ではありません。青木君を弄んで間接に殺しながらまだそれにも懲《こ》りないで、青木君の弟である……」
「あゝもう沢山です。」青年は、相手に縋り付くやうな手付をして云つた。「判りました、よく判りました。が、証拠がありますか? 兄が弄ばれて、自殺を決心したと云ふ証拠がありますか?」
青年の眸《ひとみ》は必死の色を浮べてゐた。
「ありますとも。お見せしませう。が、さう興奮しないで、ゆつくり気を落着けて下さい。」
さう云ひながら、紳士は椅子を離れると、部屋の片隅に置いてある大きな鞄《トランク》に近づいて、それを開きながら、中から一冊のノートを取り出した。
「これです。此の筆蹟には覚えがあるでせう。」
さう云ひながら、相手はノートを、籐の卓子《テーブル》の上に置いた。青年は、焼き付くやうな眼で、それをぢつと見詰めた。表紙の青木淳と云ふ字が、いかにも懐しい兄の筆蹟だつた。
「ぢや、拝見します。」
彼はかすかに、顫へる手付で、そのノートを取り上げた。
恐ろしい沈黙が部屋の中に在つた。ノートの頁《ページ》のめくられる音が、時々気味悪くその沈黙を破つた。
二分三分、青年は、だまつて読みつゞけた。その中に、青年の腰かけてゐる椅子が、かすかな音を立て初めた。見ると、青年の身体が、怒《いかり》のために激しく顫へてゐたのである。
「何《ど》うです! これほど、確な証拠はないでせう。遭難当時のお兄《あにい》さんの心持が、ハツキリ解つてゐるでせう。途中で、奇禍に逢はれなかつたら、お兄さんは屹度《きつと》、熱海か何処かで、自殺をしてをられる筈です。」
紳士は、ノートを覗き込むやうにしながら云つた。
青年の顔は、恐ろしい感情の激発のために、紫色にふくらんでゐた。
紳士は、青年の感情をもつと狂はすやうに云つた。
「其処に白金《プラチナ》の時計のことが、書いてあるでせう。お兄《あにい》さんは、死なれる間際に、その時計を返して呉れと云はれたのです。偶然にも、その時計は、その偽りの贈物は、お兄《あにい》さんの血で、真赤に染められてゐたのです。衝突のときに、硝子《ガラス》が壊れたと見え、血が時計の胴に浸んでゐたのです。」
「それを何《ど》うしました。それを何うしました。」
青年は、激情のために、半《なかば》狂つてゐた。
「無論、それを返したのです。私は、お兄さんの心持を酌《く》んで、それを叩き返してやらうと思つたのです。それを返しながら、お兄さんの怨みを、知らせてやらうと思つたのです。ところが、残念にも、私はそれを、手もなく捲き上げられてしまつたのです。あの方は、妖婦です。僕達には、とても真面《まとも》に太刀打は出来ない人です。」
「妖婦! 妖婦!」
青年は狂つたやうに、口走つた。
「いや、その点で私はお兄《あにい》さんの、委託に背いてしまつたのです。取返しの付かないことをしてしまつたのです。が、その代り、私は貴君を何《ど》うかして、救ひたいと思つたのです。お兄《あにい》さんに対する僕の責任として、貴君が同じ過ちを犯すのを、何《ど》うかして救ひたいと思つたのです。私は、そのために、あの方に頼んだのです。青木君に対する貴女《あなた》の後悔として、青木君の弟|丈《だけ》は弄んで呉れるな。弟さん丈《だけ》は何《ど》うか、誘惑して呉れるな。私は、さう云つて事を別けて頼んだのです。それだのに、彼女はそれを冷然と跳付《はねつ》けたのです。いや、跳付けたばかりではありません。私のさうした依頼を嘲るやうに、いやそれに対する意地のやうに、わざと貴君を一緒に連れて来てゐるのです。」
六
青年の面《おもて》が、火のやうな激憤で、埋まるのを見ると、紳士はそれを宥めるやうに云つた。
「いや、貴君がお怒りになり、お駭きになるのも尤もです。が、あゝした人には、近よらないのが万全の策です。貴君が怒つて先方にぶつかつて行くと、いよ/\相手の術策に陥つてしまふのです。あの方の張つてゐる蜘蛛の網の中で手も足も出なくなつてしまふのです。たゞ、一刻も早く茲《こゝ》を去られるのが得策です。いや、茲《こゝ》ばかりではありません。夫人の周囲から[#「周囲から」は底本では「周圍から」]、絶対に去られるのが得策です。触らぬ神に祟りなしと云ふ言葉があります。まして、相手は特別、恐ろしい女神ですから。はゝゝゝゝゝゝ。」
紳士は軽く笑つた、話が、余り緊張して来たのを、わざと緩めようとして。
「然し、兎に角私としては、これでお兄《あにい》さんに対する責任を少しは尽したやうに思ふのです。さう云ふ意味で、貴君が僕の云ふことを、よく聴いて下さつたのを有難く思ふのです。いや、私が一歩遅かつたら、貴君もどんな目に逢つてゐるかも知れなかつたのです。」
紳士は、自分の忠告が間に合つたことを、欣ぶや
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