はじめ》から申上げねば分りませんが、実は私は閣下の崇拝者です。閣下の清節を、平生から崇拝致してゐる者であります。」
 さう云つて、勝平は叮嚀に言葉を切つた。老狐が化さうと思ふ人間の前で、木の葉を頭から被つてゐるやうな白々しさであつた。人を馬鹿にしてゐる癖に、態度|丈《だけ》はいやに、真剣に大真面目であるやうだつた。
「殊に近頃になつて、所謂政界の名士達なるものと、お知己《ちかづき》になるに従つて、大抵の方には、殆ど愛想を尽《つか》してしまひました。お口|丈《だけ》は立派なことを云つていらしつても、一歩裏へ廻ると、我々町人風情よりも、抜目がありませんからな。口幅《くちはゞ》つたいことを、申す様でございますが、金で動かせない方と云つたら、数へる丈《だけ》しかありませんからね。」
 父は黙々として、一言も発しなかつた。いざと云ふ時が来たら、一太刀に切つて捨てようとする気勢《けはひ》が、あり/\と感ぜられた。が、勝平は相手の容子などには、一切頓着しないやうに、臆面もなく話し続けた。
「いつか、日本倶楽部で、初めて閣下の崇高なお姿に接して以来、益々《ます/\》閣下に対する私の敬慕の念が高くなつたのです。多年の間、利慾権勢に目もくれず、たゞ国家のために、一意奮闘していらつしやる。かう云ふお方こそ、本当の国士本当の政治家だと思つたのです。」
 父が、面と向つてのお世辞に、苦り切つてゐる有様が、室外にゐる瑠璃子にもマザ/\と感ぜられた。
「御存じの通り、私は外に能のある人間でありません。たゞ、二三年来の幸運で、金|丈《だけ》は相当儲けました。私は、今何に使つても心残りのない金を、五百万円ばかり現金で持つてゐます。あゝ使へ、かう寄附しろと云つて呉れる人もありますが、私は閣下のやうなお方に、後顧の憂ひなからしめ、国家のために思ひ切り奮闘していたゞけるやうにする事も、可なり意義のある立派な仕事だと思つたのです。それには、是非ともお交際を願つて、いろ/\な立ち入つた御相談にも、与《あづか》らせて戴きたいと、それで実はあんな突然なお申込を……」
 さう云つて、言葉を切つた、がいかにも恐縮に堪へないと云ふ口調で、
「ところが、その申込が杉野さんの思ひ違《ちがひ》で、と云ふよりも、あの方の軽率から、私がお嬢さまをお望み致したなどととんでもない。ハヽヽヽ。御立腹遊ばすのは当然です。五十に近い私が、お嬢さまに求婚するなどと笑ひ話にもなりません。実は、当人と申すのは私の倅、今年二十五になります。亡妻の遺児《わすれがたみ》です。」
 一寸殊勝らしく声を落しながら、
「その倅とても、年こそお嬢様に似合ひでございますが、いやもう一向下らない人物です。が、若《も》し万一お嬢様を下さるやうな事がありましたら、これほど有難い――私の財産を半分無くしても惜しくはない――仕合せだと思ひますのですが。が、そのお話は、兎も角、閣下の御債務は凡て、私に払はせていたゞきたいと思ひましたから、一月あまりも心掛けて、もう大抵は買ひ蒐めた積りでございますが、縁談のお話などとは別に、これ丈は私の寸志です。どうか御心置きなく、お受取り下さるやうに。」さう云ひながら、父の負うてゐる借財の証書の全部を一つの袋に収めて父の前に差し出したらしかつた。
 虚心平気に、勝平の云ひ分を聴けば、無躾なところは、あるにせよ、成金らしい傲岸な無遠慮なところはあるにせよ、それほど、悪意のあるものとは思はれなかつた。が、瑠璃子にはさうではなかつた。瑠璃子と、その恋人とを思ひ知らせるために、悪魔は、瑠璃子を奪つて、自分の妻に――名前|丈《だけ》は妻でも、本当はその金力を示すための装飾品に――しようとした。が、瑠璃子の父が、予想以上に激怒したのと、年齢の余りな相違から来る世間の非難とを慮《おもんぱか》つて、自分の名義で買ふ代りに、息子の名義で買はうとする、瑠璃子を商品と見てゐる点に於ては、何の相違もない。瑠璃子と彼女の恋人とを思ひ知らせようとする、蛇のやうな執念には何の相違もない。正面から飛びかゝつて父から、手ひどく跳付《はねつ》けられた悪魔は、今度は横合から、そつと騙《たぶら》かさうと掛つてゐるのだつた。

