摩川へ行く。』などと云ふ口実で、家を飛び出しながら、二時間も経たない裡に、早くも帰つて行くことが、心配になり出した。また早く、帰宅したことに就いて、妻を納得させる丈《だけ》の、口実を考へ出すことが、可なり心苦しかつた。彼は、電車の中でも、何処か外で、ゆつくり時間を潰して、夕方になつてから、帰らうかとさへ思つた。が、彼の本当の心持は、一刻も早く家に帰りたかつた。妻の静子の優しい温順な面影に、一刻も早く接したかつた。危険な冒険を経た者が、平和な休息を、只管《ひたすら》欲するやうに、他人との軋轢や争ひに胸を傷つけられ、瑠璃子夫人に対する幻滅で心を痛めた信一郎は、家庭の持つてゐる平和や、妻の持つてゐる温味の裡に、一刻も早く、浴したかつたのである。縦令《たとひ》、もう一度妻を欺く口実を考へても、一刻も早く家に帰りたかつたのである。
が、彼が一歩々々、家に近づくに従つて、自分の家の前に停つてゐる自動車が、気になり出した。勿論、此の近所に自動車が、停つてゐることは、珍らしいことではなかつた。彼の家から、つい五六軒向うに、ある実業家の愛妾が、住つてゐるために、三日にあげず、自動車がその家の前に、永く
前へ
次へ
全625ページ中399ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング