の子から理解せられない、それほど淋しいことが、世の中にあるだらうかと思ふと、瑠璃子は、父に言葉をかける力もなくなつて、その儘床の上に、再び泣き崩れた。
 最愛の娘の涙に誘はれたのであらう。老いた政治家の頬にも、一条の涙の痕が印せられた。
「瑠璃子!」父の声には、先刻《さつき》のやうな元気はなかつた。
「はい!」瑠璃子は、涙声でかすかに答へた。
「出て行つたかい! 彼《あれ》は?」遉《さすが》に何処となく恩愛の情が纏はつてゐる声だつた。
「はい!」彼女の声は前よりも、力がなかつた。
「いやいゝ。出て行くがいゝ。志を異にすれば親でない、子でない、血縁は続いてゐても路傍の人だ。瑠璃子! お前には、父さんの心持は解るだらう。お前|丈《だけ》は、俺《わし》の心持は解るだらう。お前が男であつたら、屹度お父さんの志を継いで呉れるだらうとは、平生思つてゐるのだが。」父は元気に云つた。が、声にも口調にも力がなかつた。
 瑠璃子は、それには何とも答へなかつた。が、瑠璃子の胸に、一味焼くやうな激しい気性と、父にも兄にも勝るやうな強い意志があることは、彼女の平生の動作が示してゐた。それと同じやうに、貴族的な気品があつた。昔気質の父が時々瑠璃子を捕へて『男なりせば』の嘆を漏すのも無理ではなかつた。
 まだ父が、何か云はうとする時であつた。邸前の坂道を疾駆して馳け上る自動車の爆音が聞えたかと思ふと、やがてそれが門前で緩んで、低い警笛《アラーム》と共に、一輛の自動車が、唐沢家の古びた黒い木の門の中に滑り入つた。

        五

 父子の悲しい淋しい緊張は、自動車の音で端なく破られた。瑠璃子は、もつとかうしてゐたかつた。父の気持も訊き、兄に対する善後策も講じたかつた。彼女は、自分の家の恐ろしい悲劇を知らず顔に、自動車で騒々しく、飛び込んで来る客に、軽い憎悪をさへ感じたのである。
 老婢《ばあや》は、何かに取り紛れてゐるのだらう、容易に取次ぎには出て来ないやうだつた。
「老婢はゐないかしら!」さう呟くと、瑠璃子は自分で、取次ぎするために、階段を下りかけた。
「大抵の人だつたら、会へないと断るのだよ。いゝかい。」
 さう言葉をかけた父を振り顧つて見ると、相変らず蒼い顫へてゐるやうな顔色をしてゐた。
 瑠璃子が、階段を下りて、玄関の扉を開けたとき、彼女は訪問者が、一寸意外な人だつたのに駭いた。それは、彼女の恋人の父の杉野子爵であつたからである。
「おや入らつしやいまし。」さう云ひながら、彼女は心の中で可なり当惑した。杉野子爵は、彼女にとつては懐しい恋人の父だつた。が、父と子爵とは、決して親しい仲ではなかつた。同じ政治団体に属してゐたけれども、二人は少しも親しんでゐなかつた。父は、内心子爵を賤しんでゐた。政商達と結託して、私利を追うてゐるらしい子爵の態度を、可なり不快に思つてゐるらしかつた。公開の席で、二三度可なり激しい議論をしたと云ふ噂なども、瑠璃子は何時となく聴いてゐた。
 さうした人を、こんな場合、父に取次ぐことは、心苦しかつた。それかと云つて、自分の恋人の父を、情《すげ》なく返す気にもなれなかつた。彼女が躊躇してゐるのを見ると、子爵は不審《いぶかし》さうに訊いた。
「いらつしやらないのですか。」
「いゝえ!」彼女は、さう答へるより外はなかつた。
「杉野です。一寸お取次を願ひます。」
 さう云はれると、瑠璃子は一も二もなく取次がずにはゐられなかつた。が、階段を上るとき、彼女の心にふとある動揺《どよめき》が起つた。『まさか』と、彼女は幾度も打ち消した。が、打ち消さうとすればするほど、その動揺は大きくなつた。
 杉野子爵の長男直也は、父に似ぬ立派な青年だつた。音楽会で知り合つてから、瑠璃子は知らず識らずその人に惹き付けられて行つた。男らしい顔立と、彼の火のやうな熱情とが、彼女に対する大きな魅惑だつた。二人の愛は、激しく而も清浄だつた。
 二人は将来を誓ひ合つた。学校を出れば、正式に求婚します。青年は口癖のやうに繰返した。
 青年は今年の四月学習院の高等科を出てゐる。『学校を出ると云ふことが、学習院を出ることを、意味するなら。』さう考へると瑠璃子は踏んでゐる足が、階段に着かぬやうに、そは/\した。まだ一度も、尋ねて来たことのない子爵が、わざ/\尋ねて来る。さう考へて来ると、瑠璃子の小さい胸は取り止めもなく掻き擾されてしまつた。
 が、つい此間青年と園遊会で会つたとき、彼はおくび[#「おくび」に傍点]にも、そんなことは云はなかつた。正式に突然求婚して、自分を駭かさうと云ふ悪戯かしら。彼女は、そんなことまで、咄嗟の間に空想した。
 が、苦り切つてゐる、父の顔を見たとき彼女の心は、急に暗くなつた。縦令《たとひ》、それが瑠璃子の思ふ通りの求婚であつたにしろ、父がオイソレと許すだらうか。心の中で、賤しんでゐる者の子息に、最愛の娘を与へるだらうか。子は子である。父は父である。之《こ》れ位の事理の分らない父ではない。が、兄が突然家出して、さなきだに淋しい今、自分を手離して、他家《よそ》へやるだらうか。さう思ふと、瑠璃子の心に伸びた空想の翼は、また忽ち半《なかば》以上切り取られてしまつた。が、万一さうなら、又万一父が容易に承諾したら?
「あの! 杉野子爵がお見えになりました。」彼女の息は可なりはづんでゐた。