        八

 瑠璃子には、相手の心が十分に見透かされてゐる。が、相手の本心を知らない父は、その空々しい上部《うはべ》の理由|丈《だけ》に、うか/\と乗せられて、もしや相手の無躾な贈り物を、受け取りはしないかと、瑠璃子はひそかに心を痛めた。縁談などとは別にと、口で美しく云ふものゝ、父が相手の差し出す餌にふれた以上、それを機《しほ》に、否応なしに自分を、浚つて行かうとする相手の本心が、彼女には余りに明かであつた。
 父を何《ど》うにか騙《だま》して娘を浚つて行く、それで娘にも、彼女の恋人にも、苦痛を与へればよいのだと相手が謀《たくら》んでゐるらしいのが、瑠璃子には、余りに判り過ぎてゐるやうに思へた。
 が、瑠璃子の心配は無駄だつた。父は相手が長々と喋《しや》べり続けたのを聞いた後で、二三分ばかり黙つてゐたらしいが、急にゐずまひを正したらしく、厳格な一分も緩みのない声で云つた。
「いや、大きに有難う。あなたの好意は感謝する。が、考ふる所あつて、お受けすることは出来ない。借財は証文の期限|通《どほり》に、ちやんと弁済する。それから、縁談の事ぢやが、本人が貴方《あなた》であらうが御子息であらうが、お断りすることには変りがない。何うか悪しからず。」
 父は激せず熱せず、毅然とした立派な調子で云ひ放つた。父の立派な男らしい態度を、瑠璃子は蔭ながら、伏し拝まずにはゐられなかつた。何と云ふ凜々しい態度であらう。どんなに此の先苦しまうとも、あゝした父を、父としてゐることは、何といふ幸福であらうかと思ふと、熱い涙が知らず識らず、頬を伝つて流れた。
 真向から平手でピシヤツと、殴《なぐ》るやうな父の返事に、相手は暫らくは、二の句が、次《つ》げないらしかつた。が、暫らくすると、太い渋い不快な声が聞え始めた。
「ふゝむ。これほど申し上げても、私の好意を汲んで下さらない。これほど申上げても、私の心がお分りになりませんのですか。」
 相手の言葉付は、一眸の裡に変つてゐた。豹だ、一太刀受けて、後退《あとじさり》しながら、低くうなつてゐるやうな無気味な調子だつた。
「はゝゝゝ、好意! はゝゝゝ、お前さんは、こんなことを好意だと、云ひ張るのですか。人の顔に唾を吐きかけて置いて、好意であるもないものだ。はゝゝゝゝゝゝ。」父は、相手を蔑すみ切つたやうに嘲笑《あざわら》つた。
「はゝゝ、閣下も、貧乏をお続けになつたために、何時の間にか、僻んでおしまひになつたと見える。此の荘田が、誠意誠心申上げてゐることが、お分りにならない。」
 相手も、負けてはゐなかつた。豹が、その本性を現して、猛然と立ち上つたのだつた。
「はゝゝゝゝ、誠意誠心か! 人の娘を、金で買ふと云ふ恥知らずに、誠意などがあつて、堪るものか。出直してお出なさい!」父は、低い力強い声で、さう罵つた。
「よろしい! 出直して参りませう。閣下、覚えて置いて下さい! 此の荘田は、好意を持つてをりますと同時に、悪意も人並に持つてゐるものでございますから。お言葉に従つて、いづれ出直して参りますから。」さう云ひ捨てると、相手は荒々しく扉《ドア》を排して、玄関へ出て行つた。
 瑠璃子が、急いで応接室に駈け込んだとき、父はそこに、昂然と立つてゐた。半白の髪が、逆立つてゐるやうにさへ見えた。
「お父様!」瑠璃子は、胸が一杯になりながら、駈け寄つた。
「あゝ瑠璃子か。聞いてゐたのか。さあ! お前もしつかりして、飽くまでも戦ふのだ。強くあれ、さうだ飽くまでも強くあることだ!」
 さう云ひながら父は、彼の痩せた胸懐《むなぶところ》に顔を埋めてゐる娘の美しい撫肩《なでがた》を、軽く二三度叩いた。


