夫人は、口でこそ青年の死を悼んでゐるものゝ、その華やかな容子や、表情の何処にも、それらしい翳さへ見えなかつた。たゞ一寸した知己の死を、死んでは少し淋しいが、然し大したことのない知己の死を、話してゐるのに過ぎなかつた。信一郎は、可なり拍子抜けがした。瑠璃子と云ふ名が、青年の臨終の床で叫ばれた以上、如何なる意味かで、青年と深い交渉があるだらうと思つたのは、自分の思ひ違ひかしら。夫人の容子や態度が、示してゐる通り、死んでは少し淋しいが、然し大したことのない知己に、過ぎないのかしら。さう、疑つて来ると、信一郎は、青年の死際の囈語《うはごと》に過ぎなかつたかも知れない言葉や、自分の想像を頼りにして、突然訪ねて来た自分の軽率な、芝居がかつた態度が気恥しくて堪らなくなつて来た。彼は、夫人に会へば、かう云はうあゝ云はうと思つてゐた言葉が、咽喉にからんでしまつて、たゞモヂ/\興奮するばかりだつた。
「妾《わたくし》、今日すつかり時間を間違へてゐましてね。気が付くと、三時過ぎでございませう。驚いて、自動車で馳せ付けましたのよ。あんなに遅く行つて、本当にきまりが悪うございましたわ。」
その癖、夫人はきまりが悪かつたやうな表情は少しも見せなかつた。あの葬場でも、それを思ひ出してゐる今も。若い美しい夫人の何処に、さうした大胆な、人を人とも思はないやうな強い所があるのかと、信一郎はたゞ呆気に取られてゐる丈《だけ》であつた。先刻からの容子を見ると、信一郎が何のために、訪ねて来てゐるかなどと云ふことは、丸切り夫人の念頭にないやうだつた。信一郎の方も、訪ねて来た用向をどう切り出してよいか、途方にくれた。が、彼は漸く心を定めて、オヅ/\話し出した。
「実は、今日伺ひましたのは、死んだ青木君の事に就てでございますが……」
さう云つて、彼は改めて夫人の顔を見直した。夫人が、それに対してどんな表情をするかゞ、見たかつたのである。が、夫人は無雑作だつた。
「さう/\取次の者が、そんなことを申してをりました。青木さんの事つて、何でございますの?」
帝劇で見た芝居の噂話をでもしてゐるやうに夫人の態度は平静だつた。
「実は、貴女《あなた》さまにこんなことをお話しすべき筋であるかどうか、それさへ私には分らないのです、もし、人違《ひとちがひ》だつたら、何《ど》うか御免下さい。」
信一郎は、女王の前に出た騎士のやうに慇懃だつた。が、夫人は卓上に置いてあつた支那製の団扇《うちわ》を取つて、煽ぐともなく動かしながら、
「ホヽヽ何のお話か知りませんが大層面白くなりさうでございますのね。まあ話して下さいまし。人違ひでございましたにしろ、お聞きいたしただけ聞き徳でございますから。」と、微笑を含みながら云つた。
信一郎は、夫人の真面目とも不真面目とも付かぬ態度に揶揄れたやうに、まごつきながら云つた。
「実は、私は青木君のお友達ではありません。只偶然、同じ自動車に乗り合はしたものです。そして青木君の臨終に居合せたものです。」
「ほゝう貴君《あなた》さまが……」
さう云つた夫人の顔は、遉《さすが》に緊張した。が、夫人は自分で、それに気が付くと、直ぐ身を躱《かは》すやうに、以前の無関心な態度に帰らうとした。
「さう! まあ何と云ふ奇縁でございませう。」
その美しい眼を大きく刮《ひら》きながら、努めて何気なく云はうとしたが、その言葉には、何となく、あるこだはりがあるやうに思はれた。
「それで、実は青木君の死際の遺言を聴いたのです。」
信一郎は、夫人の示した僅かばかりの動揺に力を得て突つ込むやうにさう言つた。
「遺言を貴君《あなた》さまが、ほゝう。」
さう云つた夫人のけだかい顔にも、隠し切れぬ不安がアリ/\と読まれた。
三
今迄は、秋の湖のやうに澄み切つてゐた夫人の容子が、青年の遺言と云ふ言葉を聴くと、急に僅《わづか》ではあるが、擾れ始めた。信一郎は手答へがあつたのを欣んだ。此の様子では、自分の想像も、必ずしも的が外れてゐるとは限らないと、心強く思つた。
「衝突の模様は、新聞にもある通《とほり》ですが、それでも負傷から臨終までは、先づ三十分も間がありましたでせう。その間、運転手は医者を呼びに行つてゐましたし、通りかゝる人はなし、私一人が臨終に居合はしたと云ふわけですが、丁度息を引き取る五分位前でしたらう、青木君は、ふと右の手首に入れてゐた腕時計のことを言ひ出したのです。」
信一郎が、茲まで話したとき、夫人の面《おもて》は、急に緊張した。さうした緊張を、現すまいとしてゐる夫人の努力が、アリ/\と分つた。
「その時計を何《ど》うしようと、云はれたのでございますか。その時計を!」
夫人の言葉は、可なり急き込んでゐた。其の美しい白い顔が、サツと赤くなつた。
「その時計
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