        六

 父は娘の心を知らなかつた。杉野子爵の突然の来訪を、迷惑がる表情があり/\と動いた。
「杉野! ふーむ。」父は苦り切つたまゝ容易に立たうとはしなかつた。
 父が、杉野子爵に対してかうした感情を持つてゐる以上、又兄の家出と云ふ傷ましい事件が起つてゐる以上、縦令《たとひ》子爵の来訪が、瑠璃子の夢見てゐる通《とほり》の意味を持つてゐたにしろ、容易に纏まる筈はなかつた。さう考へると、彼女の心は、墨を流したやうに暗くなつてしまつた。
「仕方がない! お通しなさい!」さう云つたまゝ、父は羽織を着るためだらう、階下《した》の部屋へ下りて行つた。
 瑠璃子は、恋人の父と自分の父との間に、まつはる不快な感情を悲しみながら、玄関へ再び降りて行つた。
「お待たせいたしました。何うぞお上り下さいませ。」
「いや、どうも突然伺ひまして。」と、子爵は如才なく挨拶しながら先に立つて、応接室に通つた。
 古いガランとした応接室には、何の装飾もなかつた。明治十幾年に建てたと云ふ洋館は、間取りも様式も古臭く旧式だつた。瑠璃子は、客を案内する毎に、旧式の椅子の蒲団《クション》が、破れかけてゐることなどが気になつた。
 父は、直ぐ応接室へ入つた。心の中の感情は可なり隔たつてゐたが、面と向ふと、遉《さすが》に打ち解けたやうな挨拶をした。瑠璃子は、茶を運んだり、菓子を運んだりしながらも、主客の話が気にかゝつた。が、話は時候の挨拶から、政界の時事などに進んだまゝ用向きらしい話には、容易に触れなかつた。
 立ち聞きをするやうな、はしたない[#「はしたない」に傍点]事は、思ひも付かなかつた。瑠璃子は、来客が気になりながらも、自分の部屋に退いて、不安な、それかと云つて、不快ではない心配を続けてゐた。
 恋人の顔が、絶えず心に浮かんで来た。過ぎ去つた一年間の、恋人とのいろ/\な会合が、心の中に蘇へつて来た。どの一つを考へても、それは楽しい清浄な幸福な思出だつた。二人は火のやうな愛に燃えてゐた。が、お互に個性を認め合ひ、尊敬し合つた。上野の音楽会の帰途に、ガスの光が、ほのじろく湿《うる》んでゐる公園の木下暗《このしたやみ》を、ベエトーフェンの『月光曲』を聴いた感激を、語り合ひながら、辿つた秋の一夜の事も思ひ出した。新緑の戸山ヶ原の橡《とち》の林の中で、その頃読んだトルストイの「復活」を批評し合つた初夏の日曜の事なども思ひ出した。恋人であると共に、得難い友人であつた。彼女の趣味や知識の生活に於ける大事な指導者だつた。
 恋人の凜々しい性格や、その男性的な容貌や、その他いろ/\な美点が、それからそれと、彼女の頭の中に浮かんで来た。若《も》し子爵の来訪の用向きが、自分の想像した通りであつたら、(それが何と云ふ子供らしい想像であらう)とは、打消しながらも、瑠璃子の真珠のやうに白い頬は、見る人もない部屋の中にありながら、ほのかに赤らんで来るのだつた。
 が、来客の話は、さう永くは続かなかつた。瑠璃子の夢のやうな想像を破るやうに、応接室の扉《ドア》が、父に依つて荒々しく開かれた。瑠璃子は、客を送り出すため、急いで玄関へ出て行つた。
 見ると父は、兄の家出を見送つた時以上に、蒼い苦り切つた顔をしてゐた。杉野子爵はと見ると、その如才のないニコニコした顔に、微笑の影も見せず、周章として追はれるやうに玄関に出て、ロクロク挨拶もしないで、車上の人となると、運転手を促し立てゝ、あわたゞしく去つてしまつた。
 父は、自動車の後影を憎悪と軽蔑との交つた眼付で、しばらくの間見詰めてゐた。
「お父様どうか遊ばしたのですか。」瑠璃子は、おそる/\父に訊いた。
「馬鹿な奴だ。華族の面汚しだ。」父は、唾でも吐きかけるやうに罵つた。

