句、俺《わし》の旧知を買収して、俺《わし》に罠をかけたのだ。飢ゑてゐた俺《わし》は、不覚にも罠の中の肉に喰ひ付いたのだ。罠をかける奴の卑しさは、論外だが、かゝつた俺《わし》の卑しさも笑つて呉れ。三十年の清節も、清貧もあつたものではない。」
父は、のたうつやうに、椅子の中で、身を悶えた。之《こ》れを聞いてゐる瑠璃子も、身体中が、猛火の中に入つたやうに、烈しい憤怒のために燃え狂ふのを感じた。
「それで、それで、何うなつたと云ふのでございます。」
彼女は、身を顫はしながら訊いた。卓の上にかけてゐる白い蝋のやうな手も、烈しい顫へを帯びてゐた。
「あの軸物の本当の所有者は荘田なのだ。彼奴は、俺《わし》に対して横領の告訴を出してゐるのだ。」
父は吐くやうに云つた。蒼白い頬が烈しく痙攣した。
「そんな事が罪になるのでございますか。」
瑠璃子の眼も血走つてしまつた。
「なるのだ! 逆に取つて、逆に出るのだから、堪らないのだ。預つてゐる他人の品物は、売つても質入してもいけないのだ。」
「でも、そんなことは、世間に幾何《いくら》もあるではございませんか。」
「さうだ! そんなことは幾何でもある、俺《わし》もさう思つてやつたのだ。が、向うでは初《はじめ》から謀つてやつた仕事だ。俺《わし》が少しでも、蹉《つまづ》くのを待つてゐたのだ。蹉けば後から飛び付かうと待つてゐたのだ。」
瑠璃子の胸は、荘田に対する恐ろしい怒《いかり》で、火を発するばかりであつた。
「人非人|奴《め》! 人非人奴! どれほどまで執念《しふね》く妾達《わたしたち》を、苦しめるのでございませう。あゝ口惜しい! 口惜しい!」
彼女は、平生のたしなみも忘れたやうに、身を悶えて、口惜しがつた。
「お前が、さう思ふのは無理はない。お父様だつて、昔であつたら、そのまゝにはして置かないのだが。」
父の顔は益《ます/\》凄愴な色を帯びてゐた。
「あゝ、男でしたら、男に生れてゐましたら。残念でございます。」
さう云ひながら、瑠璃子は卓の上に、泣き伏した。
何処かで、一時を打つ音がした、騒がしい都の夏の夜も、静寂に更け切つて、遠くから響いて来る電車の音さへ、絶えてしまつた。瑠璃子の泣き声が絶えると、深夜の静けさが、しん/\と迫つて来た。
「それで、その告訴は何《ど》うなるのでございますか。まさか取上げにはなりませんでせうね。」
瑠璃子は泣き顔を擡げながら、心配さうに訊いた。
涙に洗はれた顔は、一種の光沢を帯びて、凄艶な美しさに輝いてゐるのであつた。
五
「さあ! 其処なのだ! 今日警視総監が、個人として俺《わし》に会見を求めたのは、その問題なのだ。総監が云ふのには、この位なことで、貴方《あなた》を社会的に葬つてしまふことは、何とも遺憾なことなので告訴を取り下げるやうに懇々云つて見たが、頑として聴かない。そして唐沢氏本人がやつて来て、手を突いて謝まるならば告訴を取り下げようと云ふのだ。何うも先方では貴方《あなた》に対して何か意趣を含んで居るらしい。貴方も快くはあるまいが、此際先方に詫を入れて、内済にして貰つたら何うかと云ふのだ。貴方もあんな男に詫びるのは、不愉快だらうが、然し、貴方の社会的地位や名誉には換へられないから、此際思ひ切つて謝罪して見たら何うかと云つて呉れるのだ。先方が告訴を取り下げさへすれば、検事局では微罪として不起訴にしようと云つてゐると云ふのだ。」
父は低くうめくやうに云つて来たが、茲まで来ると急に烈しい調子に変りながら、
「だが、瑠璃子考へておくれ。あんな男に、あんな卑しい人間に、謝罪はおろか、頭一つ下げることさへ、俺《わし》に取つてどんな恥辱であるか。俺《わし》は、それよりも寧ろ死を選みたいのだ。然し謝罪しないとなると、何うしても起訴を免れないのだ。起訴されると、お前此罪は破廉恥罪なのだ! 爵位も返上を命ぜられるばかりでなく、俺の社会的位置は、滅茶苦茶だ! あれ見い! 貴族院第一の硬骨と云はれた唐沢が、あのザマだと、世間から嘲笑されることを考へておくれ。死以上の恥辱だ。何の道を選んでも、死ぬより以上の恥辱なのだ。瑠璃子、俺《わし》が死なうと決心した心の裡を、お前は察して呉れるだらう。」
