。が、さうした心苦しさも、勝平の身体全体に、今潮のやうに漲つて来る烈しい慾望を、何うすることも出来なかつた。
 階段を下りて、左へ行くと応接室があつた。右へ行くと美奈子の部屋があり、その部屋と並んで瑠璃子に与へた部屋があつた。
 瑠璃子の部屋に近づくに従つて、勝平の心にも烈しい動揺があつた。それは、年若い少年が初めて恋人の唇を知らうとする刹那のやうな、烈しい興奮だつた。彼は、さうした興奮を抑へて、ぢつと瑠璃子の部屋へ忍び寄らうとした。
 丁度、その時に、勝平は我を忘れて『アツ』と叫び声を挙げようとした。それは、今彼が近づかうとしたその扉《ドア》に、一人の人間が紛れもない一人の男性が、ピツタリと身体を寄せてゐたからである。冷たい悪寒が、勝平の身体を流れて、爪の先までをも顫はせた。彼は、電気に掛けられたやうに廊下の真中へ立ち竦んでしまつた。
 が、相手は勝平の近づくのを知つてゐる筈だのに、ピクリとも身体を動かさなかつた。扉《ドア》に彫り付けられてゐる木像か何かのやうに、闇の中にぢつと立ち尽してゐるやうだつた。
『盗賊《どろばう》!』最初勝平は、さう叫ばうかとさへ思つたが、彼の四十男に相当した冷静が彼の口を制したが、その次ぎに、ムラ/\と彼の心を閉したものは、漠然たる嫉妬だつた。一人の男性が、妻の寝室の扉《ドア》の前に立つてゐる。それだけで、勝平の心を狂はすのに十分だつた。
 彼は、握りしめた拳を、顫はしながら、必死になつて、一歩々々|扉《ドア》に近づいた。が、相手は気味の悪いほど、冷静にピクリとも動かない。勝平が、最後の勇気を鼓して、相手の胸倉を掴みながら、低く、
「誰だ!」と、叱した時、相手は勝平の顔を見て、ニヤリと笑つた。それは紛れもなく勝彦だつたのである。
 自分の子の卑しい笑ひ顔を見たときに、剛愎な勝平も、グンと鉄槌で殴られたやうに思つた。言ひ現し方もないやうな不快な、あさましいと云つた感じが、彼の胸の裡に一杯になつた。自分の子があさましかつた。が、あさましいのは、自分の子|丈《だ》けではなかつた。もつと、あさましいのは、自分自身であつたのだ。
「お前! 何をしてゐるのだ! 茲《こゝ》で。」
 勝平は、低くうめくやうに訊いた。が、それは勝彦に訊いてゐるのではなく、自分自身に訊いてゐるやうにも思はれた。
 勝彦は、離れの日本間の方で寝てゐる筈なのだ。が、それがもう夜の二時過であるのに、瑠璃子の部屋の前に立つてゐる。それは、勝平に取つては、堪へられないほど、不快なあさましい想像の種だつた。
「何をしてゐるのだ! こんな処で。こんなに遅く。」何時もは、馬鹿な息子に対し可なり寛大である父であつたが、今宵に限つては、彼は息子に対して可なり烈しい憎悪を感じたのである。
「何をしてゐたのだ! おい!」
 勝平は、鋭い眼で勝彦を睨みながら、その肩の所を、グイと小突いた。

        四

「茲《こゝ》に何をしてゐたのだ、茲に!」
 父が、必死になつて責め付けてゐるのにも拘らず、勝彦はたゞニヤリ/\と、たわいもなく笑ひ続けた。薄気味のわるいとりとめもなき子の笑ひが、丁度自分の恥しい行為を、嘲笑《あざわら》つてゐるかのやうに、勝平には思はれた。
 彼は、瑠璃子やまた、直ぐ次ぎの扉《ドア》の裡に眠つてゐる美奈子の夢を破らないやうにと、気を付けながらも、声がだんだん激しくなつて行くのを抑へることが出来なかつた。
「おい! こんなに遅く、茲《こゝ》に何をしてゐたのだ。おい!」
 さう云ひながら、勝平は再び子の肩を突いた。父にさう突き込まれると、白痴相当に、勝彦は顔を赤めて、口ごもりながら云つた。
