怖れてゐるときではない。戦へ! 戦つて、彼女の僅に残つてゐるかも知れぬ良心を恥しめてやる時だ! さうだ! 死んだ青木淳のためにも、弔合戦を戦つてやる時だ! さう思ひながら、信一郎は必死の勇を振つて、敵の城の中へでも飛び込むやうな勢で、自分の家へ飛び込んだのである。
七
玄関先に立つてゐる、もしくは客間に上り込んでゐる妖艶な夫人の姿を、想像しながら、それに必死に突つかゝつて行く覚悟の臍《ほぞ》を固めながら、信一郎は自分の家の門を、潜つた。
見覚えのある運転手と助手とが、玄関に腰を下してゐるのが先づ眼に入つた。信一郎は、彼等を悪魔の手先か何かを見るやうに、憎悪と反感とで睨み付けた。が、夫人の姿は見えなかつた。手早く眼をやつた玄関の敷石の上にも、夫人の履物らしい履物は脱ぎ捨てゝはなかつた。信一郎は、少しは救はれたやうに、ホツとしながら、玄関へ入らうとした。
運転手は素早く彼の姿を見付けた。
「いやあ。お帰りなさいまし。先刻《さつき》からお待ちしてゐたのです。」
彼は、馴れ/\しげに、話しかけた。信一郎はそれが、可なり不愉快だつた。が、運転手は信一郎を、もつと不愉快
前へ
次へ
全625ページ中402ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング