飢ゑた獣のやうに笑つたとき、遉《さすが》に瑠璃子の顔は蒼ざめた。
 が、彼女の態度は少しも乱れなかつた。
「あの、一寸電話をかけたいと思ひますの。父のその後の容体が気になりますから。」
 それは、此の場合突然ではあるが、尤もな希望だつた。

        七

「電話なら、女中にかけさせるがいゝ。おい唐沢さんへ……」
 と、勝平が早くも、女中に命じようとするのを、瑠璃子は制した。
「いゝえ! 妾《わたくし》が自身で掛けたいと思ひますの。」
「自身で、うむ、それなら、其処に卓上電話がある。」
 と、云ひながら、勝平は瑠璃子の背後を指し示した。
 いかにも、今迄気が付かなかつたが、其処の小さい桃花心木《マホガニイ》の卓の上に、卓上電話が置かれてゐた。
 瑠璃子は、淑《しと》やかに椅子から、身を起したとき、彼女の眉宇の間には、凄じい決心の色が、アリアリと浮んでゐた。
「あのう。番町の二八九一番!」
 瑠璃子は、送話器にその紅の色の美しい唇を、間近く寄せながら、低く呟くやうに言つた。
「番町の二八九一番!」
 さう繰り返しながら、送話器を持つてゐる瑠璃子の白い手は、かすかに/\顫へてゐた。彼女は暫くの間、耳を傾けながら待つてゐた。やつと相手が出たやうだつた。
「あゝ唐沢ですか。妾《わたくし》瑠璃子なのよ。貴女《あなた》は婆や。」
 相手の言葉に聞き入るやうに、彼女は受話器にぢつと、耳を押し付けた。
「さう。あなたの方から、電話を掛けるところだつたの。それは、丁度よかつたのね。それでお父様の御容体は。」
 さう云ひ捨てると、彼女は又ぢつと聞き入つた。
「さう!……それで……入沢さんが、入らしつたの!……それで、なるほど……」
 彼女は、短い言葉で受け答をしながらも、その白い面《おもて》は、だん/\深い憂慮に包まれて行つた。
「えい! 重体! 今夜中が……もつと、ハツキリと言つて下さい! 聞えないから。なに、なに、お父様は帰つて来てはいけないつて! でもお医者は何と仰しやるの? えい! 呼んだ方がいゝつて! 妾《わたくし》! 何《ど》うしようかしら。あゝあゝ。」
 彼女は、もうスツカリ取り擾《みだ》してしまつたやうに、身を悶えた。
「何《ど》うしたのだ。何うしたのだ。」
 勝平は、遉に色を変へながら、瑠璃子の傍に、近づいた。
「あのう、お父様が、宅の玄関で二度目の卒倒を致しましてから、容体が急変してしまつたやうでございますの。妾かうしてはをられませんわ。ねえ! 一寸帰つて来ましてもようございませう。お願ひでございますわ。ねえ貴方!」
 瑠璃子は、涙に濡れた頬に、淋しい哀願の微笑を湛へた。
「あゝいゝとも、いゝとも。お父様の大事には代へられない。直ぐ自動車で行つて、しつかり介抱して上げるのだ。」
「さう言つて下さると、妾《わたくし》本当に嬉しうございますわ。」
 さう云ひながら、瑠璃子は勝平に近づいて、肥つた胸に、その美しい顔を埋めるやうな容子をした。勝平は、心の底から感激してしまつた。
「ゆつくりと行つておいで、向うへ行つたら、電話で容体を知らして呉れるのだよ。」
「直ぐお知らせしますわ。でも、此方から訊ねて下さると困りますのよ。父は、荘田へは決して知らせてはならない。大切な結婚の当夜だから、死んでも知らしてはならないと申してゐるさうでございますから。」
「うむよし/\。ぢや、よく介抱して上げるのだよ。出来る丈《だけ》の手当をして上げるのだよ。」
 自動車の用意は、直ぐ整つた。
「容体がよろしかつたら、今晩中に帰つて参りますわ。悪かつたら、明日になりましても御免あそばしませ。」
 瑠璃子は、自動車の窓から、親しさうに勝平を見返つた。
「もう遅いから、今宵は帰つて来なくつてもいゝよ。明日は、俺《わし》が容子を見に行つて上げるから。」
 勝平は、もういつの間にか、親切な溺愛する夫になり切つてしまつてゐた。
「さう。それは有難うございますわ。」
 彼女は、爽かな声を残しながら、戸外の闇に滑り入つた。が、自動車が英国大使館前の桜並樹の樹下闇を縫うてゐる時だつた。彼女の面《おもて》には、父の危篤を憂ふるやうな表情は、痕も止めてゐなかつた。人を思ふ通《とほり》に、弄んだ妖女《ウヰッチ》の顔に見るやうな、必死な薄笑ひが、その高貴な面《おもて》に宿つてゐた。


