、頭から面会を拒絶した。瑠璃子が、その旨を相手に伝へると、相手は薄気味の悪い微笑をニヤリと浮べながら、
「いや、お会ひ下さらなくつても、結構です。それでは、お嬢様から、よろしくお伝へ下さい。外の事ではございませんが、今度手前共の主人が、拠《よ》ん所ない事情から、買入れました、此方《こちら》の御主人に対する証文の中、一部の期限が明日に当つてゐますから、是非ともお間違なくお払ひ下さるやうに、当方にも事情がございまして、何分御猶予いたすことが出来ませんから、そのお積りで、お間違のないやう。もし、万一お間違がありますと、手前共の方では、直ぐ相当な法律上の手段に訴へるやうな手筈に致してをりますから。後でお怨みなさらないやうに。」と、云つたが、此の冷たさうな男の胸にも、美しい瑠璃子に対する一片の同情が浮んだのであらう。彼は急に、口調を和げながら、
「どうかお嬢様、こんなことを申上げる私の苦しい立場もお察し下さい。怨《うらみ》も報《むくい》もない御当家へ参つて、こんなことを申上げる私は可なり苦しい思ひを致してゐるのでございます。然し、これも全く、使はれてゐます主人の命令でございますから。それでは、いづれ明日改めて伺ひますから。」
 瑠璃子が、大理石で作つた女神の像のやうに、冷たく化石したやうな美しい顔の、眉一つ動かさず黙つて聞いてゐるために、男はある威圧を感じたのであらう。さう云つてしまふと、コソコソと、逃ぐるやうに去つてしまつた。
 父に、この督促を伝へようかしら。が伝へたつて何《なん》にもならない。何万と云ふ金が、今日明日に迫つて、父に依つて作られる筈がなかつた。が、もし払はないとすると、向うでは直ぐ相当な法律上の手段に、訴へると云ふ。一体それはどんなことをするのだらう。さう考へて来ると、瑠璃子は自分の胸一つには、収め切れない不安が湧いて来て、進まないながら、父の部屋へ、上つて行かずにはゐられなかつた。
「うむ! 直ぐ法律上の手段に訴へる!」
 父はさう云つて、腕を拱《こまぬ》いて、遉《さすが》に抑へ切れない憂慮の色が、アリ/\と眉の間に溢れた。
「執達吏を寄越すと云ふのだな。あはゝゝゝゝ、まかり違つたら、競売にすると云ふのかな。それもいゝ、こんなボロ屋敷なんか、ない方が結句気楽だ! はゝゝゝゝ。」
 父は、元気らしく笑はうとした。が、それは空しい努力だつた。瑠璃子の眼には、笑はうとする父の顔が、今にも泣き出すやうに力なくみじめ[#「みじめ」に傍点]に見えた。
「何うにかならないものでございませうか、ほんたうに。」
 父の大事などには、今迄一度も口出しなどをしたことのない彼女も、恐ろしい危機に、つい平生のたしなみ[#「たしなみ」に傍点]を忘れてしまつた。
 父も、それに釣り込まれたやうに、
「さうだ! 本多さへ早く帰つてをれば、何《ど》うにかなるのだがな。八月には帰ると云ふのだから、此の一月か二月さへ、何うにか切り抜ければ――」
 父は、娘に対する虚勢も捨てたやうに、首をうな[#「うな」に傍点]垂れた。さうだ、父の莫逆の友たる本多男爵さへ日本にをればと、瑠璃子も考へた。が、その人は、宮内省の調度頭をしてゐる男爵は、内親王の御降嫁の御調度買入れのために、欧洲へ行つてゐて、此の八月下旬でなければ、日本へは帰らないのだつた。
 住んでゐる家に、執達吏が、ドヤ/\と踏み込んで来て家財道具に、封印をベタ/\と付ける。さうした光景を、頭の中に思ひ浮べると、瑠璃子は生きてゐることが、味気ないやうにさへ思つた。
 父も娘も、無言のまゝに、三十分も一時間も坐つてゐた。いつまで、坐つてゐても父娘《おやこ》の胸の中の、黒いいやな塊が、少しもほぐれては行かなかつた。
 その時である。また唐沢家を訪ふ一人の来客があつた。悪魔の使であるか、神の使であるかは分らなかつたけれど。

