が――突然現れて来ることは、いかにも愧しいキマリの悪い事に違ひなかつた。彼は、顔には現はさなかつたが、心の裡では、可なり狼狽した。荘田が、早く気を利かして、小切手帳をしまつて呉れればいゝ、呉れるものは、早く呉れて、早く蔵つて呉れゝばいゝと、虫のいゝことを、考へてゐたけれど、荘田は妙に興奮してしまつて、小切手帳のことなどは、念頭にもないやうだつた。マザ/\と見えてゐる一万円也と云ふ金額が、杉野や木下等の罪悪を、歴々と語つてゐるやうに、子爵には心苦しかつた。
「一体、私の倅は何だつて、貴方をお尋ねするのです。前から御存じなのですか。何の用事があるでせう。」杉野子爵は、堪らなくなつて訊いた。
「いや、今に直ぐ判ります。やつぱり、今度の私の結婚に就てです。が、媒介の手数料《コンミッション》を貰ひに来るのでないことは、確《たしか》ですよ、はゝゝゝゝ。」
 と、荘田は腹を抱へるやうに哄笑した。その哄笑が終らない中に、彼の背後《うしろ》の扉《ドア》が、静かに開かれて、その男性的な顔を、蒼白に緊張させてゐる、杉野直也が姿を現した。

        六

 直也の姿を見ると、荘田の哄笑が、ピタリと中断した。相手の決死の形相が、傲岸な荘田の心にも鋭い刃物に触れたやうな、気味悪い感じを与へたのに違《ちがひ》なかつた。が、彼はさり気なく、鷹揚に、徹頭徹尾勝利者であると云ふ自信で云つた。
「いやあ! 貴君《あなた》でしたか。いつぞやは大変失礼しました。さあ! 何うか此方《こつち》へお入り下さい! 丁度、貴君のお父様も来ていらつしやいますから。」
 外面《うはべ》丈《だけ》は可なり鄭重に、直也を引いた。直也は、その口を一文字に緊《ひ》きしめたまゝ、黙々として一言も発しなかつた。彼は、父の方をなるべく見ないやうに――それは父に対する遠慮ではなくして、敬虔な基督《キリスト》教徒が異教徒と同席する時のやうな、憎悪と侮蔑とのために、なるべく父の方を見ないやうに、荘田の丁度向ひ側に卓を隔てゝ相対した。
「何う云ふ御用か、知りませんが、よく入《い》らつしやいまして。貴君があんなに軽蔑なさつた成金の家へも、尋ねて来て下さる必要が出来たと見えますね。はゝゝゝゝ。」
 荘田は、直也と面と向つて立つと、すぐ挑戦の第一の弾丸を送つた。
 直也は、それに対して、何かを云ひ返さうとした。が、彼は烈しい怒りで、口の周囲の筋肉が、ピク/\と痙攣する丈で、言葉は少しも、出て来なかつた。
「何《ど》う云ふ御用です。承らうぢやありませんか。何う云ふ御用です。」
 荘田はのしかゝるやうに畳かけて訊いた。直也は、心の裡に沸騰する怒りを、何う現してよいか、分らないやうに、暫らくは両手を顫はせながら、荘田の顔を睨んで立つてゐたが、突如として口を切つた。
「貴君《あなた》は、良心を持つてゐますか。」
「良心を!」と、荘田は直ぐ受けたが、問が余りに唐突であつたため暫らくは語《ことば》に窮した。
「さうです。良心です。普通の人間には、そんなことを訊く必要はない。が、人間以下の人間には、訊く必要があるのです。貴君は良心を持つてゐますか。」
 直也は、卓を叩かんばかりに、烈しく迫つた。
「あはゝゝゝゝ。良心! うむ、そんな物はよく貧乏人が持ち合はしてゐるものだ。そして、それを金持に売り付けたがる。はゝゝゝ、私も度々買はされた覚えがある。が、私自身には生憎良心の持ち合せがない、はゝゝゝ。いつかも、貴君に云つた通り、金さへあれば、良心なんかなくても、結構世の中が渡つて行けますよ。良心は、羅針盤のやうなものだ。ちつぽけな帆前や、たかが五百|噸《トン》や千|噸《トン》の船には、羅針盤が必要だ。が、三万とか四万とか云ふ大軍艦になると、羅針盤も何も入りやしない、大手を振つて大海が横行出来る。はゝゝゝ。俺なども、羅針盤の入らない軍艦のやうなものぢや。はゝゝゝ。」
 荘田は、飽くまでも、自分の優越を信じてゐるやうに、出来る丈《だけ》直也を、じらす[#「じらす」に傍点]やうに、ゆつくりと答へた。
 それを聴くと、直也は堪らないやうに、わなわなと身体を顫はせた。
「貴君は、自分がやつたことを恥だとは思はないのですか。卑劣な盗人でも恥ぢるやうな手段を廻らして、唐沢家を迫害し、不倫な結婚を遂げようと云ふやうな、浅ましいやり方を、恥づかしいとは思はないのですか。貴君は、それを恥づる丈の良心を持つてゐないのですか。」
 直也は、吃々とどもりながら、威丈高に罵つた。が、荘田はビクともしなかつた。
「お黙りなさい。国家が許してある範囲で、正々堂々と行動してゐるのですよ。何を恥ぢる必要があるのです。貴方は、白昼公然と、私の金の力を、あざ嗤つた。が、御覧なさい! 貴君は、金の力で自分のお父様を買収され、あなたの恋人を、公然と奪はれてしまつたではありませんか。貴君こそ、自分の不明を恥ぢて、私の前でいつかの暴言を謝しなさい! 唐沢のお嬢さんは、もう此の通り、ちやんと前非を悔いてゐる。御覧なさい! 此の手紙を!」
 さう云ひながら、荘田は得々として、瑠璃子の手紙を直也に突き付けたとき、彼の心は火のやうな憤《いきどほり》と、恋人を奪はれた墨のやうな恨《うらみ》とで、狂つてしまつた。

