。
「さあ! おかけなさい!」
夫人はその青年のために、座席《シート》を取つて置いたかのやうに、自分の右に置いてあつた小さなトランクを取り除けた。
五
美奈子は、駭《おどろ》きに目を眸《みは》りながら[#「眸《みは》りながら」は底本では「眸《みはり》りながら」]、それでもそつと青年の顔を窃《ぬす》み見た。それは、紛れもなく彼の青年であつた。墓地で見、電車に乗り合はし、自分の家を訪ねるのを見た彼の青年に違ひなかつた。
美奈子は、胸を不意に打たれたやうに、息苦しくなつて、ぢつと面《おもて》を伏せてゐた。
が、美奈子のさうした態度を、処女に普通な羞恥だと、解釈したらしい瑠璃子は、事もなげに云つた。
「これが先刻《さつき》お話した青木さんなの。」
紹介された青年は、美奈子の方を見ながら、丁寧に頭を下げた。
「お嬢様でしたか。いつか一度、お目にかゝつたことがありましたね。」
さう云はれて、『はい。』と答へることも、美奈子には出来なかつた。彼女はそれを肯定するやうに、丁寧に頭を下げた丈けだつたが、青年が自分を覚えてゐて呉れたことが、彼女をどんなに欣ばしたか分らなかつ
前へ
次へ
全625ページ中487ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング