その人が、前にでもゐるやうに、拳を握りしめながら、激しい口調で云つた。
「何《ど》うしたと云ふのでございます、お父様、ハツキリと仰《おつ》しやつて下さいまし、一体どんなお話で、あの方が、私の事を何う仰しやつたのです。一体どんな用事で、入《い》らしつたのでございます。」
 瑠璃子も、可なり興奮しながら、本当のことを知りたがつて、畳みかけて訊いた。
「彼の男は、お前の縁談があると云つて来たのだ。」父の言葉は意外だつた。
「妾《わたくし》の縁談!」瑠璃子は、さう云つたまゝ、二の句が次げなかつた。彼女は化石したやうに、父の書斎の入口に立ち止まつた。父は、瑠璃子の駭《おどろ》きに、深い意味があらうとは、夢にも知らずに、興奮に疲れた身体を、安楽椅子に投げるのであつた。


 買ひ得るか

        一

 父から、杉野子爵の来訪が、縁談の為であると、聞かされると、瑠璃子は電火にでも、打たれたやうに、ハツと駭《おどろ》いた。
 やつぱり、自分の子供らしい想像は当つたのだ。杉野子爵は子のために、直接話を進めに来たのだ。その話の中に、子爵の不用意な言葉か、不遜の態度かが、潔癖な父を怒らしたに違《ちがひ》ない。さう思ふと、瑠璃子はあまりに潔癖過ぎる父が急に恨めしくなつた。少しも妥協性のない、一徹な父が恨めしかつた。自分の一生の運命を狂はすかも知れない、父の態度が恨めしかつた。瑠璃子は父に抗議するやうに云つた。
「縁談のお話が、何《ど》うして妾《わたくし》を、侮辱することになりますの。またそんなお話なら、一応|妾《わたくし》にも、話して下さつてから、お断りになつても、遅くはないと思ひますわ。」
 瑠璃子は、誰に対しても、自己を主張し得る女だつた。彼女は、父にでも兄にでも恋人にでも、自己を主張せずには、ゐられない女だつた。
 瑠璃子の抗議を、父は憫むやうに笑つた。
「縁談! ハヽヽヽヽ。普通の縁談なら、無論瑠璃さんにも、よく相談する。が、あの男の縁談は、縁談と云ふ名目で、貴女《あなた》を買ひに来たのぢや。金を積んで、貴女を買ひに来たのぢや。怪しからん! 俺《わし》の娘を!」
 父の眼は、激怒のために、狂はしいまでに、輝いた。さう云はれると、瑠璃子は、一言もなかつたが、さうした縁談の相手は、一体誰だらうかと、思つた。
「彼《あ》の男が来て娘をやらんかと云ふ。平素から、快く思つてゐない男ぢやが、折角来て呉れたものだから、無碍《むげ》に断るのもと、思つたから、与《や》らんこともないと云ふと、段々相手の男のことを話すのぢや。人を馬鹿にして居る。四十五で、先妻の子が、二人まであると云ふのぢや。俺《わし》は、頭から怒鳴り付けてやつたのぢや。すると、彼《あ》の男が、オヅ/\何を云ひ出すかと思ふと、支度金は三十万円まで出すと、云ふのぢや。俺は憤然と立ち上つて、彼《あ》の男を応接室の外へ引きずり出したのだ。」父の声は、わな/\顫へた。
「此年になるまで、こんな侮辱を受けたことはない。貧乏はしてゐる。政戦三十年、家も邸も抵当に入つてゐる。が、三十万円は愚か、千万一億の金を積んでも、娘を金のために、売るものか。」
 父は、傍《はた》の見る眼も、傷ましいほど、激昂してをる。年老いた肉体は、余りに激しい憤怒のために今にも砕けさうに、緊張してゐる。瑠璃子も、胸が一杯になつた。父の怒を、尤もだと思つた。が、その怒《いかり》を宥《なだ》むべき何の言葉も、思ひ浮ばなかつた。
 が、それに付けても、杉野子爵は、何の恨《うらみ》があつて、かうした侮辱を、年老いた父に与へるのだらう。さう思ふと、瑠璃子の胸にも、張り裂けるやうな怒りが、湧いて来た。が、それが恋人の父であると、思ひ返すと、身も世もないやうな悲しみが伴つた。
「彼《あ》の男は、金のために、あんなに賤しくなつてしまつたのだ。政商連と結託して、金のためにばかり、動いてゐるらしいのだ。今日の縁談なども、纏まれば幾何《いくら》と云ふ、口銭が取れる仕事だらう。ハヽヽヽヽ。」父は、怒を嘲《あざけり》に換へながら、蔑むやうに哄笑した。
「何でも、今日の縁談の申込み手と云ふのが、ホラ瑠璃さんも行つたゞらう、此間園遊会をやつた荘田と云ふ男らしいのだ。」
 父は何気なく云つた。が、荘田と云ふ名を聞くと、瑠璃子は直ぐ、豹の眼のやうに恐ろしい執拗なその男の眼付を思ひ出した。冷静な、勝気な、瑠璃子ではあつたけれども、悪魔に頬を、舐められたやうな気味悪さが、全身をゾク/\と襲つて来た。

