! 荘田さん! 懸賞金はやつぱり私のものですよ。到頭、先方で白旗《しらはた》を上げましたよ、はゝゝゝ。」
「白旗をね、なるほど。はゝゝゝゝ。」荘田は、凱旋の将軍のやうに哄笑した。
「案外脆かつたですね。」木下は傍から、合槌を打つた。
「それがね。令嬢が、案外脆かつたのですよ。お父様が、監獄へ行くかも知れないと聞いて、狼狽したらしいのです。父一人子一人の娘としては、無理はないとも思ふのです。私の所へ、今朝そつと手紙を寄越したのです。父に対する告訴を取り下げた上に、唐沢家に対する債権を放棄して呉れるのなら荘田家へ輿入れしてもいゝと云ふのです。」
「なるほど、うむ、なるほど。」
 荘田は、血の臭を嗅いだ食人鬼のやうに、満足さうな微笑を浮べながら、肯いた。
「ところが、令嬢に註文があるのです。荘田君! お欣びなさい! 私に対する懸賞金は倍増《ばいまし》にする必要がありますよ、令嬢の註文がかうなのです。同じ荘田家へ嫁ぐのなら、息子さんよりも、やつぱりお父様のお嫁になりたい。男性的な実業家の夫人として、社交界に立つて見たいとかう云つてあるのです。手紙をお眼にかけてもいゝですが。」
 さう云ひながら、子爵はポケットから、瑠璃子の手紙を取り出した。丁度|敵《かたき》から来た投降状でも出すやうに。

        三

 凱旋の将軍が、敵の大将の首実検をでもするやうに、荘田は瑠璃子が杉野子爵宛に寄越した手紙を取り上げた。得意な、満ち足りたと云つたやうな、賤しい微笑が、その赤い顔一面に拡がつた。
「うむ! 成る程! 成る程!」
 舌鼓をでも打つやうに、一句々々を貪るやうに読み了ると、彼は腹を抱へんばかりに哄笑した。
「はゝゝゝゝ。強いやうでも、やつぱり女子《おなご》は弱いものぢや、はゝゝゝゝ。なにも、あのお嬢さんを嫁にしようなどとは、夢にも考へてゐなかつたが、かうなると一番若返るかな、はゝゝゝゝ。ぢや、杉野さん、どうかよろしくね。あの証文全部は、お嬢様に、結婚の進物として差しあげる。さうだ! 差し上げる期日は、結婚式の当日と云ふことにせう。それから、支度金は軽少だが、二万円差し上げよう。さう/\、貴君方に対するお礼もあつたけ。」
 王女のやうに、美しく気高い処女を、到頭征服し得たと云ふ欣びに、荘田は有頂天になつてゐた。彼は、呼鈴《ベル》を鳴らして女中を呼ぶと、
「お嬢さんに、さう云ふのだ。俺の手提金庫に小切手帳が入つてゐるから持つて来るやうに。」と命じた。
 良心を悪魔に、売り渡した木下と杉野子爵とは、自分達の良心の代価が、幾何《いくら》になるだらうかと銘々心の裡で、荘田の持つ筆の先に現れる数字を、貪慾に空想しながら、美奈子が小切手帳を持つて、入つて来るのを待つてゐた。
「十八の娘にしては、なか/\達筆だ! 文章も立派なものだ!」
 荘田は、尚飽かず瑠璃子の手紙に、魂を擾されてゐた。
 が、丁度その同じ瞬間に、瑠璃子の手紙に依つて、魂を擾されてゐたのは荘田勝平|丈《だけ》ではなかつた。
 瑠璃子は、杉野子爵に宛てゝ、一通の手紙を書くのと同時に、その息子の杉野直也に対しても、一通の手紙を送つた。杉野子爵に対する手紙は、冷たい微笑と堅い鉄のやうな心とで書いた。直也に送つた手紙は、熱い涙と堅い鉄のやうな心とで書いた。
 荘田勝平が、一方の手紙を読んで、有頂天になつたと同じに、直也は他の一方の手紙を読んで、奈落に突落されたやうに思つた。