        三

 父と娘《こ》とが、差し迫まる難関に、やるせない当惑の眉をひそめて、向ひ合つて坐つてゐる時に、尋ねて来た客は、木下と云ふ父の旧知だつた。政治上の乾分《こぶん》とも云ふべき男だつた。父が、日本で初《はじめ》ての政党内閣に、法相の椅子を、ホンの一月半ばかり占めた時、秘書官に使つて以来、ズツと目をかけて来た男だつた。長い間、父の手足のやうに働いてゐた。父も、いろ/\な世話を焼いた。が、二三年来父の財力が、尽きてしまつて、乾分の面倒などは、少しも見てゐられなくなつてから、此の男も段々、父から遠ざかつて行つたのだ。
 が、父は久し振《ぶり》に、旧知の尋ねて来たことを欣んだ。溺るゝ者は、藁をでも掴むやうに、窮し切つてゐる父は、何処かに救ひの光を見付けようと、焦つてゐるのだつた。その男は、今年の五月来た時とは、別人のやうな立派な服装《なり》をしてゐた。
「何うだい! 面白い事でもあるかい!」
 父は、心の中《うち》の苦悶を、此の来客に依つて、少しは紛ぎらされたやうに、淋しい微笑を、浮べながら応接室へ入つて行つた。
「お蔭さまで此の頃は、何うにかかうにか、一本立で食つて行けるやうになりました。もう、二年お待ち下さい! その中《うち》には、閣下への御恩報じも、万分の一の御恩報じも、出来るやうな自信もありますから。」
 さう云ひながら、得意らしく哄笑した。此の場合の父には、さうした相手のお世辞さへ嬉しかつた。
「さうかい! それは、結構だな、俺は、相変らず貧乏でなう。年頃になつた娘にさへ、いろ/\の苦労をかけてゐる始末でなう。」
 父はさう云ひながら、茶を運んで行つた瑠璃子の方を、詫びるやうに見た。
「いや、今に閣下にも、御運が向いて来る時代が参りますよ。此の頃ポツ/\新聞などに噂が出ますやうに、若し××会中心の貴族院内閣でもが、出来るやうな事がありましたら、閣下などは、誰を差し措いても、第一番の入閣候補者ですから、本当に、今暫くの御辛抱です。三十年近い間の、閣下の御清節が、報はれないで了ると云ふことは、余りに不当なことですから。……いやどうも、閣下のお顔を見ると、思はずかうした愚痴が出て困ります。いや、実は本日参つたのは、一寸お願ひがあるのです。」
 さう云ひながら、その男は立ち上つて、応接室の入口に、立てかけてあつた風呂敷包を、卓《テーブル》の上に持つて来た。その長方形な恰好から推して、中が軸物であることが分つてゐた。
「実は、之《これ》を閣下に御鑑定していたゞきたいのです。友人に頼まれましたのですが、書画屋などには安心して頼まれませんものですから。是非一つ閣下にお願ひしたいと思うたものですから。」
 瑠璃子の父は、素人鑑定家として、堂に入つてゐた。殊に北宗画南宗画に於ては、その道の権威だつた。
「うむ! 品物は何《なん》なのだな。」父は余り興味がないやうに云つた。書画を鑑定すると云つたやうな、落着いた気分は、彼の心の何処にも残つてゐなかつたのである。
「夏珪《かけい》の山水図です。」
「馬鹿な。」父は頭から嘲るやうに云つた。「そんな品物が、君達の手にヒヨコ/\あるものかね。それに、見れば、大幅ぢやないか。まあ黙つて持つて帰つた方がいゝだらう。見なくつても分つてゐるやうなものだ。ハヽヽヽヽヽ。」
 父は、丸切《まるきり》り[#「丸切《まるきり》り」はママ]相手にしようとはしなかつた。相手は、父にさう云はれると、恐縮したやうに、頭をかきながら、
「閣下に、さう手厳しく出られると、一言もありません。が、諦めのために見て戴きたいのです。贋物は覚悟の前ですから。持つてゐる当人になると、怪しいと思ひながら、諦められないものですから。ハヽヽヽヽヽヽ。」

