美しさであつた。一目|丈《だけ》は、ごまかしが利くが二目見るともう鼻に付く美しさであつた。が、この少女は、夜毎に下る白露に育まれた自然の花のやうな生きた新鮮な美しさを持つてゐた。人間の手の及ばない海底に、自然と造り上げらるゝ、天然真珠の如き輝きを持つてゐた。一目見て美しく、二目見て美しく、見直せば見直す毎に蘇つて来る美しさを持つてゐた。
 勝平が、今迄金で買ひ得た女性の美しさは、此少女の前では、皆偽物だつた。金で買ひ得るものと思つてゐたものは、皆贋物だつたのだ。勝平は此少女の美しさからも、今迄の誇《プライド》を可なり傷けられてしまつた。
 それ丈《だけ》ではなかつた。此二人が、恋人同士であることが、勝平にもすぐそれと判つた。二人の交してゐる言葉は、低くて聞えなかつたが、時々お互に投げ合つてゐる微笑には、愛情が籠もつてゐた。愛情に燃えてゐながら、而も浄く美しい微笑だつた。
 二人の睦じい容子を見てゐる裡に、勝平の心の中の憤怒は何時の間にか、嫉妬をさへ交へてゐた。『凡ての事は金だ。金さへあればどんな事でも出来る。』と思つてゐた彼の誇は、根柢から揺り動かされてゐた。此の二人の恋人が、今感じ合つてゐるやうな幸福は、勝平の全財産を、投じても得られるか、何《ど》うか分らなかつた。少女の顔に浮ぶ、浄いしかも愛に溢れた微笑の一つでさへ、購ふことが出来るだらうか。いかにも、新橋や赤坂には、彼に対して、千の媚を呈し、万の微笑を贈る女は、幾何《いくら》でもゐる。が、その媚や微笑の底には、袖乞ひのやうな卑しさや、狼のやうな貪慾さが隠されてゐた。此の若い男女が交してゐるやうな微笑とは、金剛石と木炭のやうに違つてゐた。同じ炭素から成つてゐても、金剛石が木炭と違ふやうに、同じ笑でも質が違つてゐたのだ。
 青年が、勝平の金力をあんなに、罵倒するのも無理はなかつた。実際彼は、金力で得られない幸福があることを、勝平の前で示してゐるのだつた。
 青年の罵倒が単なる悪口でなく、勝平に取つては、苦い真理である丈《だけ》に、勝平の恨みは骨に入つた。また、罵倒した後で、罵倒する権利のあることを、勝平にマザ/\と見せ付けた丈《だけ》に、勝平の憤《いきどほり》は、肝に銘じた。彼は、一突き刺された闘牛のやうに、怒つてゐた。もう、自制もなかつた。彼が、先刻まで誇つてゐた社会的位置に対する遠慮もなかつた。彼は樫の木に出来る木瘤のやうな拳を握りしめながら、今にも青年に飛びかゝるやうな身構へをしてゐた。
 その時に、蹲まつてゐた青年がつと立ち上つた。女も続いて立ち上りながら云つた。
「でも、何か召し上つたら何《ど》う。折角いらしつたのですもの。」
「僕は、成金輩の粟《ぞく》を食《は》むを潔《いさぎよ》しとしないのです。ハヽヽヽ。」
 青年は、半分冗談で云つたのだつた。が、憤怒に心の狂ひかけてゐた勝平にとつては、最後の通牒だつた。彼は、寝そべつてゐた獅子のやうに、猛然と腰掛から離れた。

