はぬ時計を、大尉の眼に突き付けて大尉の誇《プライド》を叩き潰してやりたかつた。が、大尉に何の罪があらう。自分達立派な男子二人に、こんな皮肉な残酷な喜劇を演ぜしめるのは、皆彼女ではないか。彼女が操る蜘蛛の糸の為ではないか。自分は、彼女が帰り次第、真向から時計を叩き返してやりたいと思つた。
が、彼女と面と向つて、不信を詰責しようとしたとき、自分は却つて、彼女から忍びがたい恥かしめを受けた。自分は小児の如く、飜弄され、奴隷の如く卑しめられた。而も、美しい彼女の前に出ると、唖のやうにたわいもなく、黙り込む自分だつた。自分は憤《いきどほり》と恨《うらみ》との為に、わな/\顫へながら而も指一本彼女に触れることが出来なかつた。自分は力と勇気とが、欲しかつた。彼女の華奢な心臓を、一思ひに突き刺し得る丈《だけ》の勇気と力とを。
が、二つとも自分には欠けてゐた。彼女を刺す勇気のない自分は、彼女を忘れようとして、都を離れた。が、彼女を忘れようとすればするほど、彼女の面影は自分を追ひ、自分を悩ませる。
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手記は茲で中断してゐる。が、半|頁《ページ》ばかり飛んでから、前よりももつと乱暴な字体で始まつてゐる。
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何うしても、彼女の面影が忘れられない。それが蝮のやうに、自分の心を噛み裂く。彼女を心から憎みながら、しかも片時も忘れることが出来ない。彼女が彼女のサロンで多くの異性に取囲まれながら、あの悩ましき媚態を惜しげもなく、示してゐるかと思ふと、自分の心は、夜の如く暗くなつてしまふ。自分が彼女を忘れるためには、彼女の存在を無くするか、自分の存在を無くするか、二つに一つだと思ふ。
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又一寸中断されてから、
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さうだ、一層死んでやらうかしら。純真な男性の感情を弄ぶことが、どんなに危険であるかを、彼女に思ひ知らせてやるために。さうだ。自分の真実の血で、彼女の偽《いつはり》の贈物を、真赤に染めてやるのだ。そして、彼女の僅に残つてゐる良心を、恥《はづか》しめてやるのだ。
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手記は、茲で終つてゐる。信一郎は、深い感激の中に読み了つた。これで見ると、青年の死は、形は奇禍であるけれども、心持は自殺であると云つてもよかつたのだ。青年は死場所を求めて、箱根から豆相《づさう》の間を逍遥《さまよ》つてゐたのだつた。彼の奇禍は、彼の望み通《どほり》に、偽りの贈り物を、彼の純真な血で真赤に染めたのだ。が、その血潮が、彼女の心に僅かに残つてゐる良心を、恥《はづか》しめ得るだらうか。『返して呉れ』と云つたのは『叩き返して呉れ』と云ふ意味だつた。信一郎は果して叩き返しただらうか。
彼女が、瑠璃子夫人であるか何うかは、手記を読んだ後も、判然とは判らなかつた。が、たゞ生易しい平和の裡に、返すべき時計でないことは明《あきらか》だつた。その時計の中に含まれてゐる青年の恨みを、相手の女性に、十分思ひ知らさなければならない時計だつたのだ。たゞ、ボンヤリと返しただけでは青年の心は永久に慰められてゐないのだ。信一郎はもう一度瑠璃子夫人の手から取り返して、青年の手記の中の所謂『彼女』に突き返してやらねばならぬ責任を感じたのである。
が、『彼女』とは一体誰であらう。
そのかみの事
一
「あら! お危うございますわ。」と赤い前垂掛の女中姿をした芸者達に、追ひ纏はれながら、荘田勝平は庭の丁度|中央《まんなか》にある丘の上へ、登つて行つた。飲み過ごした三鞭酒《シャンペンしゆ》のために、可なり危かしい足付をしながら。
丘の上には、数本の大きい八重桜が、爛漫と咲乱れて、移り逝く春の名残りを止めてゐた。其処から見渡される広い庭園には、晩春の日が、うら/\と射してゐる。五万坪に近い庭には、幾つもの小山があり芝生があり、芝生が緩やかな勾配を作つて、落ち込んで行つたところには、美しい水の湧く泉水があつた。
その小山の上にも、麓にも、芝生の上にも、泉水の畔《ほと》りにも、数奇を凝らした四阿《あづまや》の中にも、モーニングやフロックを着た紳士や、華美な裾模様を着た夫人や令嬢が、三々伍々打ち集うてゐるのだつた。
人の心を浮き立たすやうな笛や鼓の音が、楓の林の中から聞えてゐる。小松の植込の中からは、其処に陣取つてゐる、三越の少年音楽隊の華やかな奏楽が、絶え間なく続いてゐる。拍子木が鳴つてゐるのは、市村座の若手俳優の手踊りが始まる合図だつた。それに吸ひ付けられるやうに、裾模様や振袖の夫人達が、その方へゾロ/\と動いて行くのだつた。
勝平は、さうした光景や、物音を聞いてゐると、得意と満足との微笑が後から後から湧いて来た。自分の名前に依つて帝都の上流社会がこんなに集
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