ゞくやうに、仰しやいました。」
 信一郎は、それを聞くと、もう夫人に会ふ確な望みを得た。
「今日、お葬式がありました青木淳氏のことで、一寸お目にかゝりたいのですが……」と、云つた。少年は、又勢ひよく階段を馳け上つて行つた。今度は、以前のやうに早くは、馳け降りて来なかつた。会はうか会ふまいかと、夫人が思案してゐる様子が、あり/\と感ぜられた。五分近くも経つた頃だらう。少年はやつと、二階から馳け降りて来た。
「御紹介状のない方には、何方《どなた》にもお目にかゝらないことにしてあるのですが、貴君《あなた》様を御信用申上げて、特別にお目にかゝるやうに仰しやいました。どうぞ、此方へ。」と、少年は信一郎を案内した。玄関を上つた処は、広間だつた。その広間の左の壁には、ゴヤの描いた『踊り子』の絵の、可なり精緻な模写が掲げてあつた。


 女王蜘蛛

        一

 信一郎の案内せられた応接室は、青葉の庭に面してゐる広い明るい部屋だつた。花模様の青い絨氈の敷かれた床の上には、桃花心木《マホガニイ》の卓子《テーブル》を囲んで、水色の蒲団《クション》の取り附けてある腕椅子《アームチェイア》が五六脚置かれてゐる。壁に添うて横はつてゐる安楽椅子の蒲団《クション》も水色だつた。窓掩ひも水色だつた。それが純白の布で張られてゐる周囲の壁と映じて、夏らしい清新な気が部屋一杯に充ちてゐた。信一郎は勧められるまゝに、扉《ドア》を後にして、椅子に腰を下すと、落着いて部屋の装飾を見廻した。三方の壁には、それ/″\新しい油絵が懸つてゐた。左手《ゆんで》の壁にかゝつてゐるのは、去年の二科の展覧会にかなり世評を騒がした新帰朝のある洋画家の水浴する少女の裸体画だつた。此家の女主人公が、裸体画を応接室に掲げるほど、社会上の因襲に囚はれてゐないことを示してゐるやうに、画中の少女は、一糸も纏つてゐない肉体を、冷たさうな泉の中に、その両膝の所迄、オヅ/\と浸してゐるのであつた。その他|卓子《テーブル》の上に置いてある灰皿にも、炉棚《マンテルピース》の上の時計にも、草花を投げ入れてある花瓶にも、此家の女主人公の繊細な鋭い趣味が、一々現はれてゐるやうに思はれた。
 杜絶えたピアノの音は、再び続かなかつた。が、その音の主は、なか/\姿を現はさなかつた。少年が茶を運んで来た後は、暫らくの間、近づいて来る人の気勢《けはひ》もなかつた。三分経ち、五分経ち、十分経つた。信一郎の心は、段々不安になり、段々いら/\して来た。自分が、余りに奇を好んで紹介もなく顔を見たばかりの夫人を、訪ねて来たことが、軽率であつたやうに、悔いられた。
 その裡に、ふと気が付くと、正面の炉棚《マンテルピース》の上の姿見に、自分の顔が映つてゐた。彼が何気なく自分の顔を見詰めてゐた時だつた。ふと、サラ/\と云ふ衣擦れの音がしたかと思ふと、背後《うしろ》の扉《ドア》が音もなく開かれた。信一郎が、周章《あわて》て立ち上がらうとした時だつた。正面の姿見に早くも映つた白い美しい顔が、鏡の中で信一郎に、嫣然《えんぜん》たる微笑の会釈を投げたのである。
「お待たせしましたこと。でも、御葬式から帰つて、まだ着替へも致してゐなかつたのですもの。」
 長い間の友達にでも云ふやうな、男を男とも思つてゐないやうな夫人の声は、媚羞と狎々《なれ/\》しさに充ちてゐた。しかも、その声は、何と云ふ美しい響と魅力とを持つてゐただらう。信一郎は、意外な親しさを投げ付けられて最初はドギマギしてしまつた。
「いや突然伺ひまして……」と、彼は立ち上りながら答へた。声が、妙に上ずツて、少年か何かのやうに、赤くなつてしまつた。
 深海色にぼかした模様の錦紗縮緬の着物に、黒と緑の飛燕模様の帯を締めた夫人は、そのスラリと高い身体を、くねらせるやうに、椅子に落着けた。
「本当に、盛んなお葬式でしたこと。でも淳さんのやうに、あんなに不意に、死んでは堪りませんわ。あんまり、突然で丸切り夢のやうでございますもの。」
 初対面の客に、ロク/\挨拶もしない中《うち》に、夫人は何のこだはりもないやうに、自由に喋べり続けた。信一郎は、夫人からスツカリ先手を打たれてしまつて、暫らくは何《なん》にも云ひ出せなかつた。彼は我にもあらず、十分受け答もなし得ないで、たゞモヂ/\してゐた。夫人は、相手のさうした躊躇などは、眼中にないやうに、自由で快活だつた。
「淳さんは、たしかまだ二十四でございましたよ。確か五黄でございましたよ。五黄の申《さる》でございませうかしら。妾《わたし》と同じに、よく新聞の九星を気にする方でございましたのよ。オホヽヽヽヽ。」
 信一郎は、美しい蜘蛛の精の繰り出す糸にでも、懸つたやうに、話手の美しさに酔《ゑ》ひながら、暫らくは茫然としてゐた。

        二

 
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