        二

 荘田と云ふ名前を聴くと、瑠璃子が気味悪く思つたのも、無理ではなかつた。彼女は、その人の催した園遊会で、妙な機《はづ》みから、激しい言葉を交して以来、その男の顔付や容子が、悪夢の名残りのやうに、彼女の頭から離れなかつた。
 太いガサツな眉、二段に畳まれてゐる鼻、厚い唇、いかにも自我の強さうな表情、その顔付を思ひ出して見る丈《だけ》でも、イヤな気がした。そんな男と、云ひ争ひをしたことが、執念深い蛇とでも、恨を結び合つたやうに、何となく不安だつた。処が、その男が意外にも自分に婚を求めてゐる。さう思ふ丈でも、彼女は妙な悪寒を感じた。よく伝説の中にある、白蛇などに見込まれた美少女のやうに。
 瑠璃子は、相手の心持が、容易には分らなかつた。容易に、その事を信ずることが出来なかつた。
「本当でございますの? 杉野さんが、本当に荘田と仰しやつたのでございますの?」
「確かに、あの男だと云はないが、何《ど》うも彼奴《あいつ》の事らしい。杉野はお前の話を始める前に、それとなく荘田の事を賞めてゐるのだ。何うも彼奴らしい。金が出来たのに、付け上つて、華族の娘をでも貰ひたい肚らしいが、俺の娘を貰ひに来るなんて狂人の沙汰だ!」
 父は相手の無礼を怒つたものゝ、先方に深い悪意があらうとは思はないらしく、先刻から見ると余程機嫌が直つてゐるらしかつた。
 が、瑠璃子はさうではなかつた。此の求婚を、気紛れだとか、冗談だとか、華族の娘を貰ひたいと云ふやうな単なる虚栄心だとは、何《ど》うしても思はれなかつた。父の一喝に逢つて、這々《はふ/\》の体で、逃げ帰つた杉野子爵は、ほんの傀儡で、その背後に怖ろしい悪魔の手が、動いてゐることを感ぜずにはゐられなかつた。さう思つて来ると、八重桜の下で、自分達二人を、睨み付けた恐ろしい眼が、アリアリと浮んで来た。さう思つて来ると、自分の恋人の父を、自分に対する求婚の使者にした相手のやり方に、悪魔のやうな意地悪さを、感ぜずにはゐられなかつた。
 瑠璃子は思つた。自分が傷つけた蛇は、ホンの僅な恨を酬いるために猛然と、襲ひかゝつてゐるのだと。が、さう思ふと、瑠璃子は却つて、必死になつた。来るならば来て見よ。あんな男に、指一つ触れさせてなるものか。彼女は心の中《うち》でさう決心した。
「いや、杉野の奴一喝してやつたら、一縮みになつて帰つたよ。あゝ云つて置けば、二度と顔向けは出来ないよ。」
 父は、もう凡てが済んでしまつたやうに、何気なく云つた。が、瑠璃子にはさうは思はれなかつた。一度飛び付き損つた蛇は、二度目の飛躍の準備をしてゐるのだ。いや、二度目どころではない。三度目四度目五度目十度目の準備まで整つてゐるのかも知れない。さう思ふと、瑠璃子は又更に自分の胸の処女の誇が、烈火のやうに激しく燃えるのを感じた。
「本当に口惜しうございます。あんな男が妾《わたくし》を。それに杉野さんが、そんな話をお取次ぎになるなんて、本当にひどいと思ひますわ。」
 瑠璃子は、興奮して、涙をポロ/\落しながら云つた。それは口惜しさの涙であり、怒《いかり》の涙だつた。
「だから、聴かない方が、いゝと云つたのだ。さうだ! 杉野が怪しからんのだ。あんな馬鹿な話を取次ぐなんて、彼奴が怪しからんのだ。が、あんな堕落した人間の云ふことは、気に止めぬ方がいゝ。縁談どころか、瑠璃さんには、何時までも、茲《こゝ》にゐて貰ひたいのだ。殊に、光一があゝなつてしまへば、お父様の子はお前|丈《だけ》なのだ。百万円はおろか、お父様の首が飛んでも、お前を手離しはしないぞ。ハヽヽヽ。」
 父は、瑠璃子を慰めるやうに、快活に笑つた。瑠璃子の心も、父に対する愛で、一杯になつてゐた。何時までも、父の傍にゐて、父の理解者であり、慰安者であらうと思つた。
「妾《わたくし》もさう思つてゐますの。何時までも、お父様のお傍《そば》にゐたいと思つてゐますの。」
 さう云つて瑠璃子は初めてニツコリ笑つた。嵐の過ぎ去つた後の平和を思はせるやうな、寂しいけれども静かな美しい微笑だつた。

