て下さい! 待つて下さい! そんなことを本当に兄が云つたですか。」
 紳士は顔|丈《だ》けを振り向けた。
「文字|通《どほり》に、さう云はれたとは云ひません。が、それと同じことを私に云はれたのです。」
「何時! 何処で?」
 青年は、可なり焦つて訊いた。
「お兄《あにい》さんが死なれる直ぐ前です。」
 さう云つて、紳士は淋しい微笑を洩した。
「死ぬ直ぐ前? それでは貴君は、兄の臨終に居合したと云ふのですか。」
 青年は、可なり緊張して訊いた。
「さうです。貴君《あなた》のお兄《あにい》さんの臨終に居合したたつた一人の人間は私です。お兄さんの遺言を聴いたたつた一人の人間も私です。」
 紳士は落着いて、静《しづか》に答へた。
「えゝつ! 兄の遺言を。一体兄は何と云つたのです。何と云つたのです。その遺言を貴君が、今まで遺族の者に、隠してゐるなんて!」
 青年は、相手を詰問するやうに云つた。
「いや、決して隠してはゐません、現在貴君に、その遺言を伝へてゐるぢやありませんか。」

        四

 紳士の言葉は、もう青年の心の底まで、喰ひ入つてしまつた。
「本当に、貴君は兄の臨終に居合したのですか。それで、兄は何と云ひました。兄は死際に何と云ひました?」
 青年は、昂奮し焦つた。
「いや、それに就いて、貴君にゆつくりお話したいと思つてゐたのです。茲《こゝ》ぢや、どうもお話しにくいですが、いかゞです僕の部屋へ。」
 紳士は可なり落着いてゐた。
「貴君さへお差支へなけれや。」
「ぢや、僕の部屋へ来て下さい。丁度|妻《さい》は、湯に入つてゐますので誰もゐませんから。」
 紳士の部屋は、階段を上つてから、左へ二番目の部屋だつた。
 紳士は、青年を自分の部屋に導くと、彼に椅子を進めて、自分も青年と二尺と隔らずに相対して腰を降した。
「申し遅れました。僕は渥美と云ふものですが。」
 さう云つて紳士は、改めて挨拶した。
「いや、実は避暑に出る前に、貴君に一度是非お目にかゝりたいと思つてゐたのです。貴君にお目にかけたいもの、貴君に申上げたいこともあつたのです。それで、それとなく貴君のお宅へ電話をかけて、貴君の在否を探つて見ると、意外にも宮の下へ来てゐられると云ふのです。それで、実は私は小湧谷の方へ行くつもりであつたのですが、貴君にお目にかかれはしないかと云ふ希望があつたものですから、二三日、此処へ宿《とま》つて見る気になつたのです。それが、意外にもホテルの玄関で貴君にお目にかゝらうとは、貴君ばかりでなく荘田夫人にお目にかゝらうとは。」
 紳士は一寸意味ありげな微笑を洩しながら、
「実は、お兄《あにい》さんが遭難されたとき、同乗してゐたと云ふ一人の旅客は私なのです。」
「えゝつ!」
 思はず、青年は、駭《おどろ》きの目を眸《みは》つた。
「お兄《あにい》さんの死は、形は奇禍のやうですが、心持は自殺です。私は、さう断言したいのです。お兄さんは、死場所を求めて、三保から豆相《づさう》の間を彷徨《さまよ》つてゐたのです。奇禍が偶然にお兄《あにい》さんの自殺を早めたのです。」
 紳士の表情は、可なり厳粛であつた。彼が、いゝ加減なことを云つてゐるとは、どうしても思はれなかつた。
「自殺! 兄はそんな意志があつたのですか。」
 青年は駭きながら訊いた。
「ありましたとも。それは、貴君にも直ぐ判りますが。」
「自殺! 自殺の意志。もしあつたとすれば、それは何のための自殺でせう。」
「ある婦人のために、弄ばれたのです。」
 紳士は苦々しげに云つた。
「婦人のために、弄ばれる。」
 さう繰り返した青年の顔は、見る/\色を変へた。彼は、心の中で、ある恐ろしい事実にハツと思ひ当つたのである。
「それは本当でせうか。貴君は、それを断言する証拠がありますか。」
 青年の眼は、興奮のために爛々と輝いた。
「ありますとも。お兄《あにい》さんの遺言と云ふのも、お兄さんを弄んだ婦人に対して、お兄《あにい》さんの恨みを伝へて呉れと云ふことだつたのです。」
「うゝむ!」
 青年は、低く呻《うな》るやうに答へた。
「実は、私はその恨みを伝へようとしたのです。が、その婦人は、恨《うらみ》を物の見事に跳ねつけてしまつたのです。そればかりでなく、死んだお兄《あにい》さんを辱めるやうなことまでも云つたのです。その婦人はお兄《あにい》さんを弄んで、間接に殺しながら、その責任までも逃れようとしてゐるのです。青木さんが、自殺の決心をしたとしても、それは私《わたくし》の故《せゐ》ではありません、あの方の弱い性格の故《せゐ》だと、その婦人は云つてゐるのです。そればかりではありません……」
 紳士も、自分自身の言葉に可なり興奮してしまつた。

        五

 紳士は興奮して叫び続けた。
「そればかり
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