が鳴つた。
烈しい興奮のために、頭脳《あたま》も眼も、疲れ切つてゐながら、それが妙にいら/\して、眠は何《ど》うしても来なかつた。
その裡に、到頭三時が鳴つた。
遉《さすが》に、彼女の意識は疲れてしまつた。不快な、重くるしい眠が、彼女のぐた/\になつた頭脳を蝕み始めてゐた。現《うつゝ》ともなく夢ともないやうな、いやな半睡半醒の状態が、暫らく続いた。彼女はとろとろとしたかと思ふと、ハツと気が付いたり、気が付いたかと思ふと、深い泥沼の中に、引きずり込まれるやうに、いやな眠りの中に、陥つて行つたりした。
彼女が、砂を噛むやうな現《うつゝ》と、胸ぐるしい悪夢との間に、さまよつてゐたときだつた。彼女は、何者かが自分を襲つて来るやうな、無気味な感じがした。寝室の扉《ドア》が、かすかに動いてゐるやうな感じがした。自分に襲ひかゝつてゐる人の足音を聴くやうな気がした。が、それが夢であるか現《うつゝ》であるか確める気にもなれないほど、彼女の意識は混沌としてゐた。
到頭、悪夢が、彼女を囚へてしまつた。彼女は母と一緒に田舎路を歩いてゐた。それが、死んだ母のやうでもあり、現在の母であるやうにも思はれた。ふと、地平の端に白い何物かが現れた。それが矢のやうな勢ひで、彼女達の方へ向つて来た。つい、目の前の小川を飛び越したとき、それが白い牡牛であることが、判つた。狼狽してゐる美奈子達を目がけて激しい勢ひで殺到した。美奈子は悲鳴を挙げながら、逃げた。牡牛は、逃げ遅れた母に迫つた。美奈子が、アツと思ふ間もなく、牡牛の鉄のやうな角は、母の脇腹を抉つてゐた。母の、恐ろしい呻り声が美奈子の魂を戦《をのゝ》かしたが、母の呻き声を聴いた途端に、悪夢は断《き》れた。が、不思議に呻き声のみは、尚続いてゐた。
二
悪夢の裡に聴いた呻き声を、美奈子は夢《ゆめ》現《うつゝ》の間に聞き続けてゐた。
「うゝむ! うゝむ!」
腸《はらわた》を断つやうな呻き声が、段々彼女の耳の近くに聞え初めた。彼女の意識が、醒めかゝるに連れてその呻き声は段々高くなつた。
「うゝむ! うゝむ!」
彼女は、到頭寝台の上に醒めた。醒めたと同時に、彼女は冷水を浴びたやうな悪寒を感じた。
「うゝむ! うゝむ!」
ひきしぼるやうな悲鳴は、彼女の身辺からマザ/\と起つてゐるのであつた。
「お母様!」
それは、悲鳴だつた。
「お母様! お母様!」
美奈子は、つゞけ様《さま》に、縋り付くやうな悲鳴を揚げた。
母の答はなかつた。
低い、しぼり出るやうな悲鳴が、物凄く闇の中に起つてゐるだけだつた。
「あ! お母様!」
美奈子は、堪らなくなつて、寝台から転び落ちた。
母の寝台は、二尺とは離れてゐなかつた。彼女が、顫へる手を、寝台の一端にかけたとき、生あたたかい液体が、彼女の手にベツトリと、触れた。
「お母様!」彼女の声は、わな/\と顫へてゐた。
彼女の手は、母の胸に触れた。母の華奢な肉体が、手の下でかすかにうごめいた。
「お母様! お母様! 何う遊ばしたのです。」彼女は、懸命の声を揚げた。
低い呻き声が、しばらく続いてゐた。
「お母様! お母様! 気を確《たしか》になさいませ。」美奈子は、狂つたやうに叫んだ。
母は、烈しい苦悩の下から、しぼり出すやうに答へた。
「燈火《あかり》を! 燈火を!」
傷《きずつ》ける者、死なんとする者が、第一に求めるものは光明だつた。
美奈子は立上つて電燈を探し求めた。狼狽《あわて》てゐる故《せゐ》か、電燈がなか/\手に触れなかつた。
が、やうやくスヰッチを捻つたとき、明るい光は、痛ましい光景を、マザ/\と照し出した。母の白い寝衣《ねまき》、白いシーツ、白い毛布に、夜目には赤黒く見える血潮が、ベタ/\と一面に浸んでゐる。
「あつ?」
美奈子は、一眼見ると床の上に、よろめきながら打ち倒れた。が、母を気遣ふ心が、直ぐ彼女を起ち上らせた。
「お母様! しつかりなさいませ!」
彼女は、さう叫びながら、母に縋り付いた。致命の傷を負ひながら、彼女は少しも取り乱した様子はなかつた。右の脇腹の傷口を、両手でぢつと押へながら、全身を掻きむしるほどの苦痛を、その利かぬ気で、その凜々しい気性で、ぢつと堪《こら》へてゐるのだつた。
彼女のかよわい肉体の血は、彼女が抑へてゐる両手の間から、惜しげもなく流れ出してゐるのだつた。
美奈子も一生懸命だつた。自分の寝台のシーツを取ると、それを小さく引き裂いて、母の傷口を幾重にも幾重にもくゝつた。
「お母様! 気を確《たしか》になさいませ。直ぐ医者を呼びますから。」
彼女は、母の耳元に口を寄せて、必死に呼んだ。それが、耳に入つたのだらう、母は、かすかに頭を動かした。大理石のやうに、光沢のあつた白い頬は、蒼ざめて、美しい
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