        三

 二つの忌はしい事件が、渦を捲いて起つた日から、瑠璃子の家は、暴風雨の吹き過ぎた後のやうな寂しさに、包まれてしまつた。
 家出した兄からは、ハガキ一つ来なかつた。父は父でおくび[#「おくび」に傍点]にも兄の事は云はなかつた。人を頼んで、兄の行方を探すとか、警察に捜索願を出すなどと云ふことを、父は夢にも思つてゐないらしかつた。自分を捨てた子の為には、指一つ動かすことも、父としての自尊心が許さないらしかつた。
 かうした父と兄との間に挟まつて、たゞ一人、心を傷めるのは瑠璃子だつた。彼女は、父に隠れて兄の行方をそれとなく探つて見た。兄が、その以前父に隠れて通つたことのある、小石川の洋画研究所も尋ねて見た。兄が、予てから私淑してゐる二科会の幹部のN氏をも訪ねて見た。が、何処でも兄の消息は判らなかつた。
 兄の友達の二三にも、手紙で訊き合して見た。が、どの返事も定まつたやうに、兄に暫らく会つたことがないと云ふやうな、頼りない返事だつた。縦令《たとひ》父とは不和になつても、自分丈には安否位は、知らせて呉れてもよいものと、彼女は兄の気強さが恨めしかつた。が、彼女の心を傷ましめることは外にもう一つあつた。それは、これまで感情の疎隔してゐた父と杉野子爵との間が、到頭最後の破裂に達したことである。あんな事件が起つた以上、再び元通りになることは、殆ど絶望のやうに思はれた。従つて、自分達の恋が、正式に認められるやうな機《をり》は、永久に来ないやうに思はれた。自分が、恋を達するときは、やつぱり兄と同じやうに、父に背かなければならぬ時だと思ふと、彼女の心は暗かつた。
 突然な非礼な求婚が、斥けられてから、それに就いては何事も起らなかつた。十日経ち二十日経つた、父は、その事をもうスツカリ忘れてしまつたやうだつた。が、瑠璃子にはそれが中断された悪夢のやうに、何となく気がかりだつたが、一度|限《ぎり》で何の音沙汰もないところを見ると、その求婚を、恐ろしい復讐の企てでもあるやうに思つたのは、自分の邪推であつたやうにさへ、瑠璃子は思つた。
 その裡に五月が過ぎ六月が来た。政治季節の外は、何の用事もない父は、毎日のやうに書斎にばかり、閉ぢ籠もつてゐた。瑠璃子は何うかして、父を慰めたいと思ひながらも、父の暗い眉や凋びた口の辺《あたり》を見ると、たゞ涙ぐましい気持が先に立つて、話しかける言葉さへ、容易に口に浮ばなかつた。兄がゐる裡は、父と時々争ひが起つたものゝ、それでも家の中が、何となく華やかだつた。父娘二人になつて見ると、ガランとした洋館が修道院か何かのやうに、ジメ/\と淋しかつた。
 六月のある晴れた朝だつた。兄が家出した悲しみも、不快な求婚に擾された心も、だん/\薄らいで行く頃だつた。瑠璃子は、その朝、顔を洗つてしまふと平素《いつも》の[#「平素《いつも》の」は底本では「平素《いつも》もの」]通り、老婢が自分の室の机の上に置いてある郵便物を、取り上げて見た。
 父宛に来た書状も、一通り目を通すのが、彼女の役だつた。その朝は、父宛の書留が一通|雑《ま》じつてゐた。それは内容証明の書留だつた。裏を返すと、見覚えのある川上万吉と云ふ金貸業者の名前だつた。
『あゝまた督促かしら。』と、瑠璃子は思つた。さうした書状を見る毎に、平素《いつも》は感じない家の窮状が彼女にもヒシ/\感ぜられるのであつた。
 彼女は、何気なく封を破つた。が、それは平素《いつも》の督促状
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