れながら、夏の夜の宵闇に、その白い頬と白い頬とを触れ合せた。


 火を煽る者

        一

 青年の身体は、燃えた。
 烈しい憤怒と恨みとのために、火の如く燃え狂つた。
 彼は、その燃え狂ふ身体を、何物かに打ち突けたいやうな気持で走つた。闇の中を、滅茶苦茶に走つた。闇の中を、礫《つぶて》のやうに走つた。滅茶苦茶に、走りでもする外、彼の嵐のやうな心を抑へる方法は何もなかつた。樹にでも、石にでも、当れば当れ、川にでも渓《たに》にでも陥らば陥れ、彼はさうした必死的《デスペレエト》な気持で、獣のやうに風のやうに、たゞ走りに走つた。
 強羅の電車停留所まで、一気に馳け降りたけれども、其処には電車の影は、なかつた。彼は、そこに二三分間待つたが、心の底から沸々《ふつ/\》と湧き上つてゐる感情の嵐は、彼を一分もぢつとさせてゐなかつた。電車を待つてゐるやうな心の落着は、少しもなかつた。彼は、宮の下まで、走りつゞけようと決心した。さう決心すると、前よりは、もつと烈しい勢で、別荘が両方に立ち並んだ道を、一散に馳け始めた。
 初め馳けてゐる間、彼の頭には、何もなかつた。たゞ、彼をあんなに恥《はづか》しめた瑠璃子の顔が、彼の頭の中で、大きくなつたり、小さくなつたり、幾つにも分れて、巴《ともゑ》のやうに渦巻いたりした。
 が、だん/\走りつゞけて、早川の岸に出たときには、彼の身体が、疲れるのと一緒に、疲労から来る落着が、彼の狂ひかけてゐた頭を、だん/\冷静にしてゐた。
 彼の走る速力が緩むのと同時に、彼の頭は、だん/\いろ/\な事を考へ初めてゐた。
 彼が、死んだ兄と一緒に、荘田の家へ、出入し初めた頃のことなどが、ぼんやりと頭の中に浮んで来た。
 荘田夫人の美しい端麗な容貌や、その溌剌として華やかな動作や、その秀れた教養や趣味に、兄も自分も、若い心を、引き寄せられて行つた頃の思ひ出が、後から/\頭の中に浮んで来た。
 夫人が、多くの男性の友達の中から、特に自分達兄弟を愛して呉れたこと、従つて自分達も、頻りに夫人の愛を求めたこと、その中に、兄が夫人に熱狂してしまつたこと、兄が夫人の愛を独占しようとしたこと、兄が自分に対して軽い嫉妬を感じたこと、さうしたことが、とりとめもなく、彼の頭の中に浮んだ。
 実際、自分の兄が、夫人に対して、熱愛を懐いてゐることを知つたとき、彼は兄に対する遠慮から心ならずも、夫人に対する愛を抑へてゐた。
 突然な兄の死は、彼を悲しませた。が、それと同時に、彼の心の裡の兄に対する遠慮を取り去つた。彼は、兄に対する遠慮から、抑へてゐた心を、自由に夫人に向つて放つた。
 夫人は、それを待ち受けてゐたやうに、手をさし延べて呉れた。兄の偶然な死は、夫人と彼とを忽ち接近せしめてしまつた。
 彼は、夫人から、蜜のやうな甘い言葉を、幾度となく聴いた。彼は、夫人が自分を愛してゐて呉れることを、疑ふ余地は、少しもなかつた。
 彼は直截に夫人に結婚を求めた。
「妾《わたし》も、ぜひさうしていたゞきたいのよ。でも、もう少し考へさせて下さいよ。貴君《あなた》、箱根へ一緒に行つて下さらない。妾《わたし》、此の夏は、箱根で暮さうと思つてゐますのよ。箱根へ行つてから、ゆつくり考へてお答へしますわ。」
 夫人は、美しい微笑でさう云つた。
 箱根へ同行を誘つて呉れる! それは、もう九分までの承諾であると彼は思つた。
 箱根に於ける避暑生活は、彼に取つて地上の極楽である筈であつた。
 思ひきや、其処に地獄の口が開かれてゐようとは。
「裏切者め!」
 青年は、走りながら、思はず右の手のステッキを握りしめた。

        二

 ホテルの門に辿り着いたときにも、長い道を馳け続けたために、身体こそやゝ疲れてゐたものの、彼の憤怒は少しも緩んではゐなかつた。部屋へ飛び込めば、直ぐ鞄《トランク》の中へ、凡てのものを投げ込むのだ。もう、こんな土地には一分だつてゐたくない。彼女が、帰つて来ない裡に、一刻も早く去つてしまふのだ。
 彼は心の裡で、さうした決心を堅めながら、烈しい勢で、玄関へ駈け上つた。其処に立つてゐたボーイが、彼の面色《めんしよく》を見ると、駭《おどろ》いて目を眸《みは》つた。それも、無理はなかつた。彼の眼は血走り、色は蒼ざめ、広い白い額に、一条の殺気が迸つて、温和な上品な平素の彼とは、別人のやうな、血相を示してゐたからである。が、ボーイが、駭かうが駭くまいが、そんなことはどうでもよかつた。彼は駭いたボーイを尻目にかけながら、廊下を走るやうに馳け過ぎて、廊下の端にある二階への階段を、烈しく駆け上らうとしたときだつた。彼は余りに急いだため、余りに夢中であつたため、丁度その時、上から降りようとした人に、烈しく打《ぶ》つ衝《つか》つてしまつた。
 余りに強く衝《
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