が来ても、止むことはなかつた。何時が来ても、一致しがたい平行線の争ひだつた。
母が、昨年死んでから、淋しくなつた家庭は、取り残された人々が、その淋しさを償ふために、以前よりも、もつと睦まじくなるべき筈だのに、実際はそれと反対だつた。調和者《ピイスメイカア》としての母がゐなくなつた為、兄と父との争ひは、前よりも激しくなり、露骨になつた。
「馬鹿を云へ! 馬鹿を云へ!」
父のしはがれた張り裂けるやうな声が、聞えた。それに続いて、何かを擲《なげう》つやうな物音が、聞えて来た。
瑠璃子は、その音をきくと、何時も心が暗くなつた。また父が兄の絵具を見付けて、擲つてゐるのだ。
さう思つてゐると、又カンバスを引き裂いてゐるらしい、帛《きぬ》を裂く激しい音が聞えた。瑠璃子は、思はず両手で、顔を掩うたまゝかすかに顫へてゐた。
芸術と云つたやうなものに、粟粒ほどの理解も持つてゐない父が悲しかつた。絵を描くことを、ペンキ屋が看板を描くのと同じ位に卑しく見貶《みくだ》してゐる父の心が悲しかつた。それと同じやうに、芸術をいろ/\な人間の仕事の中で、一番|尊《たつと》いものだと思つてゐる、兄の心も悲しかつた。父から、描けば勘当だと厳禁されてゐるにも拘はらず、コソ/\と父の眼を盗んで、写生に行つたり、そつと研究所に通つたりする兄の心が、悲しかつた。が、何よりも悲劇であることは、さうしたお互に何の共鳴も持つてゐない人間同士が、父と子であることだつた。父が、卑しみ抜いてゐることに、子が生涯を捧げてゐることだつた。父の理想には、子が少しも同感せず、子の理想には父が少しも同感しないことだつた。
カンバスが、引き裂かれる音がした後は、暫らくは何も聞えて来なかつた。争ひの言葉が聞えて来る裡は、それに依つて、争ひの経過が判つた。が、急に静《しづか》になつてしまふと、却つて妙な不安が、聞いてゐる者の心に起つて来る。瑠璃子はまた父が、興奮の余り心悸が昂進して、物も云へなくなつてゐるのではないかと思ふと、急に不安になつて来て、争ひの舞台《シーン》たる兄の書斎の方へ、足音を忍ばせながらそつと近づいて行つた。
二
瑠璃子は、そつと足音を立てないやうに、縁側《ヴェランダ》を伝うて兄の書斎へ歩み寄つた。とゞろく胸を押へながら縁側《ヴェランダ》に向いてゐる窓の硝子《ガラス》越しに、そつと室内をのぞき込んだ。彼女が予期した通りの光景が其処にあつた。長身の父は威丈高に、無言のまゝ、兄を睨み付けて立つてゐた。痩せた面長な顔は、白く冷めたく光つてゐる。腰の所へやつてゐる手は、ブル/\顫へてゐる。兄は兄で、昂然とそれに対してゐた。たゞさへ、蒼白い顔が、激しい興奮のために、血の気を失つて、死人のやうに蒼ざめてゐる。
父と子とは、思想も感情もスツカリ違つてゐたが、負けぬ気の剛情なところ丈《だけ》が、お互に似てゐた。父子《おやこ》の争ひは、それ丈《だけ》激しかつた。
二人の間には、絵具のチューブが、滅茶苦茶に散つてゐた。父の足下には、三十号の画布《カンバス》が、枠に入つたまゝ、ナイフで横に切られてゐた。その上に描かれてゐる女の肖像も、無残にも頬の下から胸へかけて、一太刀浴びてゐるのだつた。
さうした光景を見た丈《だけ》で、瑠璃子の胸が一杯になつた。父が、此上兄を恥《はづか》しめないやうに、兄が大人しく出て呉れるやうにと、心|私《ひそ》かに[#「私《ひそ》かに」は底本では「私《ひそか》かに」]祈つてゐた。
が、父と兄との沈黙は、それは戦ひの後の沈黙でなくして、これからもつと怖しい戦ひに入る前の沈黙だつた。
画布《カンバス》までも、引き裂いた暴君のやうな父の前に、真面目な芸術家として兄の血は、熱湯のやうに、沸いたのに違ひなかつた。いつもは、父に対して、冷然たる反抗を示す兄だつたが、今日は心の底から、憤つてゐるらしかつた。憤怒の色が、アリ/\とその秀でた眉のあたりに動いてゐた。