        七

「御覧なさい! 私は、自分の息子の嫁に、するために、お嬢さまを所望したのだが、お嬢さまの方から、却つて私の妻になりたいと望んでをられる。有力な男性的な実業家の妻として、社会的にも活動して見たい! かう書いてある。あはゝゝ[#「あはゝゝ」は底本では「はあゝゝ」]。何《ど》うです! お嬢様にも、ちやんと私の価値が判つたと見える。金の力が、どんなに偉大なものかが判つたと見える! あはゝゝ。」
 荘田は、得々とその大きな鼻を、うごめかしながら、言葉を切つた。
 直也は、湧き立つばかりの憤怒と、嵐のやうな嫉妬に、自分を忘れてしまつた。彼は瑠璃子の手紙を見たときに、荘田と媒介人たる自分の父とに、面と向つて、その不正と不倫とを罵り、少しでも残つてゐる荘田の良心を、呼び覚して、不当な暴虐な計画を思ひ止まらせようと決心したのだが、実際に会つて見ると、自分のさうした考へが、獣に道徳を教へるのと同じであることを知つた。そればかりでなく、荘田の逆襲的嘲弄に、直也自身まで、獣のやうに荒んでしまつた。彼の手は、いつの間にか知らず識らず、ポケットの中に入れて来た拳銃《ピストル》にかかつてゐた。その拳銃《ピストル》は、今年の夏、彼が日本アルプスの乗鞍ヶ岳から薬師ヶ岳へ縦走したときに、護身用として持つて行つて以来、つい机の引出しに入れて置いた。彼は激昂して家を出るとき、ふと此の拳銃《ピストル》の事が、頭に浮んだ。荘田の家へ、単身乗り込んで行く以上、召使や運転手や下男などの多数から、どんな暴力的な侮辱を受けるかも知れない。さうした場合の用意に持つて来たのだが、然し今になつて見ると、それが直也に、もつと血腥い決心の動機となつてゐた。
 暴に報ゆるには暴を以てせよ。相手が金を背景として、暴を用ゐるなら、こちらは死を背景とした暴を用ゐてやれ。憤怒と嫉妬とに狂つた直也は、さう考へてゐた。さうした考へが浮ぶと共に、直也の顔には、死そのもののやうな決死の相が浮んでゐた。
「貴君《あなた》の、この不正な不当な結婚を、中止なさい。中止すると誓ひなさい! でなければ……でなければ……」さう云つたまゝ、直也の言葉も遉《さすが》に後が続かなかつた[#「続かなかつた」は底本では「続かなかた」]。
「でなければ、何うすると云ふのです。あはゝゝゝゝゝ。貴君《あなた》は、この荘田を脅迫するのですな。こりや面白い! 中止しなければ、何うすると云ふのです。」
 直也は、無我夢中だつた。彼は、自分も父も母も恋人も、国の法律も、何もかも忘れてしまつた。ただ眼前数尺の所にある、大きい赤ら顔を、何うにでも叩き潰したかつた。
「中止しなければ……かうするのです。」
 さう叫んだ刹那、彼の右の手は、鉄火の如くポケットを放れ、水平に突き出されてゐた。その手先には、白い光沢のある金属が鈍い光を放つてゐた。
「何! 何をするのだ。」と、荘田が、悲鳴とも怒声とも付かぬ声を挙げて、扉《ドア》の方へタジ/\と二三歩後ずさりした時だつた。
 直也の父は、狂気のやうに息子の右の腕に飛び付いた。
「直也! 何をするのだ! 馬鹿な。」
 その声は、泣くやうな叱るやうな悲鳴に近い声だつた。
 父の手が、子の右の手に触れた刹那だつた。轟然たる響は、室内の人々の耳を劈《つんざ》いた。
 その響きに応ずるやうに、荘田も木下も子爵も「アツ。」と、叫んだ。それと同時に、どう[#「どう」に傍点]と誰かが崩れるやうに倒れる音がした。帛を裂くやうな悲鳴が、それに続いて起つた。その悲鳴は、荘田の口から洩るゝやうな、太いあさましい悲鳴とは違つてゐた。

