を返して呉れと云はれるのです。是非返して呉れと云はれるのです。」信一郎も、やゝ興奮しながら答へた。
「誰方《どなた》にでございませうか。誰方に返して呉れと云はれたのでございませうか。」
 夫人の言葉は、更に急《せ》き込んでゐた。一度赤くなつた顔が、白く冷たい色を帯びた。美しい瞳までが鋭い光を放つて、信一郎の答へいかにと、見詰めてゐるのだつた。
 信一郎は、夫人の鋭い視線を避けるやうにして云つた。
「それが誰にとも分らないのです。」
 夫人の顔に現れてゐた緊張が、又サツと緩んだ。暫らく杜絶えてゐた微笑が、ほのかながら、その口辺に現はれた。
「ぢや、誰方に返して呉れとも仰しやらなかつたのですの。」夫人は、ホツと安堵したやうに、何時の間にか、以前の落着を、取り返してゐた。
「いやそれがです。幾度も、返すべき相手の名前を訊いたのですが、もう臨終が迫つてゐたのでせう、私の問には、何とも答へなかつたのです。たゞ臨終に貴女《あなた》のお名前を囈語《うはごと》のやうに二度繰り返したのです。それで、万一|貴女《あなた》に、お心当りがないかと思つて参上したのですが。」
 信一郎は、肝腎な来意を云つてしまつたので、ホツとしながら、彼は夫人が何う答へるかと、ぢつと相手の顔を見詰めてゐた。
「ホヽヽヽヽ。」先づ美しいその唇から、快活な微笑が洩れた。
「淳さんは、本当に頼もしい方でいらつしやいましたわ。そんな時にまで私を覚えてゐて下さるのですもの。でも、私《わたくし》、腕時計などには少しも覚えがございませんの。お持ちなら、一寸拝見させていたゞけませんかしら。」
 もう、夫人の顔に少しの不安も見えなかつた。澄み切つた以前の美しさが、帰つて来てゐた。信一郎は、求めらるゝまゝに、ポケットの底から、ハンカチーフに括《くる》んだ謎の時計を取り出した。
「確か女持には違ひないのです。少し、象眼の意匠が、女持としては奇抜過ぎますが。」
「妹さんのものぢやございませんのでせうか。」夫人は無造作に云ひながら、信一郎の差し出す時計を受取つた。
 信一郎は断るやうに附け加へた。
「血が少し附いてゐますが、わざと拭いてありません。衝突の時に、腕環の止金が肉に喰ひ入つたのです。」
 さう信一郎が云つた刹那、夫人の美しい眉が曇つた。時計を持つてゐる象牙のやうに白い手が、思ひ做《な》しか、かすかにブル/\と顫へ出した。

        四

 時計を持つてゐる手が、微かに顫へるのと一緒に、夫人の顔も蒼白く緊張したやうだつた。ほんのもう、痕跡しか残つてゐない血が、夫人の心を可なり、脅かしたやうにも思はれた。
 一分ばかり、無言に時計をいぢくり廻してゐた夫人は、何かを深く決心したやうに、そのひそめた[#「ひそめた」に傍点]眉を開いて、急に快活な様子を取つた。その快活さには、可なりギゴチない、不自然なところが交つてゐたけれども。
「あゝ判りました。やつと思ひ付きました。」夫人は突然云ひ出した。
「私《わたくし》此時計に心覚えがございますの。持主の方も存じてをりますの。お名前は、一寸申上げ兼ますが、ある子爵の令嬢でいらつしやいますわ。でも、私あの方と青木さんとが、かうした物を、お取り換《かは》しになつてゐようとは、夢にも思ひませんでしたわ。屹度《きつと》、誰方にも秘密にしていらしつたのでございませう。だから青木さんは臨終の時にも、遺族の方には知られたくなかつたのでございませう。道理で見ず知らずの貴方《あなた》にお頼みになつたのでございますわ。その令嬢と、愛の印としてお取り換しになつたものを、遺品《かたみ》としてお返しになりたかつたのでは、ございませんかしら。」
 夫人は、明瞭に流暢に、何のよどみもなく云つた。が、何処となく力なく空々しいところがあつたが、信一郎は夫人の云ふことを疑ふ確《たしか》な証拠は、少しもなかつた。
「私も、多分さうした品物だらうとは思つてゐたのです。それでは、早速その令嬢にお返ししたいと思ひますが、御名前を教へていたゞけませんでせうか。」
「左様でございますね。」と、夫人は首を傾《かし》げたが、直ぐ「私を信用していたゞけませんでせうか、私が、女同士で、そつと返して上げたいと思ひますのよ。男の方の手からだと、どんなに恥しくお思ひになるか分らないと、存じますのよ。いかゞ?」と、承諾を求めるやうに、ニツコリと笑つた。華やかな艶美な微笑だつた。さう云はれると、信一郎はそれ以上、かれこれ言ふことは出来なかつた。兎に角、謎の品物が思つたより容易に、持主に返されることを、欣ぶより外はなかつた。
「ぢや、貴女《あなた》さまのお手でお返し下さいませ。が、その方のお名前|丈《だけ》は、承ることが出来ませんでせうか。貴方さまを、お疑ひ申す訳では決してないのでございますが。」と、信一郎はオヅ
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