さん、貴女《あなた》には、お話《はなし》しなかつたけれども、妾《わたし》青木さんから、一昨日の晩、突然結婚の申込を受けたのです。さうして、それに対する諾否のお返事を、今晩しようと云ふお約束をしたのです。結婚の申込を直接受けたことを、妾《わたし》本当に心苦しく思つてゐるのです。せめて、お返事をするとき丈《だけ》でも貴女《あなた》に立ち合つていただきたいと思ひましたの。」
美奈子は、何と返事をしてよいか、皆目分らなかつた。たゞ、彼女にも、ボンヤリ分つたことは、美奈子が母と青年の密語を、立ち聴きしたことを、母が気付いてゐると云ふことだつた。美奈子が、居堪《ゐたゝ》まれなくなつて逃げ出したときの後姿を、母が気付いたに違ひないと云ふことだつた。
さう思ふと、自分の心持が、明敏な母に、すつかり悟られてゐるやうに思はれて、美奈子は一言も返事をすることさへ出来なかつた。
青年の顔は、真蒼になつてゐた。眼ばかりが、爛々と暗《やみ》の中に光つてゐた。
「ねえ! 青木さん。それでは、よく心を落ち着けて聴いて下さいませ! 妾《わたし》、あの、大変お気の毒ではございますけれども、よく/\考へて見ましたところ、貴君《あなた》のお申出《まうしいで》に応ずることが出来ないのでございます。」
瑠璃子の言葉に、闘牛が、止《とゞ》めの一撃を受けたやうに、青年の細長い身体が、タヂ/\と後へよろめいた。
彼は、両手で頭を抱へた。身体を左右に悶えた。呟きとも呻きとも付かないものが口から洩れた。
美奈子は、見てゐるのに堪へなかつた。もし、母が傍にゐなかつたら、走り寄つて、青年の身体を抱へて、思ふさま慰めてやりたかつた。
二分ばかり、青年の苦悶が続いた。が、彼はやつと、その苦悶から這ひ上つて来た。
母から受けた恥辱のために、彼の眼は血走り、彼の眥《まなじり》は裂けてゐた。
「あなたのは、お断りになるのではなくて、僕を恥しめるのです。僕がそつとお願ひしたことを、美奈子さんの前で、貴女《あなた》にはお子さんかも知れないが、僕には他人です、その方の前で、恥しめるのです。拒絶ではなくして、侮辱です。僕は生れてから、こんな辱しめを受けたことはありません。」
青年は、血を吐くやうに叫んだ。青年の言葉は、恨みと忿《いかり》のために狂ひ始めてゐた。
「貴女は、妖婦です、僕は敢て、さう申上げるのです。貴女を、貴婦人だと思つて、近づいたのは、僕の誤りでした。僕に、下さつた貴女《あなた》の愛の言葉を、貴女の真実だと思つたのが、僕の誤りでした。真実の愛を以て、貴女の真実な愛を購ふことが出来ると思つたのは、僕の間違《まちがひ》でした。奥さん! 貴女は、あらゆる手段や甘言で、僕を誘惑して置きながら、僕が堪らなくなつて、結婚を申し込むと、それを恐ろしい侮辱で、突き返したのです。此恨みは、屹度《きつと》晴らしますから、覚えてゐて下さい。覚えてゐて下さい。」
青年は、狂つたやうに、瑠璃子を罵りつゞけた。
瑠璃子は、青年の罵倒を、冷然と聞き流してゐたが、青年の声が、漸く絶えた頃に、やつと口を開いた。
「青木さん! 貴君《あなた》のやうに、さう怒るものぢやなくつてよ。妾《わたし》の貴君に対する愛が、丸切り嘘だと云ふのは、余りヒドいと思ひますわ。妾《わたし》が、貴君を愛してゐることは本当ですわ。たゞ、その愛は夫に対するやうな愛ではなくて、弟に対するやうな愛なのです。妾《わたし》、昨日今日考へて、やつとそれが分つたのです。妾《わたし》、貴君を弟に持ちたいと思ふわ。が、貴君を夫にしようとは、夢にも思つたことはないわ。が、夫以外の一番親しいものとして、妾《わたし》貴君に何時までも、何時までも、交際《つきあ》つていたゞきたいと思ふのよ。ねえ! 美奈さん。貴女に妾《わたし》の心持は分らない!」
瑠璃子は、意味ありげに、美奈子を顧みた。今まで少しも、分らなかつた今夜の瑠璃子の心持が、闇の中に、一条の光が生れたやうに、美奈子にもほの[#「ほの」に傍点]/″\と分つて来たやうに思へた。
五
美奈子には、母の心持が、朝霧の野に、日の昇るやうに、やうやく明かになつて来た。
母は自分の心持をスツカリ気付いたのだ。青年に対する自分の心持をスツカリ知つて了つたのだ。
母が、自分の面前で、何のにべ[#「にべ」に傍点]もないやうに、青年を斥けたのも、みんな自分に対する義理なのだ。自分に対する母の好意なのだ。自分に対する母の心づくしなのだ。さう思ふと、烈しい恥かしさを感じながら、母に対する感謝の心が、しみ/″\と、胸の底深くにじん[#「にじん」に傍点]で出た。
母は、やつぱり自分を愛して呉れる、自分のためには、どんなことでも、しかねないのだ。さう思ふと、美奈子は、母に対して昨日今日、少しでも慊
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