        八

 父の手が直也の手に触れた丁度その刹那に、発せられた弾丸は、皮肉にも二十貫に近い荘田の巨躯を避けて、わづかに開かれた扉《ドア》の隙から、主客の烈しい口論に、父の安否を気遣つて、そつと室内をのぞき込んでゐた荘田の娘美奈子の、かよわい肉体を貫ぬいたのであつた。
 荘田は娘の悲鳴を聞くと、自分の身の危さをも忘れて飛び付くやうに、娘の身体に掩ひかゝつた。
 美奈子は、二三度起き上らうとするやうに、身体を悶えた後に、ぐつたりと身体を、青い絨毯の上に横へた。絶え入るやうな悲鳴が続いて、明石縮らしい単衣《ひとへ》の肩の辺に出来た赤黒い汚点《しみ》が、見る見る裡に胸一面に拡がつて行くのだつた。
「美奈子! 気を確《たしか》に持て! おい! 繃帯を持つて来い! なければ白木綿だ! 近藤さんを呼べ! さうだ! 自動車を迎へにやれ! ゐなかつたら、誰でもいゝ外科の博士を。さうだ! その前に、誰でもいゝから、近所の医者を呼んで来い! 早く、早く、早くだ!」
 狼狽して、前後左右にたゞウロ/\する、召使の男女を荘田は声を枯して叱咤した。彼はさう云ひながらも、右の掌で、娘の傷口を力一杯押へてゐるのだつた。
 直也は、自分の放つた弾丸が、思ひがけない結果を生んだのを見ながら、彼は魂を奪はれた人間のやうに、茫然として立つてゐた。色は土の如く蒼く、眼は死魚のそれのやうに光を失つた。彼はまだ短銃《ピストル》を握つたまゝ、突つ立つてゐた。直也の父も、木下も、此の犯人の手から、短銃《ピストル》を奪ひ取ることさへ忘れて居た。殊に、子爵の顔は子のそれよりも、血の気がなかつた。彼は自分の罪が、ヒシ/\と胸に徹《こた》へて来るのを感じた。自分の野卑な、狡猾な行為が、子の上に覿面《てきめん》に報いて来たことが、恐ろしかつた。彼は、子の短慮と暴行とを叱すべき言葉も、権威も持つてゐなかつた。彼の身体を支へてゐる足は、絶えずわな/\と顫へた。
 荘田は、娘の肩口を繃帯で、幾重にもクルクルと、捲いてしまふと、やつと小康を得たやうに、室内に帰つて来た。その巨きい顔は殺気を帯びて物凄い相を示した。
「お蔭で傷は浅いです。可哀さうに、あれは大層親思ひですから、あんな飛沫《とばしり》を喰ふのです。」
 彼は、氷のやうな薄笑ひを含んで、直也の顔をマジ/\と見詰めながら云つた。赤手にして一千万円を越ゆる暴富を、二三年の裡に、攫取した面魂《つらたましひ》が躍如として、その顔に動いた。
「いや、私は暴に報いるに、暴を以つてしません。たゞ、国の公正なる法律に、あなたの処分を委せる丈です。杉野さん! お気の毒ですが、御子息は直ぐ、警察の方へお引き渡ししますから、そのおつもりでゐて下さい。おい警視庁の刑事課へ電話をかけるのだ。そして、殺人未遂の犯人があるから、直ぐ来て呉れと。いゝか。」
 荘田は、冷然として、鉄の如く堅く冷かに、商品の註文をでもするやうな口調で、小間使に命じた。
 小間使の方が恐ろしい命令に、躊躇して、ウロ/\してゐる時だつた。仮の繃帯が了つて、自分の部屋へ運ばれようとしてゐた美奈子が、父の烈しい言葉を、そのかすかな聴覚で、聞きわけたのであら
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