一人ホテルの図書室へでも行かうと思つた。さうすれば、青年は彼の希望通り、母とたつた二人|限《き》りで、散歩に行くことが出来るだらう。母も、自分に何の気兼なしに青年とたつた二人、散歩に出ることが出来るだらう。
 美奈子は、さう思ひながら、そつと母達から離れる機会を待つてゐた。が、母は故意にやつてゐると思はれるほど、美奈子から眼を離さなかつた。美奈子は、仕方なしに、一緒に部屋へ帰つて来た。
 部屋に帰つてから、暫くの間、瑠璃子は黙つてゐた。五分十分経つに連れて、青年がぢりぢりし初めたことが、美奈子の眼にも、ハツキリと判つた。而も、青年がいら/\してゐることが、自分がゐるためであると思ふと、美奈子は何《ど》うにも、辛抱が出来なかつた。自分が、青年の大事な大事な機会の邪魔をしてゐると思ふと、美奈子は何うにも、辛抱が出来なかつた。
「妾《わたくし》、お母様、図書室へ行つて来ますわ。一寸本が読みたくなりましたから。」
 美奈子は、さう云つて、母の返事をも待たず、つか/\と部屋を出ようとした。
 母は、駭いたやうに呼び止めた。
「図書室へ行くのなんかおよしなさいね。昨夕《ゆうべ》は出なかつたから、今日は散歩に出ようぢやありませんか。」
 美奈子は、一寸駭いて足を止めた。ふと気が付くと、青年の顔は烈しい怒りのために、黒くなつてゐた。

        六

 美奈子は、母の真意を測りかねた。
 母も、確《たしか》に青年とたつた二人|限《きり》、散歩する約束をした筈である。そして、あの大切な返事を青年に与へる約束をした筈である。それだのに、なぜ自分を呼び止めるのであらう。さうした機会を、彼等に与へようとして、席を外さうとする、自分を呼び止めるとは。
「えゝつ!」美奈子は、つい返事とも、駭きとも何とも付かぬ言葉を出してしまつた。
「ねえ! 図書室なんか、明日いらつしやればいゝのに。今夜は強羅公園へ行かうと思ふの。ねえ! いゝでせう。」
 母はいつもよりも、もつと熱心に美奈子に勧めた。
「でも。」
 美奈子は、躊躇した。彼女は、さうためらひながらも、青年の顔を見ずにはゐられなかつたのである。彼は、部屋の一隅の籐椅子に腰を下してゐたが、その白い顔は、烈しい憤怒のために、充血してゐた。彼は、爛々たる眸を、恨めしげに母の上に投げてゐたのである。美奈子は、さうした青年の容子を見ることが、心苦しかつた。彼女は、青年のために、心の動顛してゐる青年のためにも、母の勧めに、おいそれと従ふことは出来なかつた。
「いゝぢやありませんの。図書室なんか、今晩に限つたことはないのでせう。ねえ! いらつしやい。妾《わたし》お願ひしますから。」
 母は、余儀ないやうに云つた。さう云はれゝば、美奈子は、同行を強ひて断るほどの口実は何もなかつた。たゞ彼女には、自分を極力同行せしめようとする母の真意が、何うしても分らなかつた。
「ねえ! 青木さん! 美奈さんと、三人でなければ面白くありませんわねえ。二人|限《きり》ぢや淋しいし張合がありませんわねえ!」
 母は、青年に同意を求めた。
 何もかも知つてゐる美奈子は、母のやり方が、恐ろしかつた。青年が、嫌ひだと云ふものを、グングン咽喉に押し込むやうな、母の意地の悪い逆な態度が、恐ろしかつた。美奈子は、ハラハラした。青年が、母の言葉を、何う取るかと思ふと、ハラ/\せずにはゐられなかつた。青年は、果してカツとなつたらしかつた。それかと云つて、美奈子の前では、何の抗議を云ふことも出来ないらしかつた。
「僕! 僕! 僕は、今日は散歩に行きたくありません。失礼します、失礼します。」
 それが、青年の精一杯の反抗であつた。青年の顔は、今蒼白に変じ、彼の言葉は、激昂のために、顫へた。
「何故?」瑠璃子は詰問するやうに云つた。
「何故いらつしやらない。だつて、貴君は先刻《さつき》食堂で、今夜は強羅まで行かうと仰しやつたのぢやないの。今になつて、よさうなんて、それぢや故意に、妾《わたし》達の感情を害しようとなさつてゐるのだわ。」
 青年は、唇をブル/\顫はした。が、美奈子の前では、彼は一言も、本当の抗議は云へなかつた。
『貴女は約束と違ふぢやありませんか。なぜ、美奈子さんをお連れになるのです。』それが、青年の心に、沸々《ふつ/\》と湧き立つてゐる云ひ分であつた。が、それを、何うして美奈子の前で口にすることが出来るだらう。
 青年の、籐椅子の腕に置いてゐる手が、わなわな顫へるのに、美奈子は、先刻から気が付いてゐた。
 母の皮肉な逆な態度が、どんなに青年の心を虐げてゐるかが、美奈子にもよく判つた。美奈子は、もう一度、青年を救つてやりたいと思つた。
「妾《わたくし》やつぱり、図書室へ参りますわ。今日急に、お関所の歴史が知りたくなりましたの。」

        
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