「お関所の歴史なんか、今夜ぢやなくてもいゝぢやないの。」
 瑠璃子は、美奈子が、再度図書室へ行かうと云ふのを聴くと、少しじれ[#「じれ」に傍点]たやうに、さう云つた。
「何うして妾《わたし》と一緒に行くのが、お嫌ひなの。美奈さんも、青木さんも、今夜に限つて何うしてそんなに煮え切らないの。」
 瑠璃子は、青年の火のやうな憤怒も、美奈子の苦衷も、何も分らないやうに、平然と云つた。
「ねえ! 美奈さん、お願ひだから行つて下さいね。貴女が、行きたがらないものだから、青木さんまでが、出渋るのですわ。ねえ! さうでせう、青木さん!」
 弱い兎を、苛責《いぢ》める牝豹か何かのやうに、瑠璃子は何処までも、皮肉に逆に逆に出るのであつた。美奈子は、青年の顔を見るのに堪へなかつた。青年がどんなに怒つてゐるか、また美奈子がゐるために、その怒《いかり》を少しも洩すことが出来ない苦しさを察すると、美奈子は気の毒で、顔を背けずにはゐられなかつた。
 瑠璃子には、青年の憤怒などは、眼中にないやうだつた。それでも、暫くしてから、青年をなだめ[#「なだめ」に傍点]るやうに云つた。
「さあ! 三人で機嫌よく行かうぢやありませんか。ねえ! 青木さん。何をそんなに、気にかけていらつしやるの。」
 さう、可なり優しく云つてから、彼女は意味ありげに附け加へた。
「妾《わたし》此間中から、考へてゐることがあつて、くさ/\してしまつたの。散歩でもして、気を晴らしてから、もつとよく考へて見たいと思ふの。」
 それは、暗に青年に対する云ひ訳のやうであつた。まだ、十分に考へが纏つてゐないこと、従つて今夜の返事を待つて呉れと云ふ意味が、言外に含まれてゐるやうだつた。
 それを聴くと、青年の怒りは幾分、解けたらしかつた。彼は不承々々に椅子から、腰を離した。
 美奈子も、やつと安心した。やつぱり、母は、真面目に、此二三日口も利かずに、青年の申出を、考へたに違ひない。それが、到頭纏りが付かないために、返事の延期を、青年にそれとなく求めたに違ひない。それを、青年が不承々々ではあるが、承諾した以上、今夜の約束を延ばされたのだ。さう思ふと、自分が母達に同伴することが、必ずしも青年の恋の機会の邪魔をすることではないと思ふと彼女は漸く同伴する気になつた。
 三人は、それ/″\に、いつもよりは、少しく身拵《みごしらへ》を丁寧にした。
「往きと帰りは、電車にしませうね。歩くと大変だから。」
 瑠璃子は、さう云ひながら、一番に部屋を出た。青年も美奈子も、黙つてそれに続いた。
 三人が、ホテルの玄関に出て、ボーイに送られながら、その階段を降りようとしたときだつた。暮れなやむ夏の夕暮のまだほの明るい暗《やみ》を、煌々たる頭光《ヘッドライト》で、照し分けながら、一台の自動車が、烈しい勢で駈け込んで来た。
 美奈子は、塔の沢か湯本あたりから、上つて来た外人客であらうと思つたので、あまり注意もしなかつた。
 が、美奈子と一緒に歩いてゐた母は、自動車の中から、立ち現はれた人を見ると、急に立ち竦んだやうに目を眸《みは》つた。いつもは、冷然と澄してゐる母の態度に、明かな狼狽が見えてゐた。夕暗の中ではあつたが、美しい眼が、異様に光つてゐるのが、美奈子にも気が付いた。
 美奈子も、駭いて相手を見た。母をこんなに駭かせる相手は、一体何だらうかと思ひながら。


 一条の光

        一

 相手は、まだ三十になるかならない紳士だつた。金縁の眼鏡が、その色白の面《おもて》に光つてゐた。純白な背広が、可なりよく似合つてゐた。彼は一人ではなかつた。直ぐその後から、丸顔の可愛い二十《はたち》ばかりの夫人らしい女が、自動車から降りた。
 美奈子は、夫婦とも全然見覚えがなかつた。
 瑠璃子が、相手の顔を見ると、ハツと駭いたやうに、紳士も瑠璃子の顔を見ると、ハツと顔色を変へながら、立竦んでしまつた。
 紳士と瑠璃子とは、互に敵意のある眼付を交しながら、十秒二十秒三十秒ばかり、相対して立つてゐた。それでも、紳士の方は、挨拶しようかしまいかと、一寸|躊躇《ためら》つてゐるらしかつたが、瑠璃子が黙つて顔を背けてしまふと、それに対抗するやうに、また黙つて顔を背けてしまつた。
 が、瑠璃子から顔を背けた相手は、彼女の右に立つてゐる青年の顔を見ずにはゐなかつた。青年の顔を見たときに、紳士の顔は、前よりも、もつと動揺した。彼の駭きは、前よりも、もつと烈しかつた。彼は、声こそ出さなかつたが、殆んど叫び出しでもするやうな表情をした。
 彼は、狼狽《あわて》たやうに瑠璃子の顔を見直した。再び青年の顔を見た。そして、青年の顔と瑠璃子の顔とを見比べると、何か汚らはしいものをでも見たやうな表情をしながら、妻を促して、足早に階段を上つてしまつた。
 美奈
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