う。彼女は、ふり搾るやうな声を立てた。
「お父様! お願ひでございます。何《ど》うぞ、内済にして下さいませ! 妾《わたくし》が、短銃《ピストル》で打たれましたなどは、外聞が悪うございますわ。どうぞ! どうぞ!」
 彼女は、哀願するやうに、力一杯の声を出した。
 荘田は、娘からの思ひがけない抗議に、狼狽《うろた》へながら、尚も頑然として云つた。
「お前さんの知つたことぢやない。お前さんは、そんなことは、一切考へないで、気を落着けてゐるのだ。いゝか。いゝか。」
「いゝえ! いゝえ! 妾《わたくし》を打つたために、あの方が牢へ行かれるやうなことが、ございましたら、妾《わたくし》は生きては、をりません。お父様! どうぞ、どうぞ、内済にして下さいませ。」
 美奈子は、息を切らしながら、とぎれ/\に云つた。傲岸不屈な荘田も、遉《さすが》に黙つてしまつた。
 直也の二つの眼には、あつい湯のやうな涙が、湧くやうに溢れてゐた。初めて、顔を見たばかりの少女の、厚い情《なさけ》に対する感激の涙だつた。


 心の武装

        一

 記憶のよい人々は、或は覚えてゐるかも知れない。大正六年の九月の末に、東京大阪の各新聞紙が筆を揃へて報道した唐沢男爵の愛嬢瑠璃子の結婚を。それは近年にない大評判《センセイショナル》な結婚であつた。
 此の結婚が、一世の人心を湧かし、姦《かまびす》しい世評を生んだ第一の原因は、その新郎新婦の年齢が恐ろしいほど隔つてゐた為であつた。二三の新聞は、第二の小森幸子事件であると称して、世道人心に及ぼす悪影響を嘆いた。小森幸子事件とは、ついその六七年前、時の宮内大臣田中伯が、還暦を過ぎた老体を以て、まだ二十《はたち》を過ぎたばかりの処女――爵位と権勢に憧るゝ虚栄の女と、婚約をした為に一世の烈しい指弾と抗議とを招いた事件だつた。
 無論、新郎の荘田勝平は、当時の田中伯よりも若かつた。が、それと同時に、新婦の唐沢瑠璃子は小森幸子などとは比較にならないほど美しく、比較にならないほど名門の娘であり、比較にならないほど若かつた。
 新聞紙に並べられた新郎新婦の写真を見た者は、男性も女性も、等しく眉を顰めた。が、此の結婚が姦《かまびす》しい世評を産んだ原因は、たゞ新郎新婦の年齢の相違ばかりではなかつた。もう一つの原因は、成金、荘田勝平が、唐沢家の娘を金で買つたと云ふ噂だつた。或新聞紙は貴族院第一の硬骨を以て、称せらるゝ唐沢男爵に、さうした卑しい事のあるべき筈はないと、打消した。他の新聞紙は宛《あたか》も事件の真相を伝へる如くに云つた、曰く『荘田勝平は唐沢男に私淑してゐるのだ。彼は数十万円を投じて唐沢家の財政上の窮状を救つたのだ。唐沢男が、娘を与へたのは、その恩義に感じたからである。』と。他の新聞紙は、またこんな記事を載せた。結婚の動機は、唐沢瑠璃子の強い虚栄からである。彼女は学習院の女子部にゐた頃から、同窓の人々の眉を顰めさせるほど、虚栄心に富んだ女であつた、と。さうした記事に伴つて女子教育家や社会批評家の意見が紙面を賑はした。或者は、成金の金に委せての横暴が、世の良風美俗を破ると云つて憤慨した。或者は、米国の富豪の娘達が、欧洲の貴族と結婚して、富と爵位との交換を計るやうに、日本でも貧乏な華族と富豪が頻々として縁組を始めたことを指摘して、面白からぬ傾向である、華族の堕落であると結論した。
 が、さうした轟々たる世論を外に、荘田は結婚の準備をした、春の園遊会に、十万円を投じて惜しまなかつた彼は、晴の結婚式場には、黄金の花を敷くばかりの意気込であつた。彼は、自分の結婚に対して非難攻撃が高くなればなるほど、反抗的に公然《おほぴら》に華美に豪奢に、式を挙げようと決心してゐた。
 彼は、あらゆる手段で、朝野の名流を、その披露の式場に蒐めようとした。彼は、あらゆる縁故を辿つて、貴族顕官の列席を、頼み廻つた。
 九月二十九日の夕であつた。日比谷公園の樹の間に、薄紫のアーク燈が、ほのめき始めた頃から幾台も幾台もの自動車が、北から南から、西から東から、軽快な車台で夕暮の空気を切りながら、山下門の帝国ホテルを目指して集まつて来た。最新輸入の新しい型の自動車と交つては、昔ゆかしい定紋の付いた箱馬車に、栗毛の駿足を並べて、優雅に上品に、軋《きしら》せて来る堂上華族も見えた。遉《さすが》に広いホテルの玄関先も、後から後から蒐まつて来る馬車や自動車を、収め切れないではみ出された自動車や馬車は往来に沿うて一町ばかりも並んでゐた。
 祝宴が始まる前の控場の大広間には、余興の舞台が設けられてゐて、今しがた帝劇の嘉久子と浪子とが、二人道成寺を踊り始めたところだつた。

