丈《だけ》は、妾《わたし》悪意はなかつたの。」
さう云ひながら、瑠璃子は目を閉ぢた。美奈子には凡てが判つてゐた。母は、美奈子に対する義理として、青年をあれほど、露骨に斥けたのだつた。美奈子に対する彼女の真心が、彼女を、この恐ろしい結果に導いたのだと云つてもよかつた。さう思ふと、美奈子は身も世もないやうな心持がした。
日暮に近づくに従つて、瑠璃子の容態は、険悪になつた。熱が、反対にぐん/\下つて行つた。呼吸が――それも何の力もない――愈々《いよ/\》せはしくなつて行つた。
博士は、到頭今夜中が危険だと云ふことを、宣言した。
瑠璃子に対して、死の判決文が読まれたときだつた。ホテルの玄関に、横着《よこづけ》になつた一台の自動車があつた。それは昔の恋人の危急に駭いて、瀕死の床を見舞ふべく駈け付けて来た直也だつた。熱帯地に於ける二年の奮闘は、彼の容貌をも変へてゐた。一個白面の貴公子であつた彼は、今や赭《あかぐろ》い男性的な顔色と、隆々たる筋肉を持つてゐた。見るからに、颯爽たる風采と面魂《つらだましひ》とを持つてゐた。その昔ながらに美しい眸は、自信と希望とに燃えてゐた。
六
直也が瑠璃子の部屋に入つて来たとき、瑠璃子は夢ともなく現《うつゝ》ともないやうに眠つてゐた。
生命そのもの、活動そのものと云つたやうな直也の姿と、死そのもの、衰弱そのものと云つたやうな瑠璃子の蒼ざめた瀕死の姿とは、何と云ふ不思議な、しかしあはれな、対照をしただらう。青春の美しさと、希望とに輝きながら、肩をならべて歩いた二年前の恋人同士として、其処に何と云ふおそろしい隔《へだたり》が出来たことだらう。
美奈子は、看護婦達を遠ざけた。そして、母の耳許に口を寄せて叫んだ。
「お母さま、あの、直也様がいらつしやいました。」
段々、衰へかけてゐる瑠璃子の聴覚には、それが容易には聞えなかつた。美奈子は再び叫んだ。
「お母さま、直也様がいらつしやいました。」
瑠璃子の土のやうに蒼い面《かほ》の筋肉が、かすかに、動いたやうに思つた。美奈子の声が漸く聞えたのである。美奈子は、三度目に力を籠めて叫んだ。
「お母様、直也様がいらつしやいました。」
ふと母の頬が、――二日の間に青白く萎びてしまつた頬が、ほのかにではあるがうす赤く染まつて行つたかと思ふと、その落窪んだ二つの眼から、大粒の涙がほろ/\と、止めどもなく湧き出でた。と、今まで毅然として立つてゐた、直也の男性的な顔が、妙にひきつツたかと思ふと、彼の赭《あかぐろ》い頬を、涙が、滂沱《ばうだ》として流れ落ちた。
美奈子は、恋人同士に、二人|限《き》りの久し振りの、やがて最後になるかも知れない会見を与へようと思つた。
「お母様! それでは、妾《わたくし》はお次ぎへ行つてをりますから。」
さう云つて、美奈子は次ぎの部屋に去らうとした。すると、意外にも瑠璃子は、瀕死の声を揚げて云つた。
「美奈さん! あなたも――どうか/\ゐて下さい。」
それは、かすかな、僅に唇を洩るゝやうな声だつた。
「お母様、妾《わたくし》もゐるのですか。妾もゐるのですか。」美奈子は、再び訊いた。母は、肯いた。いな肯くやうに、その重い頭を、動かさうとしたのだ。
やがて、瑠璃子は、その衰へはてた眸を持ち上げながら、何かを探るやうな眼付をした。
「瑠璃さん! 僕です、僕です。分りますか。杉野ですよ。」
直也も、激して来る感情に堪へないやうに叫びながら、瑠璃子に掩ひかぶさるやうに、その赭《あかぐろ》い顔を、瑠璃子の顔に触れるやうな近くへ持つて行つた。
瀕死の眼にも恋人の顔が分つたのだらう、彼女の衰へた顔にも嬉しげな微笑の影が動いた。それは本当に影に過ぎなかつた。微笑む丈《だけ》の力も、彼女にはもう残つてゐなかつたのだ。
「直也さん!」
瑠璃子は、消えんとする命の最後の力を、ふりしぼつたのだらう、が、しかし、それはかすかな、うめくやうな声として、唇を洩れたのに過ぎなかつた。
「何です? 何です?」
直也は、瑠璃子の去らんとする魂に、縋り付くやうに云つた。
「わ――た――し、あなたには何も云ひませんわ。たゞお願ひがあるのです。」
それだけ続けるのが、彼女には精一杯だつた。
「願ひつて何です?」
「聴いてくれますか。」
「聴きますとも。」
直也は、心の底から叫んだ。
「あの――あの――美奈さんを、貴君《あなた》にお頼みしたいのです。美奈さんは――美奈さんは――みなし――みなし――みなしご……」
そこまで、云つたとき、彼女の張り詰めた気力の糸が、ぶつりと切れたやうに、彼女はぐつたりとなつてしまつた。
母は、直也を呼んだことが、彼女自身のためではなく、母が一番信頼する直也に、自分の将来を頼む為であつたかと思ふと、美奈子は母の真
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