女は恋人に、まだ何も云つてゐなかつた。
 家の窮状を訴へるためには、いろ/\な事情を云はなければならない。荘田の恨みの原因が、直也の罵倒であることも云はなければならない。直也の父が、不倫な求婚の賤しい使者を務めたことも云はなければならない。それでは、恋人に訴へるのではなくして、恋人を責めるやうな結果になる。潔癖な恋人が、父の非行を聴いて、どんなに悲嘆するかは、瑠璃子にもよく分つてゐた。自分のふとした罵倒が、瑠璃子父娘に、どんなに禍《わざはひ》してゐるかと云ふことを聴けば、熱情な恋人は、どんな必死なことをやり出すかも分らない。さう思ふと、瑠璃子は、出来る丈は、自分の胸一つに収めて、恋人にも知らすまいと思つた。
 父や瑠璃子の苦しみなどとは、没交渉に、否凡ての人間の喜怒哀愁とは、何の渉《かゝは》りもなく、六月は暮れて行つた。

        二

 もう、明日が最後の日といふ六月二十九日の朝だつた。荘田勝平の代理人と云ふ男が、瑠璃子の家を訪づれた。鷲の嘴《くちばし》のやうな鼻をした四十前後の男だつた。詰襟の麻の洋服を着て、胸の辺《あたり》に太い金の鎖を、仰々しくきらめかしてゐた。
 父は
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