        二

 新郎の勝平は、控室の入口に、新婦の瑠璃子と並び立つて、次ぎ次ぎに到着する人々を迎へてゐた。
 彼は嘘から出た真《まこと》と云ふ言葉を心の裡で思ひ起してゐた。本当に、彼の結婚は嘘から出た真であつた。彼は、妙にこじれてしまつた意地から、相手を苦しめる為に、申込んだ結婚が、相手が思ひの外に、脆かつた為、手軽に実現したことが少しくすぐつたいやうにも思つた。それと同時に、名門のたつた一人の令嬢をさへ、自分の金の力で、到頭買ひ得たかと思ふと、心の底からむら/\と湧く得意の情を押へることが出来なかつた。
 が、結婚の式場に列るまで、彼は瑠璃子を高値で購つた装飾品のやうにしか思つてゐなかつた。五万円に近い大金を投じて、落藉《ひか》した愛妓に対するほどの感情をも持つてゐなかつた。『此のお嬢さん屹度むづがるに違ひない。なに、むづかつたつて、高の知れた子供だ。ふゝん。』と云つたやうな気持で神聖なるべき式場に列つた。
 が、雪のやうに白い白紋綸子の振袖の上に目を覚むるやうな唐織錦の裲襠《うちかけ》を被《き》た瑠璃子の姿を見ると、彼は生れて初めて感じたやうな気高さと美しさに、打たれてしまつて、神官が朗々と唱へ上げる祝詞《のりと》の言葉なども耳に入らぬほど、ぢつと瑠璃子の姿に、魅せられてゐた。その輪廓の正しい顔は凄いほど澄みわたつて、神々しいと云つてもいゝやうな美しさが、勝平の不純な心持ちをさへ、浄めるやうだつた。
 式が、無事に終つて、大神宮から帝国ホテルまでの目と鼻の距離を、初めて自動車に同乗したときに云ひ知れぬ嬉しさが、勝平の胸の中に、こみ上げて来た。彼は、どうかして、最初の言葉を掛けたかつた。が、日頃傲岸不遜な、人を人とも思はない勝平であるにも拘はらず、話しかけようとする言葉が、一つ/\咽喉にからんでしまつて、小娘か何かのやうに、その四十男の巨きい顔が、ほんの少しではあるが、赤らんだ。彼は、唐沢家をあんなにまで、迫害したことが、後悔された。瑠璃子が、自分のことを一体|何《ど》う思つてゐるだらうと、云ふことが一番心配になり始めた。
 式服を着換へて、今勝平の横に立つてゐる瑠璃子は、前よりもつと美しかつた。御所解模様《ごしよどきもやう》を胸高に総縫にした黒縮緬[#「黒縮緬」は底本では「黒縮面」]の振袖が、そのスラリとした白皙の身体に、しつくりと似合つてゐた。勝平は、かうして若い美しい妻を得たことが、自分の生涯を彩る第一の幸福であるやうにさへ思はれた。今までは、彼の唯一つの誇は、金力であつた。が、今はそれよりも、もつと誇つていゝものが、得られたやうにさへ思つた。
 大臣を初め、政府の高官達が来る。実業家が来る。軍人が来る。唐沢家の関係から、貴族院に籍を置く、伯爵や子爵が殊に多かつた。大抵は、夫人を同伴してゐた。美人の妻を持つてゐるので、有名な小早川伯爵が来たとき、勝平は同伴した伯爵夫人を、自分の新妻と比べて見た。伯爵夫妻が、会釈して去つた時、勝平の顔には、得意な微笑が浮んだ。虎の門第一の美人として、謳はれたことのある勧業銀行の総裁吉村氏の令嬢が、その父に伴はれて、その美しい姿を現はしたとき、勝平はまた思はず、自分の新妻と比べて見ずにはゐられなかつた。無論、この令嬢も美しいことは美しかつた。が、その美しさは、華美な陽気な美しさで、瑠璃子のそれに見るやうな澄んだ神々しさはなかつた。
『やつぱり、育ちが育ちだから。』勝平は、口の中で、こんな風に、新しい妻を讃美しながら、日本中で、一番得意な人間として、後から後からと続いて来る客に、平素に似ない愛嬌を振り蒔いてゐた。
 来客の足が、やゝ薄らいだ頃だつた。此の結婚を纏めた殊勲者である木下が新調のフロックコートを着ながら、ニコニコと入つて来た。
「やあ! お目出度うございます。お目出度うございます!」
 彼は勝平に、ペコ/\と頭を下げてから、その傍の新夫人に、丁寧に頭を下げたが、今迄は凡ての来客の祝賀を、神妙に受けてゐた瑠璃子は木下の顔を見ると、その高島田に結つた頭を、昂然と高く持したまゝ、一寸は愚か一分も動かさなかつた。勝手が違つて、狼狽する木下に、一瞥も与へずに、彼女は怒れる女王の如き、冷然たる儀容を崩さなかつた。

