からは、涙が、潸然《さんぜん》としてはふり落ちた。娘のかうした運命が、九分までは自分の責任だと思ふと、娘の額に手をやつた男爵の手は、わな/\顫へずにはゐなかつた。
美奈子は、母の兄なる光一にも、電報を打つたけれども、恐らく彼は東京を離れてゐたのだらう、夜になつても姿を見せなかつた。
東京から急を聴いて馳け付けた女中や、執事などで、瑠璃子の床は賑やかに取巻かれた。が、母を――肉親は繋がつてゐなくとも心の内では母とも姉とも思ふ瑠璃子を、失はうとする美奈子の心細さは、時の経つと共に、段々募つて行つた。
丁度夜の十時に近い頃だつた。母はやゝ安眠に入つたと見え、囈語が、暫らく杜絶えて、いやな静けさが、部屋の裡に、漂つてゐたときだつた。廊下に面した扉《ドア》を、低く、聞えるか聞えないかに、トン/\と打つ音がした。女中が立つてそれを開いたが、直ぐ美奈子の所へ帰つて来た。
「あの、お嬢さま。ホテルの支配人の方が、一寸お目にかゝりたいと申してをります。」
美奈子は、立ち上つて扉《ドア》の所へ行つた。
「どうか、一寸こちらへ。」
支配人は、美奈子に廊下へ出ることを求めた。美奈子が、一寸不安な気持に襲はれながら、続いて廊下へ出ると、支配人は声をひそめた。
「お取込みの中を、大変恐れ入りますが、今箱根町から電話がかゝつてゐるのです。実は蘆の湖で今夕水死人の死体が上つたと云ふのですが、それが二十三四の学生風の方で、舟の中に残して置いた数通の遺書で見ると、富士屋ホテルにて、青木、と書いてあつたと云ふのです。」
そこまで、聴いたとき、美奈子は自分の立つてゐる廊下の床が、ズーツと陥込むやうな感じがしたかと思ふと、支配人が駭いて彼女の右の肩口を捕へてゐた。
「あゝ危い! しつかりして下さい!」
彼女は、最後の力で、自分のよろめく足を支へた。が、暫らくの間、天井と床とがグル/\廻るやうな気がした。
「いや、お駭《おどろ》かせしてすみません、たゞ青木さんの東京のお処だけが承りたかつたのです。」
美奈子が、顫へる声で、それに答へると、支配人は幾度も詫びながら、倉卒として去つた。
もう、美奈子の弱い心は、人生の恐ろしさに、打ち砕かれてしまつてゐた。彼女が部屋へ帰つて来たとき、彼女の顔色は、傷《きずつ》いてゐる瑠璃子のそれと少しも変つてゐなかつた。
が、丁度その時に、瑠璃子は長い昏睡から覚めてゐた。美奈子の顔を見ると、彼女は懐しげな眸で物を云ひたさうにした。
「お母様! お気が付きましたか。」
少し明るい気持になりながら、美奈子は母の耳許で叫んだ。
「あゝ、美奈さん。まだ? まだ?」
五
消えかゝる灯《ともしび》のやうに、瑠璃子の命は、絶えんとして、又続いた。
翌日になつて、彼女の熱は段々下つて行つた。傷の痛みも、段々薄らいで行くやうだつた。が、衰弱が、いたましい衰弱が、彼女の凄艶な面《おもて》に、刻一刻深く刻まれて行つた。
彼女の枕頭に、殆ど附き切つてゐる近藤博士の顔は、それにつれて、憂はしげに曇つて行つた。
「何《ど》うでせう、助かりませうか。」
父の男爵は、傍に誰もゐないのを見計《みはから》うて、囁くやうに訊いた。
「希望はあります。けれど……」
さう答へたまゝ、博士の口は重く噤《つぐ》まれてしまつた。
美奈子は、さうした問を発することが、恐ろしかつた。彼女はたゞ、力一杯、心と身体との力一杯消え行かうとする母の魂に、縋り付いてゐる外はなかつた。昨夜中、眠らなかつた美奈子の身体は綿のやうに疲れてゐた。が、彼女は誰が何と勧めても母の病床を去らうとはしなかつた。
瑠璃子は、昏睡から覚める度に、美奈子の耳許近く、同一の問を繰返してゐた。が、その人は容易に、来なかつた。電報が運よく届いてゐるかどうかさへ、判然《はつきり》しなかつた。
午後三時頃だつた。瑠璃子は、その衰へた視力で、美奈子をぢつと見詰めてゐたが、ふと気が付いたやうに云つた。
「青木さんは?」
美奈子は愕然《ぎよつ》とした。彼女は、暫らくは返事が出来なかつた。
「青木さんは?」
母は、繰り返した。美奈子は、顫へる声で答へた。
「何処へ行かれたか分りませんの。あの晩からずうつと分りませんの。」
が、瑠璃子は、美奈子の表情で凡てを悟つたらしかつた。寂しい微笑らしい影が、その唇のほとりに浮んだ。
「美奈さん、本当を云つて下さい。妾《わたし》覚悟してゐますから。どうせ助からないのですから。」
美奈子は、何とも口が利けなかつた。
「自首したの?」
美奈子は、首を振つた。瑠璃子の衰へた顔に、絶望的な色が動いた。
「ぢや、自殺?」
美奈子は、黙つてしまつた。彼女の舌は、釘付けられたやうに動かなかつた。
「さう! 妾《わたし》、さうだと思つてゐたの。でも今度|
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