「考へて見るがいゝ。堂々たる男子が、画筆などを弄んでゐて何《ど》うするのだ。」父は、今迄張り詰めてゐた姿勢を、少しく崩しながら、苦い物をでも吐き出すやうに云つた。
「考へて、見る迄もありません。男子として、立派な仕事です。」兄の答へも冷たく鋭かつた。
「馬鹿を云へ! 馬鹿を?[#「?」はママ]」父は、又カツとなつてしまつた。「画などと云ふものは、男子が一生を捧げてやる仕事では決してないのだ。云はゞ余戯なのだ。なぐさみ[#「なぐさみ」に傍点]なのだ。お前が唐沢の家の嗣子でなければ、どんな事でも好き勝手にするがいゝ。が、俺《わし》の子であり、唐沢の家の嗣子である以上、お前の好き勝手にはならないのだ。唐沢の家には、画描きなどは出したくないのだ。俺の子は、画描きなどにはなつて貰ひたくないのだ!」
父は、さう叫びながら、手近にある卓《デスク》の端を力委せに二三度打つた。瑠璃子には、父が貴族院の演壇で獅子吼する有様が、何処となく偲ばれた。が、相手が現在の子であることが、父の姿を可なり淋しいものにした。
「お前は、父が三十年来の苦闘を察しないのか。お前は、俺《わし》の子として、父の志を継ぐことを、名誉だとは思はないのか、俺の志を継いで、俺が年来の望みを、果させて呉れようとは思はないのか。お前は、唐澤の家の歴史を忘れたのか、お前にいつも話してゐる、お祖父様の御無念を忘れたのか。」
それは、父が少し昂奮すれば、定《き》まつて出る口癖だつた。父は、それを常に感激を以て語つた。が、子はそれを感激を以て聞くことが、出来なかつた。唐澤の家が、三万石の小大名ではあつたが、足利時代以来の名家であるとか、維新の際には祖父が勤王の志が、厚かつたにも拘はらず、薩長に売られて、朝敵の汚名を取り、悶々の裡に憤死したことや、その死床で洩した『敵《かたき》を取つて呉れ。』といふ遺言を体して、父が三十年来貴族院で、藩閥政府と戦つて来たことなど、それは父にとつて重大な一生を支配する生活の刺戟だつたかも知れない。が、子に取つては、彼の画題となる一茎の草花に現はれてゐる、自然の美しさほどの、刺戟も持つてゐなかつた。時代が違つてゐ、人間が違つてゐた。何の共通点もない人間同士が、血縁でつながつてゐることが、何より大きい悲劇だつた。
「黙つてゐては分らない。何とか返事をなさい!」日本の大正の王《キング》リアは、かう云つて石のやうに黙つてゐる子に挑んだ。
三
「お父さん!」兄は静《しづか》に頭を擡《あ》げた。平素は、黙々として反抗を示す丈《だけ》の兄だつたが、今日は徹底的に云つて見ようといふ決心が、その口の辺に動いてゐた。「貴方《あなた》が、幾何《いくら》仰《おつ》しやつても、僕は政治などには、興味が向かないのです。殊に現在のやうな議会政治には、何の興味も持つてゐないのです。僕は、お父さんの仰《おつ》しやるやうに、法科を出て政治家になるなどと云ふことには、何の興味もないのです。」兄の言葉は、針のやうに鋭く澄んで来た。
「もう少し待つて下さい。もう少し、気長に私のすることを見て居て下さい。その中に、画を描くことが、人間としてどんなに立派な仕事であるか、堂々たる男子の事業として恥かしくないかを、お父さんにも、お目にかけ得る時が来るだらうと思ふのです。」
「あゝよして呉れ!」父は排《はら》ひ退けるやうに云つた。「そんな事は聞きたくない。馬鹿な! 画描きなどが、画を描くことなどが、……」父は苦々しげに言葉を切つた。
「お父さんには、幾何《いくら》云つても解らないのだ。」兄も投げ捨てるやうに云つた。
「解つてたまるものか。」父の手がまたかすかに顫へた。
二人が、敵《かたき》同士のやうに黙つて相対峙して居る裡に、二三分過ぎた。
「光一!」父は改まつたやうに呼びかけた。
「何です!」兄も、それに応ずるやうに答へた。
「お前は、今年の正月|俺《わし》が云つた言葉を、まさか忘れはしまいな。」
「覚えてゐます。」
「覚えてゐるか、それぢやお前は、此の家にはをられない訳だらう。」
