ひ返されることは余りに判り切つてゐる。
信一郎は、夫人の張る蜘蛛の網にかゝつた蝶か何かのやうに、手もなく丸め込まれ、肝心な時計を体よく、捲き上げられたやうに思はれた。彼は、自分の腑甲斐なさが、口惜しく思はれて来た。
彼の手を離れても、謎の時計は、やつぱり謎の尾を引いてゐる。彼は何うかして、その謎を解きたいと思つた。
その時にふと、彼は青年が海に捨つるべく彼に委託したノートのことを思ひ出したのである。
六
青年から、海へ捨てるやうに頼まれたノートを、信一郎はまだトランクの裡に、持つてゐた。海に捨てる機会を失《なく》したので、焼かうか裂かうかと思ひながら、ついその儘になつてゐたのである。
それを、今になつて披いて見ることは、死者に済まないことには違《ちがひ》なかつた。が、時計の謎を知るためには、――それと同時に瑠璃子夫人の態度の謎を解くためには、ノートを見ることより外に、何の手段も思ひ浮ばなかつた。あんな秘密な時計をさへ、自分には託したのだ、その時計の本当の持主を知るために、ノートを見る位は、許して呉れるだらうと、信一郎は思つた。
でも家に帰つて、まだ旅行から帰つたまゝに、放り出してあつたトランクを開いたとき、信一郎は可なり良心の苛責を感じた。
が、彼が時計の謎を知らうと云ふ慾望は、もつと強かつた。美しい瑠璃子夫人の謎を解かうと云ふ慾望は、もつと強かつた。
彼は、恐る恐るノートを取り出した。秘密の封印を解くやうな興奮と恐怖とで、オヅ/\表紙を開いて見た。彼の緊張した予期は外れて、最初の二三枚は、白紙だつた。その次ぎの五六枚も、白紙だつた。彼は、裏切られたやうなイラ/\しさで、全体を手早くめくつて見た。が、何の頁《ページ》も、真白な汚れない頁《ページ》だつた。彼が、妙な失望を感じながら、最後までめくつて行つたとき、やつと其処に、インキの匂のまだ新しい青年の手記を見たのである。それは、ノートの最後から、逆にかき出されたものだつた。
信一郎は胸を躍らしながら、貪るやうにその一行々々を読んだのである。可なり興奮して書いたと見え、字体が荒《すさ》んでゐる上に、字の書き違《ちがひ》などが、彼処《かしこ》にも此処にもあつた。
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――彼女は、蜘蛛だ。恐ろしく、美しい蜘蛛だ。自分が彼女に捧げた愛も熱情も、たゞ彼女の網にかゝつた蝶の身悶えに、過ぎなかつたのだ。彼女は、彼女の犠牲の悶えを、冷やかに楽しんで見てゐたのだ。
今年の二月、彼女は自分に、愛の印だと云つて、一個の腕時計を呉れた。それを、彼女の白い肌から、直ぐ自分の手首へと、移して呉れた。彼女は、それをかけ替のない秘蔵の時計であるやうなことを云つた。彼女を、純真な女性であると信じてゐた自分は、さうした賜物を、どんなに欣んだかも知れなかつた。彼女を囲んでゐる多くの男性の中で、自分こそ選ばれたる唯一人であると思つた。勝利者であると思つた。自分は、人知れず、得々として之《こ》れを手首に入れてゐた。彼女の愛の把握が其処にあるやうに思つてゐた。彼女の真実の愛が、自分一人にあるやうに思つてゐた。
が、自分のさうした自惚は、さうした陶酔は滅茶苦茶に、蹂み潰されてしまつたのだ。皮肉に残酷に。
昨日自分は、村上海軍大尉と共に、彼女の家の庭園で、彼女の帰宅するのを待つてゐた。その時に、自分はふと、大尉がその軍服の腕を捲り上げて、腕時計を出して見てゐるのに気が附いた。よく見ると、その時計は、自分の時計に酷似してゐるのである。自分はそれとなく、一見を願つた。自分が、その時計を、大尉の頑丈な手首から、取り外した時の駭《おどろ》きは、何んなであつたらう。若《も》し、大尉が其処に居合せなかつたら、自分は思はず叫声を挙げたに違《ちがひ》ない。自分が、それを持つてゐる手は思はず、顫へたのである。
自分は急《せ》き込んで訊いた。
「これは、何処からお買ひになつたのです。」
「いや、買つたのではありません。ある人から貰つたのです。」
大尉の答は、憎々しいほど、落着いてゐた。しかも、その落着の中に、得意の色がアリ/\と見えてゐるではないか。
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七
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――その時計は、自分の時計と、寸分違つてはゐなかつた。象眼の模様から、鏤めてあるダイヤモンドの大きさまで。それは、彼女に取つてかけ替のない、たつた一つの時計ではなかつたのか。自分は自分の手中にある大尉の時計を、庭の敷石に、叩き付けてやりたいほど興奮した。が、大尉は自分の興奮などには気の付かないやうに、
「何うです。仲々奇抜な意匠でせう。一寸類のない品物でせう。」と、その男性的な顔に得意な微笑を続けてゐた。自分は、自分の右の手首に入れてゐるそれと、寸分違
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