瑠璃子は、父の苦しい告白を、石像のやうに黙つて聴いてゐた。火のやうに熱した身体中の血が今は却つて、氷のやうに冷たくなつてゐた。
「俺《わし》が死ねば、彼奴の迫害の手も緩むだらうし、それに依つて、汚名を流さずして済む。つまり、俺《わし》は悪魔の手に買ひ取られた俺《わし》の社会的名誉を、血を以て買ひ戻さうと思つたのだ。お前のことを、思はないではない。父の外には頼る者もないお前のことを思はないではない。が、破廉恥の罪人になることを考へると、泥棒と同じ汚名を被ることを考へると、何も考へてをられなくなつたのだ。」
父は、さう云ひながら、心の裡の苦しさに堪へられないやうに、頻りに身を悶えた。
「が、扉《ドア》の外でお前が突然叫び出した声を聞くと、刀を持つてゐた俺《わし》の手が、しびれ[#「しびれ」に傍点]てしまつたやうに、何うしても俺《わし》の思ひ通《どほり》に、動かないのだ。未練だ! 未練だ! と、心で叱つても、手が何《ど》うしても云ふことを聴かないのだ。俺《わし》は、今初めてお前に対する父としての愛が、名誉心や政治上の野心などよりも、もつと大きいことが分つたのだ。俺《わし》は、社会上の位置を失つても、お前の為に生き延びようと思つたのだ。破廉恥罪の名を被《き》ても、お前の父として、生き延びようと思つたのだ。名誉や位置などは、なくなつても、お前さへあれば、まだ生き甲斐があると云ふことが、分つたのだ。いや名誉や野心のために、生きるのよりも、自分の子供のために、生きる方が人間として、どれほど立派であるかと云ふことが、今やつと分つたのだ。俺《わし》は、今光一を追出したことを後悔する。親の野心のために、子を犠牲にしようとしたことを後悔する。瑠璃子! お前のために、どんな汚名を忍んでも生き延びるのだ。お前も、罪人のお父様を見捨てないで、いつまでも俺《わし》の傍を離れて呉れるな。」
父の顔は今、子に対する愛に燃えて、美しく輝いてゐた。彼は、子に対する愛に依つて、その苦しみの裡から、その罪の裡から、立派に救はれようとしてゐるのだつた。
六
さうだ! 子の心は、凄じい憤怒と復讐の一念とに、湧き立つた。父が、子に対する愛のために、敵の与へた恥辱を忍ばうとするのに拘はらず、子の心は敵に対する反抗と憎悪とのために、狂つてしまつた。
「お父様、それでいゝのでございませうか。お父様! 金さへあれば悪人がお父様のやうな方を苦しめてもいゝのでございませうか。而も、国の法律までが、そんな悪人の味方をするなどと云ふ、そんなことが、許されることでございませうか。」
瑠璃子は、平生のおとなしい、慎しやかな彼女とは、全く別人であるやうに、熱狂してゐた。父は子の激昂を宥《なだ》めるやうに、「だが瑠璃子! 悪人がどんな卑しい手段を講じてもお父様さへ、しつかりしてゐればよかつたのだ。国の法律に触れたのはやつぱり俺《わし》の不心得だつたのだ。」
「いゝえ! 妾《わたくし》は、さうは思ひません。」瑠璃子は、昂然として父の言葉を遮ぎつた。「荘田のやりましたやうな奸計を廻らしたならば、どんな人間をだつて、罪に陥すことは容易だと思ひます。お父様が信任していらつしやる木下をまで、買収してお父様を罠に陥し入れるなど、悪魔さへ恥ぢるやうな卑怯な事を致すのでございますもの。もし、国に本当の法律がございましたら、荘田こそ厳罰に処せらるべきものだと思ひます。荘田のやうな悪人の道具になるやうな法律を、妾《わたくし》は心から呪ひたいと思ひます。」
眦《まなじり》が、裂けると云つたらいゝのだらう。美しい顔に、凄じい殺気が迸つた。父も、子の烈しい気性に、気圧されたやうに、黙々として聴いてゐた。