兄の顔は、憤怒のために、見る/\中に真赤になり、それが再び蒼ざめて行くに従つて、悲壮な顔付になつた。
「分りました。出て行けと仰《おつ》しやるのですか。」怒のために、兄はわな/\顫へてゐた。
「二度と、画を描くと、家には置かないと、あの時云つて置いた筈だ。お前が、俺《わし》の干渉を受けたくないのなら、此家を出て行く外はないだらう。」父の言葉は鉄のやうに堅かつた。
瑠璃子は、胸が張り裂けるやうに悲しかつた。一徹な父は、一度云ひ出すと、後へは引かない性質《たち》だつた。それに対する兄が、父に劣らない意地張だつた。彼女が、常々心配してゐた大破裂《カタストロフ》がたうとう目前に迫つて来たのだつた。
父の言葉に、カツと逆上してしまつたらしい兄は、前後の分別もないらしかつた。
「いや承知しました。」
さう云ふかと思ふと、彼は俯きながら、狂人のやうに其処に落ち散つてゐる絵具のチューブを拾ひ始めた。それを拾つてしまふと、机の引き出しを、滅茶苦茶に掻き廻し始めた。机の上に在つた二三冊のノートのやうなものを、風呂敷に包んでしまふと、彼は父に一寸目礼して、飛鳥のやうに室《へや》から駈け出さうとした。
父が、駭《おどろ》いて引き止めようとする前に、狂気のやうに室内に飛び込んだ瑠璃子は、早くも兄の左手《ゆんで》に縋つてゐた。
「兄さん! 待つて下さい!」
「お放しよ。瑠璃ちやん!」
兄は、荒々しく叱するやうに、瑠璃子の手をもぎ放した。
瑠璃子が、再び取り縋らうとしたときに、兄は下へ行く階段を、激しい音をさせながら、電光の如く馳け下つてゐた。
「兄さん! 待つて下さい!」
瑠璃子が、声をしぼりながら、後から馳け下つたとき、帽子も被らずに、玄関から門の方へ足早に走つてゐる兄の後姿が、チラリと見えた。
四
兄の後姿が見えなくなると、瑠璃子はよゝと泣き崩れた。張り詰めてゐた気が砕けて、涙はとめどもなく、双頬を湿《うる》ほした。
母が亡くなつてからは、父子三人の淋しい家であつた。段々差し迫つて来る窮迫に、召使の数も減つて、たゞ忠実な老婢と、その連合の老僕とがゐる丈《だけ》だつた。
それだのに、僅かしか残つてゐない歯の中から、またその目ぼしい一本が、抜け落ちるやうに、兄がゐなくなる。父と兄とは、水火のやうに、何処まで行つても、調和するやうには見えなかつたけれども、兄と瑠璃子とは、仲のよい兄妹だつた。母が亡くなつてからは、更に二人は親しみ合つた。兄はたゞ一人の妹を愛した。殊に父と不和になつてから、肉親の愛を換し得るのはたゞ妹だけだつた。妹もたゞ一人の兄を頼つた。父からは、得られない理解や同情を兄から仰いでゐた。瑠璃子には父の一徹も悲しかつた。兄の一徹も悲しかつた。
が、何よりも気遣はれたのは、着のみ着の儘で、飛び出して行つた兄の身の上である。理性の勝つた兄に、万一の間違があらうとは思はれなかつた。が、貧乏はしてゐても、華族の家に生れた兄は、独立して口を糊《すご》して行く手段を知つてゐる訳はなかつた。が、一時の激昂のために、カツと飛び出したものゝ屹度《きつと》帰つて来て下さるに違《ちがひ》ない。或は麻布の叔母さんの家にでも、行くに違《ちがひ》ない。やつと、さう気休めを考へながら、瑠璃子は涙を拭ひ拭ひ、階段を上つて行つた。二階にゐる父の事も、気がかりになつたからである。
父はやつぱり兄の書斎にゐた。先刻と寸分違はない位置にゐた。たゞ、傍にあつた椅子を引き寄せて、腰を下したまゝぢつと俯《うつむ》いてゐるのだつた。たつた一人の男の子に、背き去られた父の顔を見ると、瑠璃子の眼には新しい涙が、また一時に湧いて来るのであつた。此の頃、交じりかけた白髪が急に眼に立つやうに思つた。
『歯が脱けて演説の時に声が洩れて困まる』と、此頃口癖のやうに云ふ通《とほり》、口の辺《あたり》が淋しく凋びてゐるのが、急に眼に付くやうに思つた。
一生を通じて、やつて来た仕事が、自分
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