すわ。」
美奈子は、消え入るやうな声で云つた。彼女は暫く考へてゐたが、
「青木さんなんかよりも、妾《わたし》美奈さんに済まないと思つてゐますの。どうぞ、堪忍して下さい。どうぞ。」
母の声には、深い本心が、アリ/\と動いてゐた。美奈子でさへ、一度も聴いたことのないやうなしんみりとした、心の底からにじみ出たやうな声だつた。
「美奈さん。間違つてゐたら、御免なさい。妾《わたし》、貴女のお心が分つたの。青木さんに対する貴女のお心が。」
さう、心の底を見抜かれると、美奈子は、サツと色を変へながら、うつ伏してしまつた。
「美奈さん、貴女《あなた》は、一昨日の晩、妾《わたし》と青木さんとが、話したことをすつかり、お聴きになつたのでせう。いゝえ、貴女がお聴きになつたのではなく、貴女がいらつしやるとは知らずに、妾《わたし》達がいろ/\なことを話しましたでせう。妾《わたし》、あの晩部屋へ帰らうとして、外出なさらうとする貴女のお顔を見たときに、もう凡てが分つたやうな気がしたのです。絶望その物のやうな貴女のお顔を見て、妾《わたし》は、凡てが分つたやうな気がしたのです。妾《わたし》は、それまでにもしやと思つたことが、一二度あつたのです。そのもしや[#「もしや」に傍点]が、本当だと云ふことが分ると、妾《わたし》は、大変なことが起つたと思つたのです。妾《わたし》の犯した失策が、取り返しのつかないものだと云ふことを知つたのです。」
母の言葉が、ます/\真剣な悲痛な響を帯びて来た。
美奈子は、俎上に上つたやうな心持で、母の言葉をぢつと聴いてゐる外はなかつた。恥かしさと悲しさとで、裂けるやうな胸を持ちながら。
「妾《わたし》、今度のことで、妾《わたし》の生活が全然破産したことを知つたのです。男性に向つて吐いた唾が、自分に飛び返つて来たことを知つたのです。どうか、美奈さん。妾《わたし》の懺悔を聴いて下さい。」
快活な、泣き言などは、ちつとも云つたことのない母の声が、悲しみに湿《うる》んでゐた。
七
「青木さんなんかに、妾《わたし》初めから、何の興味も持つてゐなかつたのです。青木さんを箱根へ連れて来たのなども、妾《わたし》のホンの意地からなのです。ある別な男の方に対する妾《わたし》の意地からなのです。ある男の方が、妾《わたし》に、青木さん丈《だ》けは、誘惑して呉れては困ると言つたやうな、おせつかいなことを言つたものですから、妾《わたし》はつい反抗的に、意地であの方を箱根へ連れて来たくなつたのです。外《よそ》ながら、そのおせつかいな人に思ひ知らせて、やりたくなつたのです。美奈子さん、それが妾《わたし》の性分なのです。今までの妾《わたし》の生活、貴女のお家へ来たことなども、みんな妾《わたし》のさう云つた性分が、妾《わたし》を動かしたのです。」
母は何時になく、しんみりとした沈んだ調子になつてゐた。短い沈黙の後で、母は再び口を開いた。
「それは、自分でも何うともすることが出来ない性分です。誰かから抑へられると、その二倍も三倍もの烈しさで、跳《はね》返したいやうな気になるのです。それが、妾《わたし》の性格の致命的《フェータル》な欠陥かも知れません。妾《わたし》は自分のさうした性分のために、自分の一生を犠牲にしたのではないかとさへ、此頃考へてゐるのです。」
母は、かう言つて悵然《ちやうぜん》[#ルビの「ちやうぜん」は底本では「ちやうだん」]としたが、また直ぐ言葉を続けた。
「子供が、触つてはいけないと言はれた草花に、却つて触りたくなるやうな心持で、青木さんを、わざと箱根へ連れて来たのです。あの人に何の興味があつたと云ふ訳でもないのです、おせつかいなことを言つた人に対する意地で、ついそんなことをしてしまつたのです。それから、恐ろしい罰を受けようとは夢にも知らなかつたのです。」
母の言葉は、沈み切つてゐた。強い悔《くい》が、彼女の心を苛んでゐることを示してゐた。
「妾《わたし》の想像が違つたら、御免下さい。貴女の清浄《しやうじやう》な純な心に映つた男性を妾《わたし》が奪ふと云ふ恐ろしいことをしてゐたのです。美奈さん! 許して下さい。美奈さん。」
涙などは、今まで一度も流したことのない母の声が、湿《うる》んでゐた。
「貴女に対して、何とお詑びしていゝか分らないのです。貴女の心に萌んだ美しい想《おもひ》の芽を妾《わたし》が蹂躙してゐようとは、妾《わたし》が! 貴女を何物よりも愛してゐる妾《わたし》が。」
瑠璃子の眼に、始めて涙が光つた。
「取り返しの付かない、恐ろしいことです。妾《わたし》が、たゞホンの悪戯《いたづら》のために、ホンの意地の為めに、宝石にも換へがたい貴女の純な感情を蹂み躙つてゐようとは、思ひ出す丈《だけ》でも、妾《わたし》の心
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