 罠

        一

 羊の皮を被つて来た狼の面皮を、真正面から、引き剥いだのであるから、その次ぎの問題は、狼が本性を現して、飛びかゝつて来る鋭い歯牙を、どんなに防ぎ、どんなに避くるかにあつた。
 が、その狼の毒牙は、法律に依つて、保護されてゐる毒牙だつた。今の世の中では、国家の公正な意志であるべき法律までが、富める者の味方をした。
 勝平に買ひ占められた証書の一部分の期限はもう十日と間のない六月の末であつた。今までは、期限が来る毎に、幾度も幾度も証書の書換をした。そのために、証書の金額は、年一年増えて行つたものゝ、何《ど》うにか遣繰《やりくり》は付いてゐた。が、それが悪意のある相手の手に帰して、こちらを苛責《いぢめ》るための道具に使はれてゐる以上、相手が書換や猶予の相談に応ずべき筈はなかつた。
 六月の末日が、段々近づいて来るに従つて、父は毎日のやうに金策に奔走した。が、三万を越してゐる巨額の金が、現在の父に依つて容易に、才覚さるべき筈もなかつた。
 朝起きると、父は蒼ざめながらも、眼《まなこ》丈《だけ》は益《ます/\》鋭くなつた顔を、曇らせながら、黙々として出て行つた。玄関へ送つて出る瑠璃子も、
「お早くお帰りなさいまし。」と、挨拶する外は何の言葉もなかつた。が、送り出す時は、まだよかつた。其処に、僅でも希望があつた。が、夕方、その日の奔走が全く空に帰して、悄然と帰つて来る父を迎へるのは、何うにも堪らなかつた。父と娘とは、黙つて一言も、交はさなかつた。お互の苦しみを、お互に知つてゐた。
 今迄は、元気であつた父も、折々は嗟嘆の声を出すやうになつた。夕方の食事が済んで、父娘が向ひ合つてゐる時などに、父は娘に詫びるやうに云つた。
「皆、お父様が悪かつたのだ。自分の志ばかりに、気を取られて、最愛の子供のことまで忘れてゐたのぢや。俺《わし》の家を治めることを忘れたために、お前までがこんな苦しい思ひをするのだ。」
 父の耿々《かう/\》の気が――三十年火のやうに燃えた野心が、かうした金の苦労のために、砕かれさうに見えるのが、一番瑠璃子には悲しかつた。
 父の友人や知己は、大抵は、父のために、三度も四度も、迷惑をかけさせられてゐた。父が、金策の話をしても、彼等は体よく断つた。断られると、潔癖な父は、二度と頼まうとはしなかつた。
 六月が二十五日となり、二十七日となつた。連日の奔走が無駄になると、父はもう自棄《やけ》を起したのであらう。もう、ふツつりと出なくなつた。幡随院長兵衛が、水野の邸に行くやうに、父は怯《わる》びれもせず、悪魔が、下す毒手を、待ち受けてゐるやうだつた。
 今年の春やつと、学校を出たばかりの瑠璃子には、父が連日の苦悶を見ても、何うしようと云ふ術もなかつた。彼女は、たゞオロ/\して、一人心を苦しめる丈《だけ》だつた。
 彼女の小さい胸の苦しみを、打ち明けるべき相手としては、たゞ恋人の直也がある丈だつた。が、彼女は恋人に、まだ何も云つてゐなかつた。
 家の窮状を訴へるためには、いろ/\な事情を云はなければならない。荘田の恨みの原因が、直也の罵倒であることも云はなければならない。直也の父が、不倫な求婚の賤しい使者を務めたことも云はなければならない。それでは、恋人に訴へるのではなくして、恋人を責めるやうな結果になる。潔癖な恋人が、父の非行を聴いて、どんなに悲嘆するかは、瑠璃子にもよく分つてゐた。自分のふとした罵倒が、瑠璃子父娘に、どんなに禍《わざはひ》してゐるかと云ふことを聴けば、熱情な恋人は、どんな必死なことをやり出すかも分らない。さう思ふと、瑠璃子は、出来る丈は、自分の胸一つに収めて、恋人にも知らすまいと思つた。
 父や瑠璃子の苦しみなどとは、没交渉に、否凡ての人間の喜怒哀愁とは、何の渉《かゝは》りもなく、六月は暮れて行つた。

        二

 もう、明日が最後の日といふ六月二十九日の朝だつた。荘田勝平の代理人と云ふ男が、瑠璃子の家を訪づれた。鷲の嘴《くちばし》のやうな鼻をした四十前後の男だつた。詰襟の麻の洋服を着て、胸の辺《あたり》に太い金の鎖を、仰々しくきらめかしてゐた。
 父は
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