眼は、にぶい光を放ち、眉は釣り上がり、唇は刻一刻紫色に変つてゐた。
 美奈子が、寝室を出て、居間の方にある卓上の電話を取り上げたときだつた。彼女は、青年の寝室の扉《ドア》が開かれて、其処に寝台が空しく横たはつてゐるのを知つた。
 恐しい悲劇の実相が、彼女に判然と判つた。

        三

 医者が来るまで、瑠璃子は恐ろしい苦痛に悶えてゐた。が、彼女はその苦痛を、ぢつと堪へてゐた。華奢な身体に、致命の傷を負ひながら、彼女は悲鳴一つ揚げなかつた。たゞ抑へ切れない苦痛を、低いうめき声に洩してゐるだけであつた。
 美奈子の方が、却つて逆上してゐた。彼女は、母の胸に縋りながら、
「お母様! しつかりして下さい。しつかりして下さい!」と、おろ/\叫んでゐるだけだつた。
 その裡に、瑠璃子は、ふと閉してゐた眼を開いた。そして、異様な光を帯び初めた眸で、ぢつと美奈子を見詰めた。
「お母様! お母様! しつかりして下さい!」
 美奈子は、泣き声で叫んだ。
「美奈さん!」
 瑠璃子は、身体に残つてゐる力を、振りしぼつたやうな声を出した。
「わーたーし、わたし今度は、もう――駄目かも知れないわ。」
 一語二語、腸《はらわた》から、しぼり出るやうな声だつた。
「お母様! そんなことを! 大丈夫でございますわ、大丈夫でございますわ。」
「いゝえ! わたし、覚悟してゐますの。美奈さんには、すみませんわね。」
 さう云つた母の顔は、苦痛のために、ピク/\と痙攣した。
 美奈子は、わあつ! と泣き出さずにはゐられなかつた。
「それで、わたし貴女《あなた》に、お願ひがあるの。あの、電報を打つときに、神戸へも打つていたゞきたいの!」
 瑠璃子は、恐ろしい苦痛に堪へながら、途切れ/\に話しつゞけた。
「神戸! 神戸つて、何方《どなた》にです?」
 美奈子は、怪しみながら訊いた。
「あの、あの。」瑠璃子は苦痛のために、云ひ澱んだやうだつたが、「あの、杉野直也です。わたし、新聞で見たのです。月|初《はじめ》に、ボルネオから帰つて、神戸の南洋貿易会社にゐる筈です。死ぬ前に一度逢へればと思ふのです。」
 瑠璃子は、やつと喘ぎながら云ひ終ると、精根が全く尽きたやうに、ガクリとくづほれてしまつた。
 二年の間、恋人のことを忘れはてたやうに見せながらも、真《まこと》は心の底深く思ひ続けてゐたのであらう。恋人の消息を、外《よそ》ながら、貪り求めてゐたのであらう。
 医者が、来たのは夏の夜が、はや白々とあけ初める頃であつた。
 一時間近くもかゝつたために、瑠璃子は、多量の出血のために、昏々として人事不省の裡にあつた。
 内科専門のまだ年若い医者は、覚束ない手付で、瑠璃子の負傷を見た。
 それは、可なり鋭い洋刀《ナイフ》で、右の脇腹を一突き突いたものだつた。傷口は小さかつたが、深さは三寸を越してゐた。
「重傷です。私は応急の手当をしますから、直ぐ東京から、専門の方をお呼び下さい。今のところ生命には、別条ないと思ひますが、然し最も余病を併発し易い個所ですから、何とも申せません。」
 医者の眉は、憂はしげに曇つた。
 いたいけな美奈子には、背負ひ切れないやうな、大切な仕事を、彼女は烈しい悲嘆と驚きとの裡に処理せねばならなかつた。その中で、一番厭だつたのは、医者が去るのと、入れ違ひに入つて来た巡査との応答だつた。
「加害者は、逃げたのですか。」
 美奈子は、何とも答へられなかつた。
「その青木と云ふ学生と、貴女のお母様は何う云ふ御関係があつたのです。」
 美奈子は、何とも答へられなかつた。
「何か兇行をするに就て、最近の動機ともなつたやうな事件がありましたでせうか。」
 美奈子は、何とも答へられなかつた。たゞ、彼女自身、恐ろしい罪の審問を受けてゐるやうに、心が千々に苛なまれた。

        四

 夜は明け放れた。今日も真夏の、明るい太陽が、箱根の山々を輝々として、照し初めた。が、人事不省の裡に眠つてゐる瑠璃子は、昏々として覚めなかつた。生と死の間の懸崖に、彼女の細き命は一縷《いちる》の糸に依つて懸つてゐた。
 その日の二時過ぐる頃、美奈子の打つた急電に依つて、予《かね》て美奈子の傷を治療したことのある外科の泰斗近藤博士が、馳け付けた。が、博士に依つて、あらゆる手当が施された後も、瑠璃子の意識は返つて来なかつた。
 その前後から、烈しい高熱に襲はれ初めた瑠璃子は、取りとめもない囈語《うはごと》を云ひつゞけた。その囈語の中にも、美奈子は、母が直也と呼ぶのを幾度となく聴いた。
 夕暮になつて、瑠璃子の父の老男爵が馳け付けた。瑠璃子の近来の行状を快く思つてはゐなかつた男爵は、その娘と一年近くも会つてゐなかつた。が、死相を帯びながら、瀕死の床に横はつてゐる瑠璃子を見ると、老いた男爵の眼
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