        六

 勝平の激怒には、まだ気の付かない青年は、連の女を促して、丘を下らうとしてゐるのだつた。
「もし、もし、暫らく。」勝平の太い声も、遉《さすが》に顫へた。
 青年は、何気ないやうに振返つた。
「何か御用ですか。」落着いた、しかも気品のある声だつた。それと同時に、連の女も振返つた。その美しい眉に、一寸勝平の突然の態度を咎めるやうな色が動いた。
「いや、お呼び止めいたして済みません。一寸御挨拶がしたかつたのです。」と、云つて勝平は、息を切つた。昂奮の為に、言葉が自由でなかつた。二人の相手は、勝平の昂奮した様子を、不思議さうにジロ/\と見てゐた。
「先刻、皆様に御挨拶した筈ですが、貴方《あなた》方は遅くいらしつたと見えて、まだ御挨拶をしなかつたやうです。私が、此家の主人の荘田勝平です。」
 さう云ひながら、勝平はわざと丁寧に、頭を下げた。が、両方の手は、激怒のために、ブル/\と顫へてゐた。
 遉《さすが》に、青年の顔も、彼に寄り添うてゐる少女の顔もサツと変つた。が、二人とも少しも悪怯《わるび》れたところはなかつた。
「あゝさうですか。いや、今日はお招きに与《あづか》つて有難うございます。僕は、御存じの杉野|直《たゞし》の息子です。茲《こゝ》に、いらつしやるのは、唐澤男爵のお嬢さんです。」
 青年の顔色は、青白くなつてゐたが、少しも狼狽した容子は見せなかつた。昂然とした立派な態度だつた。青年に紹介されて、しとやかに頭を下げた令嬢の容子にも、微塵|狼狽《うろた》へた様子はなかつた。
「いや、先刻から貴君の御議論を拝聴してゐました。いろ/\我々には、参考になりました。ハヽヽ。」
 勝平は、高飛車に自分の優越を示すために、哄笑しようとした。が、彼の笑ひ声は、咽喉にからんだまゝ、調子外れの叫び声になつた。
 自分の罵倒が、その的の本人に聴かれたと云ふことが、明かになると、青年も遉《さすが》に当惑の容子を見せた。が、彼は冷静に落着いて答へた。
「それはとんだ失礼を致しました。が、つい平生の持論が出たものですから、何とも止むを得ません。僕の不謹慎はお詫びします。が、持論は持論です。」
 さう云ひながら、青年は冷めたい微笑を浮べた。
 自分が飛び出して出さへすれば、周章狼狽して、一溜りもなく参つてしまふだらうと思つてゐた勝平は、当が外れた。彼は、相手が思ひの外に、強いのでタヂ/\となつた。が、それ丈《だけ》彼の憤怒は胸の裡に湧き立つた。
「いや、お若いときは、金なんかと云つて、よく軽蔑したがるものです。私なども、その覚えがあります。が、今にお判りになりますよ。金が、人生に於てどんなに大切であるかが。」
 勝平は、出来る丈《だけ》高飛車に、上から出ようとした。が、青年は少しも屈しなかつた。
「僕などは、さうは思ひません。世の中で、高尚な仕事の出来ない人が、金でも溜めて見ようと云ふことに、なるのぢやありませんか。僕は事業を事業として、楽しんでゐる実業家は好きです。が、事業を金を得る手段と心得たり、又得た金の力を他人に、見せびらかさうとするやうな人は嫌ひです。」
 もう、其処に何等の儀礼もなかつた。それは、言葉で行はれてゐる格闘だつた。青年の顔も蒼ざめてゐた。勝平の顔も蒼ざめてゐた。
「いや、何とでも仰しやるがよい。が、理窟ぢやありません。世の中のことは、お坊ちやんの理想|通《どほり》に行くものではありません。貴君にも金の力がどんなに恐ろしいかが、お判りになるときが来ますよ。いや、屹度《きつと》来ますよ。」
 勝平は、その大きい口を、きつと結びながら青年を睨みすゑた。が、青年の直ぐ傍に、立ち竦んだまゝ、黙つてゐる彫像のやうな姿に目を転じたとき、勝平の心は、再びタヂ/\となつた。その美しい顔は勝平に対する憎悪に燃えてゐたからである。

