とは、違つてゐた。簡単な書式のやうなものだつた。一寸意外に思ひながら読んで見た。最初の『債権譲渡通知書』と云ふ五字から、先づ名状しがたい不快な感じを受けた。
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債権譲渡通知書
通知人川上万吉は被通知人に対して有する金弐万五千円の債権を今般都合に依り荘田勝平殿に譲渡し候に付き通知候也
大正六年六月十五日
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[#地から2字上げ]通知人 川上万吉
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被通知人 唐沢光徳殿
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荘田勝平と云ふ名前が、目に入つたとき、その書式を持つてゐる瑠璃子の手は、その儘しびれてしまふやうな、厭な重くるしい衝動《ショック》を受けずにはゐられなかつた。
悪魔は、その爪を現し始めたのである。
四
相手が、あの儘思ひ切つたと思つたのは、やつぱり自分の早合点だつたと瑠璃子は思つた。求婚が一時の気紛れだと思つたのは、相手を善人に解し過ぎてゐたのだ。相手はその二つの眼が示してゐる通り、やつぱり恐ろしい相手だつたのだ。
が、それにしても何と云ふ執念ぶかい男だらう。父が負うてゐる借財の証書を買入れて、父に対する債権者となつてから、一体何うしようと云ふ積りなのかしら。卑怯にも陋劣にも、金の力であの清廉な父を苦しめようとするのかしら。さう思ふと、瑠璃子は、女ながらにその小さい胸に、相手の卑怯を憤る熱い血が、沸々と声を立てゝ、煮え立つやうに思つた。
父の借財は多かつた。藩閥内閣打破の運動が、起る度に、父はなけ無しの私財を投じて惜しまなかつた。藩閥打破を口にする志士達に、なけ無しの私財を散じて惜しまなかつた。父が持つて生れた任侠の性質は、頼まるゝ毎に連帯の判も捺した。手形の裏書もした、取れる見込のない金も貸した。さうした父の、金に対する豪快な遣り口は、最初から多くはなかつた財産を、何時の間にか無一物にしてしまつた。が、財産は無くなつても、父の気質は無くならなかつた。初めは親類縁者から金を借りた。親類縁者が、見放してしまふと、高利貸の手からさへ、借ることを敢てした。住んでゐる家も、手入は届いてゐないが、可なりだゞつ広い邸地も、一番も二番もの抵当に入つてゐることを、瑠璃子さへよく知つてゐる。
金力と云つたものが、丸切り奪はれてゐる父が、黄金魔と云つてもよいやうな相手から、赤児の手を捻ぢるやうに、苛責《いぢめ》られる。さう思つて来ると、瑠璃子はやるせない憤りと悲しみとで、胸が一杯になつて来た。金さへあれば、どんな卑しい者でもが、得手勝手なことをする世の中全体が、憤ろしく呪はしく思はれた。
瑠璃子は、今の場合、かうした不快な通知書を、父に見せることが、一番厭なことだつた。父が、どんなに怒り、どんなに口惜しがるかが余りに見え透いてゐたから。
でも、かうした重要な郵便物を、父に隠し通すことは出来なかつた。瑠璃子は、重い足を運びながら、父の寝室へ行つて見た。が、父はまだ起きてはゐなかつた。スヤ/\と安らかな呼吸をしながら名残りの夢を貪つてゐる父の窶《やつ》れた寝顔を見ると、瑠璃子は出来る丈かうした不快な物を父の眼には触れさせたくはなかつた。彼女は、そつと忍び足に枕元に寄り添つて、枕元の小さい卓子《テーブル》の上に置いてある、父の手文庫の中にその呪はれた紙片を、そつと音を立てずに入れた。何時までも、父の眼には触れずにあれ、瑠璃子は心の中で、さう祈らずにはゐられなかつた。
その日、食事の度毎に顔を合せても、父は何とも云はなかつた。夜の八時頃、一人で棊譜を開いて盤上に石を並べてゐる父に、紅茶を運んで行つたときにも、父は二言三言瑠璃子に言葉をかけたけれど、書状のことは、何も云はなかつた。