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 父を恐ろしい恥辱より救ひ、唐沢一家を滅亡より救ふ道は、これより外にはないのでございます。……
 法律の力を悪用して、善人を苦しめる悪魔を懲しめる手段は、これより外にはないのでございます。妾《わたくし》の行動を奇嬌だとお笑ひ下さいますな。芝居気があるとお笑ひ下さいますな。現代に於ては、万能力を持つてゐる金に対抗する道は、これより外にはないのでございます。……名ばかりの妻、さうです、妾《わたくし》はありとあらゆる手段と謀計とで以て、妾《わたくし》の貞操をあの悪魔のために汚《けが》されないやうに努力する積《つもり》です。北海道の牧場では、よく牡牛と羆《ひぐま》とが格闘するさうです。妾《わたくし》と荘田との戦ひもそれと同じです。牡牛が、羆の前足で、搏たれない裡に、その鉄のやうな角を、敵の脾腹へ突き通せば牡牛の勝利です、妾《わたくし》も、自分の操を汚されない裡に、立派にあの男を倒してやりたいと思ひます。
 妾《わたくし》の結婚は、愛の結婚でなくして、憎しみの結婚です。それに続く結婚生活は、絶えざる不断の格闘です。……
 が、どうか妾《わたくし》を信じて下さい。妾《わたくし》には自信があります。半年と経たない裡に精神的にあの男を殺してやる自信があります。
 直也様よ、妾《わたくし》のためにどうか、勝利をお祈り下さい。
[#ここで字下げ終わり]

 手紙は、尚続いた。

        四

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 妾《わたくし》は、勝利を確信してゐます。が、それは実質の勝利で、形から云へば、妾《わたくし》は金のために荘田に購はれる女奴隷と、等しいものかも知れません。妾《わたくし》が、自分の操を清浄に保ちながら、荘田を倒し得ても、社会的には妾《わたくし》は、荘田の妻です。何人《なんぴと》が妾《わたくし》の心も身体も処女であることを信じて呉れるでせう。妾《わたくし》は貴君《あなた》丈には、それを信じて戴きたいと思ひます。が、妾《わたくし》にはそれを強ひる権利はありません。
 男性化《マンリファン》と言ふ言葉があります。妾《わたくし》の現在はそれです。妾《わたくし》は女性としての恋を捨て、優しさを捨て慎しやかさを捨てゝ、たゞ復讐と膺懲のために、狂奔する化物のやうな人間にならうとしてゐるのです。顧みると、自分ながら、浅ましく思はずにはゐられません。が、悪魔を倒すのには、悪魔のやうな心と謀計とが必要です。
 貴君を愛し、また貴君から愛されてゐた無垢な少女は、残酷な運命の悪戯から、凡ての女性らしさを、自分から捨ててしまふのです。凡ての女性らしさを、復讐を神に捧げてしまふのです。愛も恋も、慎しやかさも淑《しとやか》さも、その黒髪も白き肌《はだへ》も。
 次ぎのことを申上げるのは、一番厭でございますが、荘田からの最初の申込みを取り継がれた方は、貴君のお父様です。従つて、求婚に対する妾《わたくし》の承諾も、順序として、貴君《あなた》のお父様に、取次いでいたゞかねばなりません。妾《わたくし》は、貴君に対する、この不快な恐ろしい手紙を書いた後に、貴君のお父様宛に、もう一つの、もつと不快な恐ろしい手紙を書かねばなりません。
 それを思ふと、妾《わたくし》の心が暗くなります。が、妾《わたくし》はあくまで強くなるのです。あゝ、悪魔よ! もつと妾《わたくし》の心を荒ませてお呉れ! 妾《わたくし》の心から、最後の優しさと恥しさを奪つておくれ!
[#ここで字下げ終わり]