「姉さんの所へ来たのだ。姉さんの所へ来たのだ。」姉さん、勝彦はこの頃、瑠璃子をさう呼び慣《なら》つてゐた。
「姉さん! 姉さんの所へ!」
 勝平は、さう云ひながらも、自分自身地の中へ、入つてしまひたいやうな、浅ましさと恥しさとを感じた。が、それと同時に、韮《にら》を噛むやうな嫉妬が、ホンの僅かではあるが、心の裡に萌して来るのを、何うすることも出来なかつた。が、父のさうした心持を、嘲るやうに、勝彦は又ニタリ/\と愚かな笑ひを、笑ひつゞけてゐる。
「姉さんの所へ何をしに来たのだ。何の用があつて来たのだ。こんなに夜遅く。」
 勝平は、心の中の不愉快さを、ぢつと抑へながら、訊く所まで、訊き質さずにはゐられなかつた。
「何も用はない。たゞ顔を見たいのだ。」
 勝彦は、平然とそれが普通な当然な事ででもあるやうに云つた。
「顔を見たい!」
 勝平は、さう口では云つたものの、眼が眩むやうに思つた。他人は、誰も居合はさない場所ではあつたが、自分の顔を、両手で掩ひ隠したいとさへ思つた。
 彼は、もう此の上、勝彦に言葉を掛ける勇気もなかつた。が、今にして、息子のかうした心を、刈り取つて置かないと、どんな恐ろしい事が起るかも知れないと思つた。彼は不快と恥しさとを制しながら云つた。
「おい! 勝彦これから、夜中などに、お姉さんの部屋へなんか来たら、いけないぞ! 二度とこんな事があると、お父様が承知しないぞ!」
 さう云ひながら、勝平は、わが子を、恐ろしい眼で睨んだ。が、子はケロリとして云つた。
「だつて、お姉さまは、来てもかまはない! と云つたよ。」勝平は、頭からグワンと殴られたやうに思つた。
「来てもかまはない! 何時、そんな事を云つた? 何時そんなことを云つた?」
 勝平は、思はず平常《ふだん》の大声を出してしまつた。
「何時つて、何時でも云つてゐる。部屋の前になら、何時まで立つてゐてもいゝつて、番兵になつて呉れるのならいゝつて!」
「ぢや、お前は今夜だけぢやないのか。馬鹿な奴め! 馬鹿な奴め!」
 さう云ひながらも、勝平は子に対して、可なり激しい嫉妬を懐かずにはゐられなかつた。
 それと同時に、瑠璃子に対しても、恨《うらみ》に似た烈しい感情を持たずにはゐられなかつた。
「そんな事を姉さんが云つた! 馬鹿な! 瑠璃子に訊いて見よう。」
 彼は、息子を押し退けながら、その背後の扉《ドア》を、右の手で開けようとした。が、それは釘付けにでもされたやうに、ピタリとして、少しも動かなかつた。彼は声を出して、叫ばうとした。
 その途端に、ガタリと扉《ドア》が開く音がした。が、開いたのはその扉《ドア》ではなくして、美奈子の寝室の扉《ドア》であつた。
 純白の寝衣《ねまき》を付けた少女はまろぶやうに、父の傍に走り寄つた。
「お父様! 何と云ふことでございます。何も云はないで、お休みなさいませ。お願ひでございます。お姉様にこんなところを見せては親子の恥ではございませんか。」
 美奈子の心からの叫びに、打たれたやうに、勝平は黙つてしまつた。
 勝彦は、相変らず、ニヤリ/\と妹の顔を見て笑つてゐた。
 丁度此の時、扉《ドア》の彼方の寝台の上に、夢を破られた女は、親子の間の浅ましい葛藤を、聞くともなく耳にすると、其美しい顔に、凄い微笑を浮べると、雪のやうな羽蒲団を、又再び深々と、被つた。

        五

 自分の寝室へ帰つて来てからも、勝平は悶々として、眠られぬ一夜を過してしまつた。恋する者の心が、競争者の出現に依つて、焦り出すやうに、勝平の心も、今迄の落着、冷静、剛愎の凡てを無くしてしまつた。競争者、それが何と云ふ堪らない競争者であらう。それが自分の肉親の子である。肉親の父と子が、一人の女を廻つて争つてゐる。親が女の許へ忍ぶと子が先廻りをしてゐる。それは、勝平のやうな金の外には、物質の外には、何物をも認めないやうな堕落した人格者に取つても堪らないほどあさましいことだつた。