「お父様、あんな男に起訴されて、泣寝入りになさるやうな、腑甲斐ないことをして下さいますな。飽くまでも戦つて、相手の悪意を懲しめてやつて下さいませ。あゝ妾《わたくし》が男でございましたら、……本当に男でございましたら……」
瑠璃子は、熱に浮かされたやうに、昂奮して叫び続けた。
「が、瑠璃子! 法律と云ふものは人間の行為の形|丈《だけ》を、律するものなのだ。荘田が、悪魔のやうな卑しい悪事を働いても、その形が法律に触れて居なければ、大手を振つて歩けるのだ。俺は切羽詰つて一寸逃れに、知人の品物を質入れした。世間に有り触れたことで、事情止むを得なかつたのだ。が、俺《わし》の行為の形は、ちやんと法律に触れてゐるのだ。法律が罰するものは、荘田の恐ろしい心ではなくして、俺《わし》の一寸した心得|違《ちがひ》の行為なのだ。行為の形なのだ!」
「若《も》し、法律がそんなに、本当の正義に依つて、動かないものでしたら、妾《わたくし》は法律に依らうとは思ひません。妾《わたくし》の力で荘田を罰してやります。妾《わたくし》の力で、荘田に思ひ知らせてやります。」
気が狂つたのではないかと思ふほど、瑠璃子の言葉は烈しくなつた。父は呆気に取られたやうに、子の口もとを見詰めてゐた。
「金の力が、万能でないと云ふことをあの男に知らせてやらねばなりません。金の力で動かないものが、世の中に在ることを知らせてやらねばなりません。このまゝで、お父様が、有罪になるやうな事がございましたら、荘田は何と思ふか分りません。世の中には、法律の力以上に、本当の正義があることを、あの男に思ひ知らせてやらねばなりません。金の力などは、本当の正義の前には土塊《つちくれ》にも等しいことを、あの男に思ひ知らせてやりたいと思ひます。」
さう云ひながら、瑠璃子は父の顔をぢつと見詰めてゐたが、思ひ切つたやうに云つた。
「お父様! お願ひでございます。瑠璃子を、無い者と諦めて、今後何を致しませうと、妾《わたくし》の勝手に委せて下さいませんか。」
瑠璃子の顔に、鉄のやうに堅い決心が閃いた。父は、瑠璃子の真意を測りかねて、茫然と愛児の顔を見詰めてゐた。
「お父様?[#「?」はママ] 妾《わたくし》は、ユーヂットにならうと思ふのでございます。」
七
「ユーヂット?」老いた父には、娘の云つた言葉の意味が分らなかつた。
「左様でございます。妾《わたくし》はユーヂットにならうと思ふのでございます。ユーヂットと申しますのは猶太《ユダヤ》の美しい娘の名でございます。」
「その娘にならうと云ふのは、どう云ふ意味なのだ!」父は、激しい興奮から覚めて、やゝ落着いた口調になつてゐた。
「ユーヂットにならうと申しますのは、妾《わたくし》の方から進んで、あの荘田勝平の妻にならうと云ふことでございます。」
瑠璃子の言葉は、樫の如く堅く氷の如く冷やかであつた。
「えーツ。」と叫んだまゝ、父は雷火に打たれた如く茫然となつてしまつた。
「お父様! お願ひでございます。どうか、妾《わたくし》をないものと諦めて、妾《わたくし》の思ふまゝに、させて下さいませ!」
瑠璃子は、何時の間にか再び熱狂し始めた。
「馬鹿なツ!」父は、烈しい、然し慈愛の籠つた言葉で叱責した。
「馬鹿なことを考へてはいけない! 親の難儀を救ふために子が犠牲になる。親の難儀を救ふために娘が、身売をする。そんな道徳は、古い昔の、封建時代の道徳ではないか。お前が、そんな馬鹿なことを考へる。聡明なお前が、そんな馬鹿なことを考へる。お父様《とうさん》を救はうとして、お前があんな豚のやうな男に身を委す。考へる丈《だけ》でも汚らはしいことだ! お前を犠牲にして、自分の難儀を助からうなどと、そんなさもしい[#「さもしい」に傍点]ことを考へる父だと思ふのか。俺《わし》は、自分の名誉や位置を守るために、お前の指一本髪一筋も、犠牲にしようとは思はない。そんな馬鹿々々しいことを考へるとは、平生のお前にも似合はないぢやないか。」
父は、思ひの外
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