 護りの騎士

        一

 名ばかりの妻、これは瑠璃子が最初考へてゐたやうに、生易しいことではなかつた。彼女は、自分の操を守るために、あらゆる手段と謀計とを廻《めぐ》らさねばならなかつた。
 結婚後暫らくは、父の容体を口実に、瑠璃子は荘田の家に帰つて行かなかつた。勝平は毎日のやうに、瑠璃子を訪れた。日に依つては、午前午後の二回に、此の花嫁の顔を見ねば気が済まぬらしかつた。
 彼は訪問の度毎に、瑠璃子の歓心を買ふために、高価な贈物を用意することを、忘れなかつた。
 それが、ある時は金剛石《ダイヤ》入りの指輪だつた。ある時は、白金《プラチナ》の腕時計だつた。ある時は、真珠の頸飾だつた。瑠璃子は、さうした贈物を、子供が玩具を貰ふときのやうに、無邪気に何の感謝なしに受取つた。
 が、父の容体を口実に、いつまでも、実家に止まることは、許されなかつた。それは、事情が許さないばかりでなく、彼女の自尊心が許さなかつた。敵を避けてゐることが、勝気な彼女に心苦しかつた。もつと、身体を危険に晒して勇ましく戦はなければならぬと思つた。形式的にでも、結婚した以上、形の上|丈《だけ》では飽くまでも、妻らしくしなければならないと思つた。敵の卑怯に報いるに卑怯を以てしてはならない。此方は、飽くまでも、正々堂々と戦つて勝たねばならない。さう思ひながら、彼女は勝平が迎ひの自動車に同乗した。
 久しぶりに、瑠璃子と同乗した嬉しさに、勝平は訳もなく笑ひ崩れながら、
「あはゝゝゝゝ。そんなに、実家《おさと》を恋しがらなくてもいゝよ。親一人子一人のお父様に別れるのは淋しいだらう。が、何も心配することはないよ。俺《わし》を恐がらなくつてもいゝよ。俺《わし》だつて、こんな顔をしてゐるが、お前さんを取つて喰はうと云ふのぢやないよ。娘! さうだ、美奈子に新しい姉が出来たと思つて、可愛がつて上げようと思ふのだ。あはゝゝゝゝ。」と、勝平は何《ど》うかして、瑠璃子の警戒を解かうとして、心にもないことを云つた。
 勝平の言葉を聴くと、今迄捗々しい返事もしなかつた瑠璃子は、甦へつたやうに、快活な調子で云つた。
「おほゝゝ、ほんたうに、娘にして下さるの、妾《わたくし》のお父様になつて下さるの! 妾《わたくし》本当にさうお願ひしたいのよ。ほんたうのお父様になつていたゞきたいのよ。」
 さう云ひながら、彼女はこぼるゝやうな嬌羞を、そのしなやか[#「しなやか」に傍点]な身体一面に湛へた。
「あゝ、いゝとも、いゝとも。」勝平は、人の好い本当の父親のやうに肯いて見た。
「ほゝゝゝ。それは嬉しうございますわ、本当に、妾《わたくし》を娘にして下さいませ。それも、ほんの少しの間ですの。お約束しますわ。半年、本当に半年でいゝのよ。でも、さうぢやございませんか。妾《わたくし》、まだ年弱の十八でございませう。学校を出てから、まだ半年にしかなりませんのですもの。それに、今度の話でございませう、それに、いろ/\な事件で、興奮して、まだその興奮が続いてゐるのでございませう。結婚生活に対する何の準備も出来なかつたのでございますもの。貴君の本当の妻になるのには、もう少し心の準備が欲しいと思ひますの。貴君に対する愛情と信頼とを、もつと心の中で、準備したいと思ひますの。だから、暫らくの間、本当に美奈子さんの姉にして置いて下さいませ。『源氏物語』に、末摘花と云ふのがございませう。あれでございますの。」
 さう云ひながら、瑠璃子は嫣然と笑つた。勝平は、妖術にでもかゝつたやうに、ぼんやりと相手の美しい唇を見詰めてゐた。瑠璃子は相手を人とも思はないやうに傍若無人だつた。
「ねえ! お父様! 妾《わたくし》の可愛いお父様! さうして下さいませ。」
 さう云ひながら、彼女はそのスラリとした身体を、勝平にしなだれるやうに、寄せかけながら、その白い手を、勝平の膝の上に置いて静《しづか》に軽く叩いた。
 瑠璃子の処女の如く慎しく娼婦の如く大胆な媚態に、心を奪はれてしまつた勝平は、自分の答が何《ど》う云ふことを約束してゐるかも考へずに答へた。
「あゝいゝとも、いゝとも。」