        七

 青年が、何かを答へようとしたとき、女は突如《いきなり》彼を遮ぎつた。
「もういゝぢやございませんか。私達が、参つたのがいけなかつたのでございますもの。御主人には御主人の主義があり貴君《あなた》には貴君の主義があるのですもの。その孰れが正しいかは、銘々一生を通じて試して見る外はありませんわ。さあ、失礼をしてお暇《いとま》しようぢやありませんか。」
 少女は、青年より以上に強かつた。其処には火花が漏れるやうな堅さがあつた。それ丈、勝平に対する侮辱も、甚だしかつた。こんな男と言葉を交へるのさへ、馬鹿々々しいと、云つた表情が、彼女の何処かに漂つてゐた。孔雀のやうに美しい彼女は、孔雀のやうな態度を持つてゐるのだつた。
 青年も、自分の態度を、余り大人気ないと思ひ返したのだらう。女の言葉を、戈を収める機会にした。
「いや、飛んだ失礼を申上げました。」
 さう云ひ捨てたまゝ、青年は女と並んで足早に丘を下つて行つた。敵に、素早く身を躱《かは》されたやうに、勝平は心の憤怒を、少しも晴さない中に、やみ/\と物別れになつたのが、口惜しかつた。もつと、何とか云へばよかつた、もつと、青年を恥しめてやればよかつたと、口惜しがつた。睦《むつま》じさうに並んで、遠ざかつて行く二人を見てゐると、勝平は自分の敗れたことが、マザ/\と判つて来た。青年の罵倒に口惜しがつて、思はず飛び出したところを、手もなく扱はれて、うまく肩透しを喰つたのだつた。どんな点から、考へて見ても、自分にいゝ所はなかつた。敗戦だつた。醜い敗戦だつた。さう思ふと、わざ/\五万を越す大金を消《つか》つて、園遊会をやつたことまでが、馬鹿らしくなつた。大臣や総裁や公爵などの挨拶を受けて、有頂天にまで行つた心持が、生若い男女のために地の底へまで引きずり込まれたのだ。
 彼の憤《いきどほ》りと恨みとが、胸の中で煮えくり返つた時だつた。その憤りと恨みとの嵐の中に、徐々に鎌首を擡げて来た一念があつた。それは、云ふまでもなく、復讐の一念だつた。さうだ、俺の金力を、あれほどまで、侮辱した青年を、金の力で、骨までも思ひ知らしてやるのだ。青年に味方して、俺にあんな憎悪の眼を投げた少女を、金の力で髄までも、思ひ知らしてやるのだ。さう思ふと、彼の胸に、新しい力が起つた。
 青年の父の杉野直と云ふ子爵も、少女の父の唐澤男爵も、共に聞えた貧乏華族である。黄金の戈の前に、黄金の剣の前には、何の力もない人達だつた。
 が、何うして戦つたらいゝだらう。彼等の父を苛めることは何でもないことに違ひない。が、単なる学生である彼等を、苛める方法は容易に浮かんで、来なかつた。その時に、勝平の心に先刻の二人の様子が浮かんだ。睦じく語つてゐる恋人同士としての二人が浮かんだ。それと同時に、電《いなづま》のやうに、彼の心にある悪魔的な考へが思ひ浮かんだ。その考へは、電のやうに消えないで、徐々に彼の頭に喰ひ入つた。
 まだ、春の日は高かつた。彼が招いた人達は園内の各所に散つて、春の半日を楽しく遊び暮してゐる。が、その人達を招いた彼|丈《だけ》は、たゞ一人怏々たる心を懐いて、長閑《のどか》な春の日に、悪魔のやうな考へを、考へてゐる。
「あら、まだ茲《こゝ》にいらしつたの、方々探したのよ。」
 突如、後に騒がしい女の声がした。先刻の芸妓達が帰つて来たのである。
「さあ! 彼方《あつち》へいらつしやい。お客様が皆、探してゐるのよ。」二三人彼のモーニングコートの腕に縋つた。
「あゝ行くよ行くよ。行つて酒でも飲むのだ。」彼は、気の抜けたやうに、呟きながら、芸妓達に引きずられながら、もう何の興味も無くなつた来客達の集まつてゐる方へ拉《らつ》せられた。


 父と子

        一

『またお父様と兄様の争ひが始まつてゐる。』さう思ひながら、瑠璃子は読みかけてゐたツルゲネフの『父と子』の英訳の頁《ページ》を、閉ぢながら、段々高まつて行く父の声に耳を傾けた。
『父と子』の争ひ、もつと広い言葉で云へば旧時代と新時代との争ひ、旧思想と新思想との争ひ、それは十九世紀後半の露西亜《ロシア》や西欧諸国|丈《だけ》の悩みではなかつた。それは、一種の伝染病として、何時の間にか、日本の上下の家庭にも、侵入してゐるのだつた。
 五六十になる老人の生活目標と、二十年代の青年の生活目標とは、雪と炭のやうに違つてゐる。一方が北を指せば、一方は西を指してゐる。老人が『山』と云つても、青年は『川』とは答へない。それだのに、老人は自分の握つてゐる権力で、父としての権力や、支配者としての権力や、上長者としての権力で、青年を束縛しようとする。西へ行きたがつてゐる者を、自分と同じ方向の、北へ連れて行かうとする。其処から、色々な家庭悲劇が生れる。
 瑠璃子は、父の心持も判つた。兄の心持も判つた。父の時代に生れ、父のやうな境遇に育つたものが、父のやうな心持になり、父のやうな目的のために戦ふのは、当然であるやうに想はれた。が、兄のやうな時代に生れ、兄のやうな境遇に育つたものが、兄のやうに考へるのも亦当然であるやうに思はれた。父も兄も間違つてはゐなかつた。お互に、間違つてゐないものが、争つてゐる丈に、その争ひは何時
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