つ》き当つたため、彼の疲れてゐた身体は、ひよろ/\として、二三段よろけ落ちた。
「いやあ。失礼!」
 相手の人は、駭いて彼を支へた。が、衝突の責任は、無論|此方《こつち》にあつた。
「いゝえ。僕こそ。」
 彼は、さう答へると、軽く会釈したまゝで、相手の顔も、碌々見ないで、そのまゝ階段を馳け上つた。
 が、彼が六七段も、馳け上つたときだつた。まだ立ち止まつて、ぢつと彼の後姿を見てゐた相手の男が、急に声をかけた。
「青木君! 青木君ぢやありませんか。」
 不意に、自分の名を呼ばれて、青年は駭いた。彼は、思はず階段の中途に、立ち竦んでしまつた。
「えゝつ!」
 青年は、返事とも駭きとも分らないやうな声を出した。
「間違つてゐたら御免下さい! 貴君は、青木君ぢやありませんか。あの、青木淳君の弟さんの。」
 相手は、階段の下から、上を見上げながら、落着いた声でさう訊いた。青年は、やゝほの暗い電燈の光で、振り上げた相手の顔を見た。意外にも、それは先刻散歩へ出るときに、玄関で逢つた、彼の見知らない紳士であつた。彼は、どうして此の男が、自分の名前を知つてゐるのだらうかと、不審に思ひながら答へた。
「さうです。青木です。ですが、貴君は……」
 青年は、一寸相手が、無作法に呼び止めたことを咎めるやうに訊き返した。
「いや、御存じないのは、尤もです。」
 さう云ひながら、紳士は階段を二三段上りながら、青年に近づいた。
「お兄さんの知人と云つても、ホンのお知合になつたと云ふ丈《だ》けに過ぎないのですが、然しその……」
 紳士は、一寸云ひ澱んだ。
 青年は、自分がいら[#「いら」に傍点]/\し切つてゐるときに、何の差し迫つた用もなささうな人から、たゞ兄の知人であると云つた理由|丈《だけ》で、呼び止められるのに堪へなかつた。
「さうですか。それでは、又いづれ、ゆつくりとお話しませう。一寸只今は、急いでゐますから。」
 さう云ひ捨てると、青年は振り切るやうに、残つた階段を馳け上らうとした。
 すると、紳士は意外にも、しつこく青年を呼び止めた。
「あゝ一寸お待ち下さい。私も急に、貴君にお話したいことがあるのです。」

        三

「急に話したいことがある。」未知の男からしつこく云はれると、青年はむつ[#「むつ」に傍点]とした。何と云ふ執拗な男だらう。何と云ふ無礼な男だらうと腹立たしかつた。
「いや、どんな急なお話かも知れませんが、僕はかうしてはゐられないのです。」
 青年は、さう云ひ切ると、相手を振り払ふやうに、階段を馳け上らうとした。が、相手はまだ諦めなかつた。
「青木君! 一寸お待ちなさい。貴方は、お兄《あにい》さんからの言伝《ことづて》を聴かうとは思はないですか。さうです、貴君に対する言伝です。特に、現在の貴君に対する言伝です。」
 さう云はれると、青年は遉《さすが》に足を止めずにはゐられなかつた。
「言伝《ことづて》! 死んだ兄から、そんな馬鹿な話があるものですか。」
 青年は嘲るやうに、云ひ放つた。
「いや、あるのです。それがあるのです。私は、貴君のお顔の色を見ると、それを云はずにはゐられなかつたのです。貴君は、今可なり危険な深淵の前に立つてゐる。私は貴君がムザ/\その中へ陥るのを見るに忍びないのです。お兄《あにい》さんに対する私の義務として、どうしても一言だけ、注意をせずにはゐられないのです。」
 さう云ひながら、相手は青年と同じ階段のところまで上つて来た。
「危険な深淵! さうです。貴君のお兄《あにい》さんが、誤つて陥つた深淵へ貴君までが、同じやうに陥ちようとしてゐるのです。」
 青年は、改めて相手の顔を見直した。相手が可なり真面目で、自分に対して好意を持つてゐて呉れることが、直ぐ判つた。が、相手が妙に、意味ありげな云ひ廻しをすることが、彼のいら/\してゐる神経を、更にいら立たせた。
「それが一体|何《ど》う云ふことなのです。僕には少しも分りませんが。」
 青年は、腹立たしげに、相手を叱するやうに云つた。
「それでは、もつと具体的に云ひませう。青木君! 貴君は、一日も早く、荘田夫人から遠ざかる必要があるのです。さうです。一日も早くです。あの夫人は、貴君の身体を呑んでしまふ恐ろしい深淵です。貴君のお兄《あにい》さんは、それに呑まれてしまつたのです。」
 紳士は、さう云つて、ぢつと青年の顔を見詰めた。
「貴君は、兄さんの誤《あやまり》を再び繰り返してはなりません。これは、私の忠告ではありません、死んだ兄さんのお言伝です。よくお心に止めて置いて下さい!」
 さう云ふかと思ふと、紳士は一寸青年に会釈したまゝ、階段をスタ/\と降りかけた、もう云ふ丈けのことは、スツカリ云つてしまつたと云ふ風に。
 今度は、青年の方が、狼狽して呼び止めた。
「待つ
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