 もし、勝彦が普通の頭脳があり、道義の何物かを知つてゐれば、罵り恥かしめて、反省させることも容易なことであるかも知れない。(尤も、勝平に自分の息子の不道徳を責め得る資格があるか何うかは疑問であつた。)が、勝彦は盲目的な本能と烈しい慾望の外は、何も持つてゐない男である。相手が父の妻であらうが、何であらうが、たゞ美しい女としか映らない男である。それに人並外れた強力《がうりき》を持つてゐる彼は、どんな乱暴をするかも分らなかつた。
 その上に、勝平は自分の失言に対する苦い記憶があつた。彼は、一時瑠璃子を勝彦の妻にと思つたとき、その事を冗談のやうに勝彦に、云ひ聴かせたことがある。何事をも、直ぐ忘れてしまふ勝彦ではあつたが、事柄が事柄であつた丈に、その愚な頭の何処かにこびり付かせてゐるかも知れない。さう考へると、勝平の頭は、愈《いよ/\》重苦しく濁つてしまつた。
『さうだ! 勝彦を遠ざけよう。葉山の別荘へでも追ひやらう。何とか賺《すか》して、東京を遠ざけよう。』勝平はわが子に対して、さうした隠謀をさへ考へ始めてゐた。
 興奮と煩悶とに労《つか》れた勝平の頭も、四時を打つ時計の音を聴いた後は、何時しか朦朧としてしまつて、寝苦しい眠に落ちてゐた。
 眼が覚めた時、それはもう九時を廻つてゐた。朗かな十月の朝であつた。青い紗の窓掛を透した明るい日の光が、室中に快い明るさを湛へた。
 朝の爽かな心持に、勝平は昨夜の不愉快な出来事を忘れてゐた。尨大な身体を、寝台から、ムクムクと起すと、上草履を突つかけて、朝の快い空気に吸ひ付けられたやうに、縁側《ヴェランダ》に出た。彼は自分の宏大な、広々と延びてゐる庭園を見ながら、両手を高く拡げて、快い欠伸《あくび》をした。が、彼が拡げた両手を下した時だつた。十間ばかり離れた若い楓の植込の中を、泉水の方へ降りて行く勝彦の姿を見た。彼に似て、尨大な立派な体格だつた。が、歩いて行くのは勝彦一人ではなかつた。勝彦の大きい身体の蔭から、時々ちら/\美しい色彩の着物が、見えた。勝平は、最初、それが美奈子であることを信じた。勝彦は白痴ではあつたが、美奈子|丈《だけ》には、やさしい大人しい兄だつた。勝平は何時もの通り兄妹の散歩であると思つてゐた。が、植込の中の道が右に折れ、勝平の視線と一直線になつたとき、その男女は相並んで、後姿を勝平に見せた。女は紛れもなき瑠璃子だつた。而も彼女の白い、遠目にも、くつきりと白い手は、勝彦の肩、さうだ、肩よりも少し低い所へ、そつと後から当てられてゐるのだつた。
 それを見たとき、勝平は煮えたぎつてゐる湯を、飲まされたやうな、凄じい気持になつてゐた。ニヤリ/\と悦に入つてゐるらしいわが子の顔が、アリ/\と目に見えるやうに思つた。彼は、縁側《ヴェランダ》から飛び降りて、わが子の顔を思ふさま、殴り付けてやりたいやうな恐ろしい衝動を感じた。
 が、それにも増して、瑠璃子の心持が、グツと胸に堪へて来た。昨夜《ゆうべ》の騒ぎを知らぬ筈がない、親子の間の、浅ましい情景《シーン》を知らぬ筈がない。隣の部屋の美奈子さへ、眼を覚してゐるのに、瑠璃子が知らない筈はない。知つてゐながら、昨夜《ゆうべ》の今日勝彦をあんなに近づけてゐる。
 さう思ふと、勝平は、瑠璃子の敵意を感ぜずにはゐられなかつた。
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