願はくは、何時までも、父の眼に触れずにあれ、瑠璃子は更にさう祈つた。どうせ、一度は触れるにしても、一日でも二日でも先きへ、延ばしたかつた。
が、翌日眼を覚まして、瑠璃子が前の日の朝の、不快な記憶を想ひ浮べながら、その朝の郵便物に眼をやつたとき、彼女は思はず、口の裡で、小さい悲鳴を挙げずにはゐられなかつた。其処に、昨日と同じ内容証明の郵便物が、三通まで重ねられてゐたのである。
それを取り上げた彼女の手は、思はずかすかに顫へた。もう、父に隠すとか隠さないとか云ふ余裕は、彼女になかつた。彼女はそれを取り上げると、救ひを求むる少女のやうに、父の寝室に駈け込んだ。
父は起きてはゐなかつたが、床の中で眼を覚してゐた。
「お父様! こんな手紙が参りました。」瑠璃子の声は、何時になく上ずツてゐた。
「昨日のと同じものだらう。いや心配せいでもえゝ、お前が心配せいでもえゝ。」
父は、静かにさう云つた。昨日の書状も、父は何時の間にか、見てゐたのである。
瑠璃子は、今更ながら、自分の父を頼もしく思はずにはゐられなかつた。
五
唐沢の家を呪咀するやうな、その不快な通知状は、その翌日もその又翌日も、無心な配達夫に依つて運ばれて来た。
初《はじめ》ほどの驚駭《ショック》は、受けなかつたけれども、その一葉々々に、名状しがたい不快と不安とが、見る人の胸を衝いた。
「なに、捨てゝ置くさ。同一人に債権の蒐まつた方が、弁済をするにしても、督促を受くるにしても手数が省けていゝ。」
父は何気ないやうに、済ましてゐるやうだつたが、然し内心の苦悶は、表面《うはべ》へ出ずにはゐなかつた。殊に、父は相手の真意を測りかねてゐるやうだつた。何のために、相手がこれほど、執念深く、自分を追窮して来るのか、判りかねてゐるやうだつた。
が、瑠璃子には相手の心持が、判つてゐる丈、わづかばかりの恨を根に持つて、何処までも何処までも、付き纏つて来る相手の心根の恐ろしさが、しみ/″\と身に浸みた。通知状を見る度に、相手に対する憎悪で、彼女の心は一杯になつた。彼の金力を罵つた自分達丈を苦しめる丈なら、まだいゝ、罪も酬いもない老いた父を、苦しめる相手の非道を、心の底より憎まずにはゐられなかつた。
かうして、父が負うてゐる総額二十万円に近い負債に対する数多い証書が、たつた一つの黒い堅い冷たい手に、握られてしまつた頃であつた。
ある朝、彼女は平生《いつも》のやうに郵便物を見た。――かうした通知状の来ない前は、それは楽しい仕事に違ひなかつた。其処には恋人からの手紙や、親しい友達の消息が見出されたから――。が、今では不安な、いやな仕事になつてしまつた。
彼女は、その朝もオヅ/\郵便物に目を通した。幾通かの手紙の一番最後に置かれてゐた鳥の子の立派な封筒を取り上げて、ふと差出人の名前に、目を触れたとき、彼女の視線はそこに、筆太に書かれてゐる四字に、釘付けにされずにはゐなかつた。それは紛れもなく荘田勝平の四字だつたのである。
黒手組の脅迫状を受けたやうに、悪魔からの挑戦状を受けたやうに、瑠璃子の心は打たれた。反感と、憎悪とある恐怖とが、ごつちや[#「ごつちや」に傍点]になつて、わく/\と胸にこみ上げて来た。
彼女は、その封筒の端をソツと、醜い蠑螺《ゐもり》の尻尾をでも握るやうに、摘み上げながら、父の部屋へ持つて行つた。
父は差出人の名前を、一目見ると、苦々しげに眉をひそめた。暫らくは開いて見ようとはしなかつた。
「何と申して参つたのでございませう。」瑠璃子は、気になつて、急《せ》かすやうに訊いた。
父は、荒々しく封筒を引き破つた。
「何だ!」父の声は、初から興奮してゐた。
「――此度小生に於て、買占め置き候貴下に対する債権に就て、御懇談いたしたきこと有之《これあり》、且つ先日杉野子爵を介して、申上げたる件に付きても、重々の行違《ゆきちがひ》有之《これあり》、右釈明|旁々《かた/″\》近日参邸いたし度く――あゝ何と云ふ図々しさだ。何と云ふ! 獣のやうな図々しさだ。よし、やつて来い。やつて来るがいゝ。来れば、面と向つて、あの男の面皮を引き剥いて呉れるから。」
