た。冗談を云つてゐるのでもなければ、揶揄《からか》つてゐるのでもなければ、じら[#「じら」に傍点]してゐるのでもなかつた。彼女も、今夜は別人のやうに真面目であつた。
「忘れる? 一昨日の晩!」青年は首を傾げる様子をした。が、彼の態度は如何にも苦しさうであつた。「僕には、ちつとも解りません。一昨日の晩、僕が何か申上げたでせうか。」
青年の声は、わな/\と顫へた。彼はその言葉を、瑠璃子に投げ付けるやうに云つた。
が、その投げ付けたつもりの言葉の裡に、みじめ[#「みじめ」に傍点]な哀願の調子が、アリ/\と響いてゐた。
青年の哀願の調子を跳ね付けるやうに、瑠璃子の言葉は、冷たく無情だつた。
「一昨日の晩のお話のお返事を、妾《わたし》今夜致さうと思ひますの。」
風が、少し出た故《せゐ》だらう、冷たい噴水の飛沫が三人の上に降りかゝつて来た。
三
瑠璃子の言葉は、これから判決文を読み上げようとする裁判長の言葉のやうに、峻厳であつた。
青年は瑠璃子の言葉を聴くと、もう黙つてはゐられなかつた。『抜く抜く』と云ふ冗談が、本当の白刃になつたやうに、彼はもうそれを真正面から受止める外はなかつた。
「奥さん、貴女《あなた》は何を仰しやるのです。貴女は、お約束をお忘れになつたのですか。あれほど僕がお願ひしたお約束をお忘れになつたのですか。」
美奈子が、真中にゐることも、もうスツカリ忘れたやうに、青年は我を忘れて激昂した。興奮に湧き立つた温かい呼吸《いき》が、美奈子の冷い頬に、吐き付けられた。
「お約束? お約束を忘れないからこそ、今夜お返事すると云つてゐるのぢやありませんか。」
「何! 何! 何と仰しやるのです。」
青年はスツクと立ち上つた。もう美奈子を隔てゝ、話をするほどの余裕もなくなつたのであらう、彼は、烈しく瑠璃子の前に詰めよつた。
美奈子は、浅ましい恐ろしい物を見たやうに、面《おもて》を伏せてしまつた。
「奥さん! 貴女《あなた》は、貴女は何を仰しやるのです。僕! 僕! 僕が、一昨夜申上げたこと、あのお返事を今、なさらうとするのですか。あの、あのお返事を!」
激しい興奮のために、彼の身体は顫へ、彼の声は裂け、彼の言葉は咽喉にからんで、容易には出て来なかつた。
「まあ! お坐りなさい! さう、貴君《あなた》のやうに興奮なさつては、話が、ちつとも分らなくなりますわ。まあ! 坐つてお話しなさいませ。妾《わたし》、今夜はよくお話したいと思ひますから。」
瑠璃子の態度は、水の如く冷たく澄んでゐた。たしなめ[#「たしなめ」に傍点]られて、青年は不承々々に元の席に復したが、彼の興奮は容易には去らない。彼は火のやうに、熱い息を吐いてゐた。
「坐ります。坐ります。が、あのお話を、今|茲《こゝ》でなさるなんて、あんまりではありませんか。あれは、僕|丈《だけ》の私事です。私事的《プライヴェート》な事です。それを今茲でお話しになるなんて、あんまりではありませんか。あの晩、僕が何と申上げたのです。あの晩申上げた事を、貴女は覚えてゐて下さらないのですか。」
青年は、美奈子が聴いてゐることなどは、もう介意《かま》つてゐられないやうに、熱狂して来た。
美奈子は、真中でぢつと聴いてゐるのに堪へられなくなつて来た。彼女は、勇気を鼓舞しながら、口を開いた。
「あのう、お母様! 妾《わたくし》は一寸失礼させていたゞきたいと思ひますわ。お話が、お済みになつた頃に帰つて参りますから。」
美奈子は、皮肉でなく真面目にさう云はずにはゐられなかつた。
溺れる者は、藁をでも掴むやうに、青年はもう夢中だつた。
「さうです。奥さん! もし貴女《あなた》が、あの晩の話のお返事をして下さるのなら、失礼ですが、美奈子さんに、一寸失礼させていたゞきたいのです。あれは、僕の私事です。あのお返事なら、僕一人の時に承はりたいのです。」
興奮した青年に、水を浴せるやうに、瑠璃子は云つた。
「いゝえ! 妾《わたし》、美奈さんにも、是非とも聴いていたゞきたいのですわ。一昨夜も、あんなお話なら美奈さんに立ち合つていたゞきたいと思つたのです。あんなお話は、二人切りで、すべきものではないと思ひますもの。たゞさへ、妾《わたし》色々な風評の的になつて、困つてゐるのですもの。あゝいふお話はなるべく陰翳の残らないやうに、ハツキリと片を付けて置きたいと思ひますの。ねえ、美奈さん、貴女このお話の、証人《ウイットネス》になつて下さるでせうねえ。」
「あ! 奥さん! 貴女《あなた》は! 貴女は!」
青年は、狂したやうに叫びながら立ち上ると、続けざまに、地を踏み鳴らした。
四
青年が、狂気したやうに、叫び出したのにも拘はらず、瑠璃子は、冷然として、語りつゞけた。
「美奈
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