らなく思つたことが、深く悔いられた。
 母の心持は、もつと露骨になつて来た。
「青木さん。貴君《あなた》が、妾《わたし》と結婚なさらうなんて、それは一時の迷ひです。貴君のお若い心の一時の出来心《ウィム》です。貴君には妾《わたし》の心が少しも分つてゐないのです。いゝえ、妾《わたし》の本体が少しも分つてゐないのです。妾《わたし》の心が、どんなに荒《すさ》んでゐるかそれが貴君には、少しも分つてゐないのです。妾《わたし》が、貴君を本当に愛してゐるかどうかさへ、貴君には分らないのです。さう/\、ワイルドの警句に、『結婚の適当なる基礎は相方《さうはう》の誤解なり。』と云ふ皮肉な言葉がありますが、貴君の妾《わたし》に対する、結婚申込なんか、本当に貴君の誤解から出てゐるのです。」
 青年には、瑠璃子の言葉などは、少しも耳に入つてゐないやうだつた。彼は、烈しい怒《いかり》のために、口が利けなくなつたやうに、たゞ身体を顫はせてゐる丈《だけ》だつた。
 が、そんなことは少しも意に介せないやうに、瑠璃子は落着いた口調で、話しつゞけた。
「貴君《あなた》は、妾《わたし》の心持が分らないばかりでなく、貴君に対する誰の心持も分つてゐないのです。貴君には、まだ、本当に人の心が分らないのです。真珠のやうな美しい――いゝえ、どんな宝石にも換へがたいやうな、美しい心を持つた処女が、貴君に恋しても、貴君には、それが分らないのです。貴君はもつと足を地上に降して、しつかり物を見なければならないと思ひます。」
 美奈子は、母の言葉を聴くと、地の中へでも消えてしまひたいやうな恥かしさと、母の自分に対する真剣な心づくしに対する有難さとで、心の中が一杯になつてしまつた。
 が、茲《こゝ》まで黙つて聴いてゐた青年は、憤然として、立ち上つた。
「奥さん! もう沢山です。貴女は、僕を散々恥しめて置きながら、此の上何を仰しやらうと云ふのです。男として、堪へられないやうな恥辱を僕に与へて置きながら、此上何を云はうと仰しやるのです。貴女に対する僕の要求は、全か無かです。弟に対する愛、そんな子供だまし[#「だまし」に傍点]のやうなお言葉で、いつまで僕を操らうとなさるのです。奥さん、僕はこれで失礼します。二度と貴女には、お目にかゝらない心算《つもり》です。男性に対する貴女の態度が、何時まで天罰を受けずにゐるか外《よそ》ながら拝見してゐるつもりです。僕の貴女に対する恋、それは、僕に取つては初恋です。大切な懸命な初恋でした、凡てを犠牲にしてもいゝと思つた初恋です。が、それが……」
 青年は、茲《こゝ》まで云ふと、自分自身で、こみ上げて来る口惜しさに堪へ切れなくなつたやうに、ハラ/\と涙を落した。
「……それが貴女のために、ムザ/\と蹂み躙られてしまつたのだ。覚えていらつしやい! 奥さん。」
 彼は、自分の感情を抑へ切れなくなつたやうに、かう叫んだ。
 立つてゐる華奢な長身が、いたましくわなわな[#「わなわな」に傍点]と顫へて、男泣きの涙が、幾条《いくすぢ》となく地に落ちた。先刻《さつき》から美奈子は、青年の容子を見てゐるのに、堪へないやうに、目を伏せてゐたが何と思つたのか此時ふと顔を上げた。
「お母様!」
 彼女はかすれたやうな声で、初めて口を開いた。

        六

「お母様!」
 さう叫んだ美奈子の言葉には、思ひ切つた処女の真剣さが、籠つてゐた。
「お母様、あのう、もう一度、どうぞもう一度、ゆつくりお考へ下さいませ。青木さんが何《ど》う仰しやつたのか知りませんが、もう一度考へ直して下さいませ。妾《わたくし》、妾……」
 美奈子は、もつと何か云ひたさうだつたが、烈しい興奮のために、胸が迫つたのだらう、そのまゝ口籠つてしまつた。
 去りかけようとした青年は、美奈子の言葉を聴くと、一寸ためらひながら、美奈子の方を振り返つた。
「美奈子さん。貴女の御厚意は、大変有難うございます。が、もう凡ては終つたのです。僕の心は、蹂み躙られたのです。僕の心には、今悲みと怨みとがあるばかりです。さやうなら、貴女には、いろ/\失礼しました。」
 さう云ひ捨てると、青年は弾かれたやうに、身体を飜すと、緩い勾配の芝生の道を、一気に二十間ばかり、馳け降りると、その白い浴衣《ゆかた》を着た長身で、公園の闇を切る姿を見せてゐたが、直ぐ樹立の蔭に見えずなつた。
 美奈子は、淋しみとも悲しみとも、あきらめ[#「あきらめ」に傍点]とも付かぬ心で、消えて行く青年の姿を追うてゐた。
 瑠璃子も、一寸青年の後姿を見てゐたやうだつたが、直ぐ思ひ返したやうに立ち上ると、美奈子の傍に寄つて来て、すれ/\に腰をかけた。
「美奈子さん! 駭いて?」
 軽く左の手を、美奈子の肩にかけながら、優しく訊いた。
「はい。青木さんが、お気の毒でございま
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