        二

 勝平は心の裡で思つた。どうせ籠の中に入れた鳥である。その中には、自分の強い男性としての力で征服して見せる。男性の強い腕の力には、凡ての女性は、何時の間にか、掴み潰されてゐるのだ。彼女も、しばらくの間、自分の掌中で、小鳥らしい自由を楽しむがいゝ。その裡に、男性の腕の力がどんなに信頼すべきかが、だん/\分つて来るだらう。
 勝平はさうした余裕のある心持で、瑠璃子の請を容れた。
 が、それが勝平の違算であつたことが、直ぐ判つた。十日経ち二十日経つ裡に、瑠璃子の美しさは勝平の心を、日に夜についで悩した。若い新鮮な女性の肉体から出る香が勝平の旺盛な肉体の、あらゆる感覚を刺戟せずにはゐなかつた。
 その夜も、勝平は若い妻を、帝劇に伴つた。彼はボックスの中に瑠璃子と並んで、席を占めながら眼は舞台の方から、しば/\帰つて来て、愛妻の白い美しい襟足から、そのほつそりとした撫肩を伝うて、膝の上に、慎しやかに置かれた手や、その手を載せてゐるふくよかな、両膝を、貪るやうに見詰めてゐた。彼は、かうして妻と並んでゐると、身も心も溶けてしまふやうな陶酔を感じた。さうした陶酔の醒め際に、彼の烈しい情火が、ムラ/\と彼の身体全体を、嵐のやうに包むのだつた。
 瑠璃子は、勝平のさうした悩みなどを、少しも気が付かないやうに、雲雀《ひばり》のやうに快活だつた。彼女は、勝平との感情の経緯を、もうスツカリ忘れてしまつたやうに、ほんたうの娘にでも、なりきつたやうに、勝平に甘えるやうに纏はつてゐた。
「おい瑠璃さん。もう、お父様ごつこも大抵にしてよさうぢやないか、貴女《あなた》も、少しは私が判つただらう。はゝゝゝゝ。約束の半年を一月とか二月とかに、縮めて貰へないものかねえ!」
 勝平は、その夜、自動車での帰途、冗談のやうに、妻の柔かい肩を軽く叩きながら、囁いた。
「まあ! 貴君《あなた》も、性急《せつかち》ですのねえ。妾《わたくし》達には約婚時代といふものが、なかつたのですもの。もつと、かうして楽しみたいと思ひますもの。何かが来ると云ふことの方が、何かが来たと云ふことよりも、どんなに楽しいか。それに妾《わたくし》本当はもつと処女でゐたいのよ。ねえ、いいでせう。妾《わたくし》のわが儘を、許して下さつてもいゝでせう!」
 さう云ふ言葉と容子とには、溢れるやうな媚びがあつた。さうした言葉を、聴いてゐると、勝平は、タヂ/\となつてしまつて、一言でも逆ふことは出来なかつた。
 が、その夜、勝平は自分一人寝室に入つてからも、若い妻のすべてが、彼の眼にも、鼻にも、耳にもこびり付いて離れなかつた。眼の中には、彼女の柔い白い肉体が、人魚のやうに、艶めかしい媚態を作つて、何時までも何時までも、浮んでゐた。鼻には、彼女の肉体の持つてゐる芳香が、ほのぼのと何時までも、漂つてゐた。耳には、さうだ! 彼女の快活な湿りのある声や、機智に富んだ言葉などが、何時までも何時までも消えなかつた。
 彼は、さうした妄想を去つて、何うかして、眠りを得ようとした。が、彼が努力すれば努力するほど、眼も耳も冴えてしまつた。おしまひには、見上げて居る天井に、幾つも/\妻の顔が、現れて、媚びのある微笑を送つた。
『彼女は、たゞ恥かしがつてゐるのだ。処女としての恥かしさに過ぎないのだ。それは、此方《こちら》から取り去つてやればそれでいゝのだ!』
 彼は、さう思ひ出すと、一刻も自分の寝台にぢつと、身体を落ち着けてゐることが出来なかつた。子供らしい処女らしい恥らひを、その儘に受け入れてゐた自
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