父は、さう云ひながら、奉書の巻紙を微塵に引き裂いた。老い凋《しな》んだ手が、怒《いかり》のために、ブル/\顫へるのが、瑠璃子の眼には、傷《いた》ましくかなしかつた。
六
父も瑠璃子も、心の中に戦ひの準備を整へて、荘田勝平の来るのを遅しと待つてゐた。
手紙が来た日の翌日の午前十時頃、瑠璃子が、二階の窓から、邸前の坂道を、見下してゐると、遥《はるか》に続いてゐるプラタヌスの並樹の間から、水色に塗られた大形の自動車が、初夏の日光をキラ/\と反射しながら、眩しいほどの速力で、坂を馳け上つたかと思ふと、急に速力を緩めて、低いうめく[#「うめく」に傍点]やうな警笛の音を立てながら、門前に止まるのを見たのである。覚悟をしてゐたことながら、瑠璃子は今更のやうに、不快な、悪魔の正体をでも、見たやうな憎悪に、囚はれずにはゐられなかつた。
自動車の扉は、開かれた。ハンカチーフで顔を拭きながら、ぬつとその巨きい頭を出したのは、紛れもないあの男だつた。何が嬉しいのか、ニコ/\と得体の知れぬ微笑を浮べながら、玄関の方へ歩いて来るのだつた。
瑠璃子は、取次ぎに出ようか出まいかと、考へ迷つた。顔を合はしたり、一寸でも言葉を交すのが厭でならなかつた。が、それかと云つて、平素気が付けば取次ぎに出る自分が、此の人に限つて出ないのは、何だか相手を怖れてゐるやうで彼女自身の勝気が、それを許さなかつた。さうだ! あんな卑しい人間に怯れてなるものか。彼の男こそ、自分の清浄な処女の誇の前に、愧ぢ怯れていゝのだ。さう思ふと、瑠璃子は処女《をとめ》にふさはしい勇気を振ひ興して、孔雀のやうな誇と美しさとを、そのスラリとした全身に湛へながら、落着いた冷たい態度で、玄関に現れた。
勝平は、瑠璃子の姿を見ると、此間会つた時とは別人ででもあるやうに、頭を叮嚀に下げた。
「お嬢さまでございますか、先日は大変失礼を致しまして、申訳もございません。今日は、あのう! お父様はお在宅《いで》でございませうか。」
かうも白々しく、――あゝした非道なことをしながら、かうも白々しく出られるものかと、瑠璃子が呆れたほど、相手は何事もなかつたやうに、平和で叮嚀であつた。
瑠璃子は、一寸拍子抜けを感じながらも、冷たく引き緊めた顔を、少しも緩めなかつた。
「在宅《ゐま》すことは、在宅《ゐま》すが、お目にかゝれますかどうか一寸伺つて参ります。」
瑠璃子は、さう高飛車に云ひながら、二階の父の居間に取つて返した。
「やつて来たな。よし、下の応接室に通して置け。」
瑠璃子の顔を見ると、父は簡単にさう云つた。
応接室に案内する間も、勝平は叮嚀に而も馴々しげに、瑠璃子に話しかけようとした。が、彼女は冷たい切口上で、相手を傍へ寄せ付けもしなかつた。
「やあ!」挨拶とも付かず、懸声とも付かぬ声を立てながら、父は応接室に入つて来た。父は相手と初対面ではないらしかつた。二三度は会つてゐるらしかつた。が、苦り切つたまゝ時候の挨拶さへしなかつた。瑠璃子は、茶を運んだ後も、はしたない[#「はしたない」に傍点]とは知りながら、一家の浮沈に係る話なので、応接室に沿ふ縁側の椅子に、主客には見えないやうに、そつと腰をかけながら、一語も洩さないやうに相手の話に耳を聳てた。
「此の間から、一度伺はう/\と思ひながら、つい失礼いたしてをりました。今度、閣下に対する債権を、私が買ひ占めましたことに就ても、屹度私を怪《け》しからん奴だと、お考へになつたゞらうと思ひましたので、今日はお詫び旁《かた/″\》、私の志のある所を、申述べに参つたのです。」
勝平は、いかにも鄭重に、恐縮したやうな口調で、ボツリ/\話し始めたのであつた。丁度暴風雨の来る前に吹く微風のやうに、気味の悪い生あたゝかさを持つた口調だつた。
「うむ。志! 借金の証書を買ひ蒐めるのに、志があるのか。ハヽヽヽヽヽヽ。」父は、頭から嘲るやうに詰《なじ》つた。
「ございますとも。」相手は強い口調で、而も下手から、さう云ひ返した。
七
「初《
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