 一句一句鋭い匕首《あひくち》の切先で、抉られるやうに、読み了つた直也は最後の一章に来ると、鉄槌で横ざまに殴り付けられたやうな、恐ろしい打撃を受けた。
 最初は、縦令《たとひ》どんな理由があるにしろ、自分を捨てゝ、荘田に嫁がうとする瑠璃子が恨めしかつた。心を喰ひ裂くやうな烈しい嫉妬を感じた。が、だん/\読んで行く裡に、唐沢家に対する荘田の迫害の原因が、荘田に対する自分の罵倒であつたことが、マザ/\と分つて来た。瑠璃子を唐沢家から奪はうとするのは、つまり自分の手から奪はうとするのだ。荘田が、自分に対する皮肉な恐ろしい復讐なのだ。意趣返しなのだ。瑠璃子は、復讐と膺懲の手段として、結婚すると云ふ。が、それを自分が漫然と見てゐられるだらうか。かよわい女性が、貞操の危険を冒してまで、戦つてゐる時に、第一の責任者たる自分が、茫然と見てゐられるだらうか。が、そんなことは兎に角直也には、自分の恋人が縦令《たとひ》操は許さないにしても、荘田と――豚のやうに不快な荘田と、形式的にでも夫と呼び妻と呼ぶことが、堪まらなかつた。瑠璃子は、飽くまでも、操を汚さないと云ふが、そんなことは、聡明ではあるにしろ、まだ年の若い彼女の夢想的《ロマンチック》な空想で、縦令《たとひ》彼女の決心が、どんなに堅からうとも、一旦結婚した以上、獣のやうに強い荘田の為に、ムザ/\と蹂み躙られてしまひはせぬか。どんなに強い精神でも、鉄のやうに強い腕には、敵せない時がある。瑠璃子の心が火のやうに烈しく、石のやうに堅くても、羅衣《うすもの》にも堪へないやうな、その優しい肉体は、荘田の強い把握のために、押し潰されてしまひはせぬか。さう考へると、直也の心は、恐ろしい苦悶と焦燥のために、烈しく動乱した。が、それよりも、自分の父が自分の恋人を奪ふ悪魔の手下であることを知ると、彼は憤怒と恥辱とのために、逆上した。
 彼は瑠璃子の手紙を握りながら、父の部屋へかけ込んだ。父の姿は見えないで、女中が座敷を掃除してゐた。
「お父様は何うした。」
 彼は女中を叱咤するやうに云つた。
「今しがた、荘田様へ行らつしやいました。」
 瑠璃子の承諾の手紙を読むと、鬼の首でも取つたやうに、荘田の所へ馳け付けたのだと思ふと、直也の心は、恐ろしい憤怒のために燃え上つた。

        五

 美奈子が、小切手帳を持つて来ると、荘田は、傍の小さい卓《デスク》の上にあつた金蒔絵の硯箱を取寄せて不器用な手付で墨を磨りながら、左の手で小切手帳を繰拡げた。
「はゝゝゝゝ、貴方《あなた》にも、お礼をうんと張り込むかな。」彼は、さう得々と哄笑しながら、最初の一葉に、金二万円也と、小学校の四五年生位の悪筆で、その癖溌剌と筆太に書いた。それは無論、支度料として、唐沢家へ送るものらしかつた。
 その次ぎの一葉を、木下も杉野も、爛々《らん/\》と眼を、梟《ふくろふ》のやうに光らせて、見詰めてゐた。荘田は、無造作に壱万円也と書き入れると、その次ぎの一葉にも、同じ丈の金額を書き入れた。
「何《ど》うです。これで不足はないぢやらう。はゝゝゝゝ。」と、荘田は肩を揺がせながら笑つた。
 食事を与へられた犬のやうに、何の躊躇もなく、二人がその紙片に手を出さうとしてゐる時だつた。荘田の背後《うしろ》の扉《ドア》が、軽く叩かれて、小間使が入つて来て、
「旦那様! あの杉野さんと云ふ方が、御面会です。」と、云つた。
「杉野!」と、荘田は首を傾げながら云つた。「杉野さんなら茲《こゝ》にいらつしやるぢやないか。」
「いゝえ! お若い方でございます。」
「若い方? いくつ位?」と、荘田は訊き返した。
「二十三四の方で、学生の服を着た方です。」
「うゝむ。」と、荘田は一寸考へ込んだが、ふと杉野子爵の方を振向きながら、
「杉野さん! 貴方の御子息ぢやないかね。」と、云つた。
「私の倅、私の倅がお宅へ伺ふことはない。尤も、私にでも用があるのかな。さうぢやありませんか。私に会ひたいと云ふのぢやありませんか。」
 子爵は小間使の方を振り向きながら云つた。小間使は首を振つた。
「いゝえ! 御主人にお目にかゝりたいと仰《おつ》しやるのです。」
「あゝ分つた! 杉野さん! 貴君の御子息なら、僕の所へ来る理由が、大にあるのです。殊に今の場合、唐沢のお嬢さんが、私に屈服しようと云ふ今の場合、是非とも来なければならない方です。さうだ! 私も会ひたかつた。さうだ! 私も会ひたかつた! おい、お通しするのだ。主人もお待ちしてゐましたと云つてね。貴君方は、別室で待つていたゞくかね。いや、立会人があつた方が、結局いゝかな。さうだ! 早くお通しするのだ!」
 興奮した熊のやうに、荘田は卓《テーブル》に沿うて、二三歩づつ左右に歩きながら、叫んだ。
 杉野子爵には、荘田の云つた意味が、十分に判らなかつた。何の用事があつて、自分の息子が、荘田を尋ねて来るのか見当も立たなかつた。が、それは兎も角、自分が荘田から、邪しい金を受け取らうとする現場へ、肉親の子――しかも、その潔白な性格に対しては、親が三目も四目も置いてゐる子
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