        四

 久し振で、訪ねて来た旧知の熱心な頼みを聞くと、父は素気《すげ》なく、断りかねたのであらう、それかと云つて、書画を鑑定すると云つたやうな、静かな穏かな気持は、今の場合、少しも残つてはゐないのだつた。
「見ないことはないが、今日は困るね、日を改めて、出直して来て貰ひたいね。」父は余儀なささうに云つた。
「いや決して、直ぐ只今見て下さいなどと、そんな御無理をお願ひいたすのではありません。お手許へおいて置きますから、一月でも二月でも、お預けしておきますから、何うかお暇な時に、お気が向いたときに。」相手は、叮嚀に懇願《こんぐわん》した。
「だが、夏珪の山水なんて、大した品物を預つておいて、若《も》しもの事があると困るからね。尤も、君などが、さうヒヨツクリ本物を持つて来ようなどとは、思はないけれども、ハヽヽヽヽ。」
 父は、品物が贋物であることに、何の疑ひもないやうに笑つた。
「いやそんな御心配は、御無用です。閣下のお手許に置いて置けば、日本銀行へ供託して置くより安全です。ハヽヽヽ。閣下のお口から、贋だと一言仰しやつて下さると当人も諦めが、付くものですから。」
 相手に、さう如才なく云はれると、父も断りかねたのであらう。口では、承諾の旨を答へなかつたけれども、有耶無耶《うやむや》の裡に、預ることになつてしまつた。
 その用事が、片付くと客は、取つて付けたやうに、政局の話などを始めた、父は暫らくの間、興味の乗らないやうな合槌を打つてゐた。
 客が、帰つて行くとき、父は玄関へ送つて出ながら、
「凡そ何時取りに来る?」と訊いた。やつぱり、軸物のことが少しは気になつてゐるのだつた。
「御覧になつたら、ハガキででも、御一報を願へませんか、本当にお気に向いた時でよろしいのですから。当方は、少しも急ぎませんのですから。」
 客は幾度も繰返しながら、帰つて行つた。応接室へ引き返した父は、瑠璃子を呼びながら、
「之《これ》を蔵《しま》つて置け、俺《わし》の居間の押入へ。」と、命じた。が、瑠璃子が、父の云ひ付《つけ》に従つて、その長方形の風呂敷包を、取り上げようとした時だつた。父の心が、急にふと変つたのだらう。
「あ、さう。やつぱり一寸見て置くかな。どうせ贋に定《きま》つてゐるのだが。」
 さう云ひながら、父は瑠璃子の手から、その包みを取り返した。父は包みを解いて、箱を開くと遉《さすが》に丁寧に、中の一軸を取り出した。幅三尺に近い大幅だつた。
「瑠璃さん! 一寸掛けて御覧。その軸の上へ重ねてもいゝから。」
 瑠璃子は父の命ずるまゝに、応接室の壁に古くから懸つて居る、父が好きな維新の志士雲井龍雄の書の上へ、夏珪の山水を展開した。
 先づ初め、層々と聳えてゐる峰巒《ほうらん》の相《すがた》が現れた。その山が尽きる辺から、落葉し尽くした疎林が淡々と、浮かんでゐる。疎林の間には一筋の小径が、遥々と遠く続いてゐる。その小径を横ぎつて、水の乾《か》れた小流《さながれ》が走つてゐる。その水上に架する小さい橋には、牛に騎した牧童が牧笛を吹きながら、通り過ぎてゐる。夕暮が近いのであらう、蒼茫たる薄靄が、ほのかに山や森を掩うてゐる。その寂寞を僅かに破るものは、牧童の吹き鳴らす哀切なる牧笛の音であるのだらう。
 父は、軸が拡げられるのと共に、一言も言葉を出さなかつた。が、ぢつと見詰めてゐる眸には感激の色がアリ/\と動いてゐた。五分ばかりも黙つてゐただらう。父は感に堪へたやうに、もう黙つてはゐられないやうに云つた。
「逸品だ。素晴らしい逸品だ。此間、伊達侯爵家の売立に出た夏珪の『李白観瀑』以上の逸品だ!」
 父は熱に浮かされたやうに云つてゐた。夏珪の『李白観瀑』は、つい此間行はれた伊達家の大売立に九万五千円と云ふ途方もない高値を附せられた品物だつた。

        五

「不思議だ! 木下などが、こんな物を持つて来る!」父は暫らくの間は魅せられたやうに、その山水図に対して、立つてゐた。
「そんなに、此絵がいゝのでございますか。」瑠璃子も、つい父の感激に感染して、かう訊いた。
「いゝとも。徽宗《きそう》皇帝、梁楷《りやうかい》、馬遠、牧渓《ぼくけい》、それから、この夏珪、みんな北宗画の巨頭なのだ。どんな小幅だつて五千円もする。この幅などは、お父様が、今迄見た中での傑作だ。北宗画と云ふのは、南宗画とはまた違つた、柔かい佳い味のあるものだ。」
 父は、名画を見
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