        七

 杉野子爵に対する、父の燃ゆるやうな憎悪の声を聞くと、瑠璃子は自分の事のやうに、オドオドしてしまつた。胸の中に、ひそかに懐いてゐた子供らしい想像は、跡形もなく踏み躙られてゐた。踏んでゐた床が、崩れ落ちて、其儘底知れぬ深い淵へ、落ち込んで行くやうな、暗い頼りない心持がした。之迄《これまで》でさへ、父と父との感情に、暗い翳のあることは、恋する二人の心を、どんなに傷《いたま》しめたか分らない。それだのに、今日はその暗い翳が、明らさまに火を放つて、爆発を来したらしいのである。
「一体|何《ど》うしたのでございます。そんなにお腹立ち遊ばして。」
 瑠璃子は、父の顔を見上げながら、オヅ/\訊いた。父は口にするさへ、忌々《いま/\》しさうに、
「訊くな。訊くな。汚らはしい。俺《わし》達を侮辱してゐる。俺《わし》ばかりではない、お前までも侮辱してゐるのだ。」と、歯噛《はがみ》をしないばかりに激昂してゐるのだつた。
 自分までもと、云はれると、瑠璃子は更に不安になつた。自分のことを、一体|何《ど》う云つたのだらう。自分に就いて、一体何を云つたのだらう。恋人の父は、自分のことを、一体|何《ど》う侮辱したのだらう。さう考へて来ると、瑠璃子は父の機嫌を恐れながらも、黙つてゐる訳には行かなかつた。
「一体どんなお話が、ございましたの。妾《わたくし》の事を、杉野さんは何《ど》う仰《おつ》しやるのでございますか。」
「訊くな。訊くな。訊かぬ方がいゝ。聞くと却つて気を悪くするから。あんな賤しい人間の云ふことは、一切耳に入れぬことぢや。」
 やゝ興奮の去りかけた父は、却つて娘を宥《なだ》めるやうに優しく云ひながら、二階の居間へ行くために階段を上りかけた。父は、杉野子爵を賤しい人間として捨てゝ置くことが出来た。が、瑠璃子には、それは出来なかつた。どんなに、子爵が賤しくても、自分の恋人の父に違《ちがひ》なかつた。その人が、自分のことを、何《ど》う云つたかは、瑠璃子に取つては是非にも訊きたい大事な事だつた。
「でも、何と仰《おつ》しやつたか知りたいと思ひますの。妾《わたくし》のことを何と仰《おつ》しやつたか、気がかりでございますもの。」
 瑠璃子は、父を追ひながら、甘えるやうな口調で云つた。娘の前には、目も鼻もない父だつた。母のない娘のためには、何物も惜しまない父だつた。瑠璃子が執拗に二三度訊くと、どんな秘密でも、明しかねない父だつた。
「なにも、お前の悪口を云つたのぢやない。」
 父は憤怒を顔に現しながらも、娘に対する言葉|丈《だけ》は、優しかつた。
「ぢや、何うして侮辱になりますの、あの方から、侮辱を受ける覚えがないのでございますもの。」
「それを侮辱するから怪《け》しからないのだ。俺を侮辱するばかりでなく、清浄潔白なお前までも侮辱してかゝるのだ。」
 父は、又杉野子爵の態度か言葉かを思ひ出したのだらう、
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