直ぐ帰つて来るからね。」
 信一郎は、小声で云ひ訳のやうに云ひながら、妻の顔を、なるべく見ないやうに、車中の人となつた。
 が、ガソリンが爆発を始めて、将に動き出さうとする時だつた。信一郎は、周章《あわて》て窓から、首を出した。
「おい! 静子! おれの本箱の下の引き出しの、確か右だつたと思ふが、ノートが入つてる。それを持つて来ておくれ!」
「はい。」と云つて気軽に、立ち上つた妻は、二階から大急ぎで、そのノートを持つて降りて来た。
『これが、武器だ!』信一郎は、妻の手からそれを受けとりながら、心の中でさう叫んだ。
 爪黒《つまぐろ》の鹿の血と、疑着の相ある女の生血とを塗つた横笛が、入鹿《いるか》を亡ぼす手段の一つであるやうに、瑠璃子夫人の急所を突くものは、青木淳の残した此のノートの外にはないと、信一郎は思つた。

        三

 五番町までは、一瞬の間だつた。
 かうした行動に出たことが、いゝか悪いか迷ふ暇さへなかつた。信一郎の頭の中には、瑠璃子夫人の顔や、妻の静子の顔や、非業に死んだその男の顔や、今日|客間《サロン》で見たいろ/\な人々の顔が、嵐のやうに渦巻いてゐる丈だつた。
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