        三

 祝宴が開かれたのは、午後七時を廻つてゐた時分だつた。集合電燈《シャンデリア》の華やかな昼のやうな光の下に五百人を越す紳士とその半分に近い婦人とが淑《しとや》かに席に着いた。紳士は、大抵フロックコートか、五つ紋の紋付であつたが、婦人達は今日を晴と銘々きらびやかな盛装を競つてゐた。
 花嫁と云つたやうな心持は、少しも持たず、戦場にでも出るやうな心で、身体には錦繍を纏つてゐるものの、心には甲冑を装うてゐる瑠璃子ではあつたが、かうして沢山の紳士淑女の前に、花嫁として晒されると、必死な覚悟をしてゐる彼女にも、恥しさが一杯だつた。列席の人々は、結婚が非常な評判《センセイション》を起した丈《だけ》、それ丈花嫁の顔を、ジロ/\と見てゐるやうに、瑠璃子には思はれた。金《かね》で操を左右されたものと思はれてゐるかも知れないことが、瑠璃子には――勝気な瑠璃子には、死に勝る恥のやうにも思はれた。が、彼女は全力を振つて、さうした恥しさと戦つた。人は何とも思へ、自分は正しい勇ましい道を辿つてゐるのだと、彼女は心の中で、ともすれば撓みがちな勇気を振ひ起した。
 が、苦しんでゐるものは、瑠璃子|丈《だけ》ではなかつた。新郎の勝平と、一尺も離れないで、黙々と席に就いて居る父の顔を見ると、瑠璃子は自分の苦しみなどは、父の十分の一にも足りないやうに思つた。自分は、自分から進んで、かうした苦痛を買つてゐるのだ。が、父は最愛の娘を敵に与へようとしてゐる。縦令《たとひ》、それが娘自身の発意であるにしろ、男子として、殊に硬骨な父として、どんなに苦しい無念なことであらうかと思つた。
 が、苦しんでゐる者は、外にもあつた。それは今宵の月下氷人を勤めてゐる杉野子爵だつた。子爵は、瑠璃子が自分の息子の恋人であることを知つてから、どれほど苦しんでゐるか分らなかつた。瑠璃子に対する荘田の求婚が、本当は自分の息子に対する、復讐であつたことを知つてから、彼はその復讐の手先になつてゐた、自分のあさましさが、しみ/″\と感ぜられた。殊に、そのために、息子が殺傷の罪を犯したことを考へると、彼は立つても坐つても、ゐられないやうな良心の苛責を受けた。
 日比谷大神宮の神前でも、彼は瑠璃子の顔を、仰ぎ見ることさへなし得なかつた。彼は、瑠璃子親子の前には、罪を待つ罪人のやうに、悄然とその頭を垂れてゐた。
 今宵の祝賀の的であるべき花嫁を初め、親や仲人が、銘々の苦しみに悶えてゐるにも拘はらず、祝賀の宴は、飽くまでも華やかだつた。価《あたひ》高い洋酒が、次ぎから次ぎへと抜かれた。料理人が、懸命の腕を振つた珍しい料理が後から後から運ばれた。低くはあるが、華やかなさゞめき[#「さゞめき」に傍点]が卓から卓へ流れた。
 デザートコースになつてから、貴族院議長のT公爵が立ち上つた。公爵は、貴族院の議場の名物である、その荘重な態度を、いつもよりも、もつと荘重にして云つた。
「私は、茲《こゝ》に御列席になつた皆様を代表して、荘田唐沢両家の万歳を祈り、新郎新婦の前途を祝したいと思ひます。何うか皆様新郎新
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